四話 ポマードキライ!
恋をする男子高校生というのは、いつの時代も身だしなみに気を遣うものである。
例えそのお相手が、街で噂される都市伝説の『口裂け男の娘』であろうとも、だ。
「よし、決まったな」
洗面所の鏡の前で、俺――吉田は満足げに頷いた。
今日の俺は一味違う。レツちゃんに少しでもカッコいいと思ってもらうため、父親の部屋から借りてきた『男の身だしなみセット』で髪型をビシッと決めてきたのだ。
手のひらにたっぷりと取り、全体に馴染ませてオールバック気味に固めた髪。ほのかに漂う、ダンディで独特な強い香り。
そう、ポマードである。
昭和の男たちが愛した、クラシックかつ無骨な整髪料。
これさえつければ、どんな男も一秒で渋い大人の男に早変わりだ。
鼻にティッシュを詰めて引かれた昨日の失態を挽回するには、これくらいビシッと大人の色気を演出するのが正解に違いない。
「待っててね、レツちゃん。今日の俺は一味違うぞ」
俺はウキウキとした足取りで、いつもの通りへと向かった。
***
日が落ちかけ、街灯がポツポツと灯り始める頃。
影の中から、先端が桃色のツインテールを揺らした小柄な人影がぬっと姿を現した。
「ふ、ふふふ……来たナ、ヘンタイ野郎……!」
黒マスクをつけ、ブカブカのアウターを羽織ったレツちゃんだ。
昨日は「男だぞ!」というカミングアウトをあっさり受け入れられた挙句、鼻血を出した俺にドン引きして逃げ帰ったわけだが、今日も今日とてめげずに脅かしに来てくれたらしい。本当に健気で可愛い。
「やあレツちゃん! 今日も世界一可愛いね!」
「……っ! またそうやって、恥ずかしげもなク……! 今日コソはオマエを、恐怖のドン底に……」
威勢よく言いかけたレツちゃんが、ふと鼻をヒクつかせた。
黒マスク越しに、大きな目がパチクリと瞬きをする。
「……? ナンダ……コノ、変ナ、ニオイ……」
「ん? ああ、気づいてくれた?」
俺は爽やかな笑顔を浮かべ、ドヤ顔で前髪をファサッと手ぐしで撫で上げた。
「今日の俺、いつもと違わない? レツちゃんにカッコいいって思われたくてさ、髪セットしてきたんだよね」
「カミ……セット……?」
レツちゃんは首を傾げながら、くんくんと匂いの元を探るように俺へと一歩近づいた。
そして、俺の頭部から漂う強烈なポマードの香りをダイレクトに吸引した――その瞬間。
「――――――――ッ!?!?!?」
レツちゃんの顔から、一瞬で血の気が引いた。
白磁のような肌が、見る見るうちに土気色――どころか、真っ青を通り越し、一周まわって真っ白になっていく。
目の瞳孔がこれ以上ないほど大きく見開かれ、全身の毛が逆立ったかのようにガタガタと激しく震え始めた。
「れ、レツちゃん……?」
「ウ、ウア……ア……ッ!!」
レツちゃんは両手で顔を覆うと、言葉にならない悲鳴を上げた。
「ク、クサイ……ッ! イヤッッ!!」
「えっ!?」
脱兎。
いや、脱兎どころの騒ぎではない。
風を切る音を残し、レツちゃんは凄まじい速度で後ろを向き、目にも留まらぬ脚回転でダッシュを開始した。
疾風怒濤。弾丸のような爆走。
路地裏のアスファルトを蹴る音が「タタタタタタッ!」と高速で響き渡る。
さすがは口裂け男の娘、一般的な人間の短距離選手など足元にも及ばない猛スピードだ。
「ええっ!? なんで急に逃げるの!?」
あまりの反応の早さに一瞬呆然とした俺だったが、すぐさま現実逃避を打ち切った。
大好きなレツちゃんが、悲鳴を上げて逃げていく。
追いかけない理由がどこにある?
「待ってよレツちゃん――っ!!」
俺は地面を強く蹴りつけた。
ここで発揮されるのが、中学時代、弱小サッカー部をその圧倒的なフィジカルとスタミナで一人で支え切った元絶対的ゴールキーパー・吉田の超人的筋肉である。
日頃のトレーニングで鍛え上げられた大腿四頭筋が爆発的な推進力を生み出し、俺の巨体が風を切り裂いて加速する。
「な、ナゼ付いてクルーーッ!?」
「なぜ逃げる!?」
住宅街で繰り広げられる、異次元の鬼ごっこ。
前を走るレツちゃんがチラリと後ろを振り返り、俺が凄まじい圧で背後に迫っているのを見て「ひいぃっ!?」と引きつった悲鳴を上げた。
「ク、クルナ! 近づくナ! だ、誰かっ、タスケテ!!」
「ちょっと話を聞いてよ! 髪型不評だったなら洗ってくるからさ!!」
レツちゃんは必死だった。
しかし、相手が悪すぎた。相手は「顔が良い子を追いかけるためなら物理法則すら超える」重度の面食い男子高校生なのだ。
距離が、グングンと縮まっていく。
五メートル、三メートル、一メートル――。
「捕まえた!」
「ギャアアアアッ!?」
角を曲がろうとしたレツちゃんの前に、俺は驚異的なサイドステップで回り込んだ。
逃げ場を失ったレツちゃんは、そのまま壁際に追い詰められる。
俺は壁にバンッと両手をつき、逃げ道を完璧に塞いだ。俗に言う『壁ドン』である。逃がさない。
「はぁ、はぁ……捕まえた……。足、速くなったねレツちゃん」
「ハヒ……ぅ……な、ナゼ……ニンゲンノクセニ……ボクより速いんだ……ッ!」
レツちゃんは壁に背中を押し付け、肩を激しく上下させながら息を切らしていた。
絶望と恐怖に満ちた目で俺を見上げている。その瞳には、うっすらと涙さえ浮かんでいた。
「そんなことより、なんでそんなに必死に逃げたの? 俺、なんか悪いことした?」
「ソレ!! ソレだ!!」
レツちゃんは俺の頭を必死に指さした。
「頭! クサイ! ムリ! イヤッッ!!」
「ええ……ポマードだよ? 大人の男の香りでカッコいいかなって思ったんだけど……」
「シラナイ! ポマード、ダイキライ!!」
レツちゃんは鼻をキュッと両手でつまみ、顔を背けながら必死に訴えてきた。
「おかあさんも言ってた! ポマードはダメって! 嗅ぐだけで頭がクラクラして、力が出なくなるんだ……ッ! ニンゲン、汚い……卑怯だぞ、そんな兵器使って……ッ!」
「あ……」
俺は自分の愚かさに、ここで初めて気づいた。
口裂け女の都市伝説。
彼女たちの唯一にして最大の弱点――それこそが『ポマード』だったということを!
ポマードの匂いを嗅ぐと、口裂け女はパニックを起こして逃げ出すという有名な言い伝え。レツちゃんは『口裂け男の娘』とはいえ、生理的な拒絶反応を起こしてしまっていたようだ。
カッコつけるどころか、弱点特効の毒兵器を頭に塗りたくって会いに来ちゃったってコト……!?
「ご、ごめんレツちゃん! 知らなかったんだ! 嫌がらせのつもりじゃなくて、本当にカッコいいところ見せたくて……!」
「うう……クサイ……近寄るナ……頭イタイ……」
涙目になりながら壁際で縮こまるレツちゃん。
普段の生意気な威嚇が嘘のように、弱々しくプルプルと震えている。
胸が痛む。大好きな子を、自分の無知のせいでこんなに怯えさせてしまうなんて!
「すぐ落とす! 今すぐ洗ってくるから!」
「ウソだ……ッ! オマエ、ボクを弱らせて捕まえる気だロ……ッ!」
「捕まえないよ! ほら、公園の水飲み場あるでしょ? あそこで頭洗うから、見てて!」
俺はレツちゃんからバッと距離を取ると、先にある公園へと猛ダッシュした。
そして水道の蛇口を勢いよくひねり、冷たい水を頭から豪快に被った。
バシャバシャバシャッ!
石鹸なんてないが、手でゴシゴシと力任せに髪を洗い流す。
ポマードのギトギトした油分と匂いを消し去るため、冷水で頭皮が凍りつきそうになりながらも、必死に髪を洗い続けた。
三分後。
びしょ濡れの頭のまま、俺はレツちゃんの元へと戻った。
滴る水滴が制服の襟元を濡らしているが、そんなことはどうでもいい。
「ふぅ……ふぅ……っ! レツちゃん! どうかな、匂い落ちた!?」
少し距離を開けて、頭を差し出す。
レツちゃんは壁際から恐る恐る鼻を伸ばし、クンクンと匂いを嗅いだ。
「……ん」
ポマードの強烈な香りは消え、ただの濡れた髪の匂いと、ほのかな水道水の匂いだけになっていた。
レツちゃんはホッと胸を撫でおろし、へたりと地面に座り込んだ。
「ニオイ……消えた……」
「良かった……本当にごめんね、レツちゃん。嫌な思いさせちゃって」
俺が屈み込んで目線を合わせると、レツちゃんは濡れた髪の毛から滴を垂らしている俺の顔を、呆れたような目で見つめた。
「オマエ……バカなの?」
「え?」
「ボクの弱点を偶然突いたのに……なんで自分で解除して、頭まで濡らしてるんだヨ……」
呆れを含んだ、でもどこか毒気を抜かれたような声。
カタコトが少し混ざりつつも、素の喋り方に近くなっている。
「だって、そんな方法でレツちゃんを怖がらせたり弱らせたりしたくないもん。俺はただ、レツちゃんに『カッコいい』って言われたかっただけだし」
「ッ……!」
俺が素直に微笑むと、レツちゃんはハッと息を呑んだ。
そして、またしても顔を耳の先まで真っ赤に染め上げ、プイッと横を向いてしまった。
「バカ……。大バカ……」
「あはは、否定できないや」
「……風邪、ひく」
ボソリと、小さく呟かれた言葉。
レツちゃんはアウターのポケットから、くしゃくしゃになったハンカチを取り出すと、ポイッと俺の膝の上に投げつけてきた。
「拭け。死なれたら、困ル」
「レツちゃん……! 優しい……大好き……!」
「キライッ!!」
レツちゃんは真っ赤な顔で叫ぶと、今度こそ普通のスピードで、パタパタと走り去っていった。
去り際、チラリと振り返って俺がハンカチで頭を拭いているのを確認してから、ふっと霧のように消えた。
手に残る、ほのかに甘い桃の香りのするハンカチ。
「はは……参ったな」
頭は冷たくて寒いくらいだが、胸の奥はポカポカと温かかった。
弱点を突いてしまったのは大失敗だったが、ハンカチを貸してくれるくらいには、距離が縮まった……と思ってもいいのだろうか。
「明日は、手作りのプレゼントでも持っていこうかな」
俺はレツちゃんのハンカチで濡れた頭を拭きながら、幸せな気持ちで帰路についたのだった。




