二話 高所からの威嚇
都市伝説というのは、人々の恐怖と噂によってその存在を維持しているらしい。
だからこそ、出会った人間が「うわあああ!」と悲鳴を上げて逃げ惑うことこそが、彼ら怪異にとって最高の誉れであり、存在意義そのものなのだ。
――しかし。
「おっ、レツちゃん。また会ったね。そんな高いところで何してるの? 危ないから降りておいで」
放課後。夕闇が迫る住宅街の路地裏で、俺は、ブロック塀の上に佇む小柄な影に向かって爽やかに手を振った。
高さ二メートルほどの塀の上。そこに立っていたのは、昨日の地雷系ポメラニアン……もとい、都市伝説のレツちゃんだった。
今日のレツちゃんは、昨日挫いた足の痛みが残っているのか、厚底ブーツではなく履き慣れたスニーカー姿だ。オーバーサイズのアウターの裾を風になびかせ、黒髪ツインテールを揺らしている。
マスク越しでもわかるほど、その眉根はこれ以上ないほどギュッと中央に寄せられていた。
「オマエ……! ナゼ、怖ガラナイ……!」
悔しそうに声を震わせるレツちゃん。
緊張しているのか、それとも怒っているのか、相変わらず少しカタコトな喋り方がたまらなく愛おしい。
「なんで怖がらないって……うーん、可愛い子にしか見えないからかなぁ」
「シ、シラナイ! ニンゲンノ、タワゴト……ッ!」
バッと大きな動作で、レツちゃんが黒マスクを外し、豪快に切り裂かれた口元を剥き出しにする。
西日に照らされた鋭い八重歯がキランと光った。
「ガオーッ! 見ロ、ボクノクチ! 怖いダロッ!」
精一杯に体を大きく見せようと、塀の上で腕を大きく広げて威嚇してくる。
爪を立ててガオーッとするポーズは、怖さゼロ、可愛さ一億点満点だ。
「やっぱり八重歯が最高にチャーミング。口が大きく開くなら、一緒にご飯食べに行ったら絶対楽しいじゃん。あ、それともパフェとか好き? 俺、奢るよ?」
「パフェ……!? いや、タベモノノ、ハナシ、シテナイ……!!」
レツちゃんは「キーッ!」と地団駄を踏みそうな勢いで悔しがった。
どうやら彼女の中では、この『高所からの襲撃』は完璧な恐怖演出のはずだったのだろう。上から目線で人間を見下ろし、圧倒的な優位に立って恐怖に陥れる……という段取りだったに違いない。
「なぁレツちゃん、そんな高いところにいたら危ないよ? 下りてお話ししようよ」
「フンッ! バカメ! 手も足も出ないダロ! ここからお前を、み、ミクダシテやル!」
「見下して、ね」
「ふ、フカシギノ、キョウフヲ味わエ……ッ!」
噛み倒しながらも、自分の有利なポジションにご満悦な様子のレツちゃん。
「どうだ、見上げることしかできないだろ」と言わんばかりに、ドヤ顔で胸を張る。
可愛すぎる。あまりにも無邪気な威嚇に、俺の口角は上がりっぱなしだ。
「はいはい。すごいね、レツちゃん。大迫力だよ」
「ソ、ソウダロ! モット、ビビレ! ナミダ、流シテ、タスケヲ求めロ……ッ!」
調子に乗ったレツちゃんが、さらに大きく一歩を踏み出し、ドヤポーズを極めようとした――その時だった。
ズルッ。
「あっ」
塀の縁に積もっていた小さな砂利に、レツちゃんのスニーカーの靴底が滑った。
「あ、ワ――ッ!?」
昨日の足くじきに続き、またしても自分のドジでバランスを崩すレツちゃん。
二メートルの高さから、無防備に宙へと放り出される小さな身体。
レツちゃんの目が恐怖で大きく見開かれ、黒髪ツインテールが大きく舞い上がった。
危ないッ──
フワッと空中に浮いた華奢な身体が、重力に従って落ちてくる。
ガシッ。
「――っと、ナイスキャッチ」
ドン、という軽い衝撃。
俺は宙に舞ったレツちゃんの身体を、寸分の狂いもなく腕の中で受け止めた。
背中に回した右手と、膝裏を通した左手。完璧な『お姫様抱っこ』の体勢である。
「…………ぁ……う……」
静寂が路地裏を包み込む。
レツちゃんは自分が地面に激突していないことに気づき、ゆっくりと目を開けた。
至近距離。息が届くほどの距離で、俺とレツちゃんの視線が交差する。
夕暮れのオレンジ色の光が、レツちゃんの雪のような肌を赤く染めていた。
間近で見ると、やっぱり信じられないくらい綺麗な顔立ちをしている。八重歯が覗く大きめの口も、濡れたように揺れる大きな瞳も、全てが俺のドタイプストライクゾーンの真ん中をぶち抜いていた。
「怪我、ない? レツちゃん」
できる限り優しく、包み込むような低音で語りかける。
レツちゃんは俺の腕の中で硬直したまま、何度か瞬きをした。
「……あ……え……?」
「あぶなかったね。高いところから落ちたら、せっかくの可愛い顔に傷がついちゃうところだった」
「ひっ…………ッ!」
ようやく自分の置かれている状況を理解したらしい。
俺の腕の中で抱えられていること。
至近距離で「可愛い」と囁かれていること。
そして、怪異としての尊厳が木っ端微塵に砕け散っていること。
レツちゃんの顔が、みるみるうちに林檎のように真っ赤に染まっていく。
耳の先まで赤くなり、ツインテールが細かく震え始めた。
「な、ナニ……コレ……ッ! ハナセ! ハナセッッ!!」
「暴れると危ないって。ちゃんと降ろすから」
「ウァァァァァァッ!!」
パニックに陥ったレツちゃんは、俺の胸をポカポカと小さな拳で叩き始めた。
猫のパンチ並みに軽い衝撃だ。全く痛くない。むしろご褒美である。
ゆっくりと地面に脚を着かせてやると、レツちゃんは弾かれたように跳びのいた。
「オ、オマエ……! ニンゲンノ、クセニ……ッ!!」
「いやあ、ゴールキーパーやってて良かったよ。レツちゃんを無傷で救出できたし」
「き、キューシツ、されてなんか……!」
真っ赤な顔で、涙目になりながら指をさしてくるレツちゃん。
ハァハァと荒い息をつきながら、必死に怪異としての威厳を取り戻そうとしているが、いかんせん顔が赤すぎて説得力が皆無だ。
「照れてるレツちゃんもめちゃくちゃ可愛いね」
「て、テレ……チガウッ!!」
「明日もまた会える? 俺、放課後ならいつでも時間作れるからさ」
「ツ、ツギコソ……ッ! ツギコソ、恐怖ノドンゾコニ、落トシテヤルからナ――ッ!!」
捨て台詞のキレだけは一人前だ。
レツちゃんはそのまま、脱兎のごとき勢いで路地裏を走り去っていく。
タタタタタッと響く軽い足音。
そして――数メートル先で、またしても足をもつれさせ、情けない悲鳴とともに転びそうになりながら、霧のように消えていった。
……ドジっ子すぎる。愛おしさが留まることを知らない。
「ふぅ……」
ポツンと残された路地裏で、俺は自分の両手を見つめた。
腕の中に残る、小さくて軽い感触。ほのかに甘い、桃のような香りがまだ漂っている気がした。
なんか、男の子っぽい骨格だったな……。
お姫様抱っこをした時の感触を思い出す。
胸の膨らみは無く、腰回りも引き締まっていた。
今にして思えば、地雷系ファッション特有のオーバーサイズのアウターで誤魔化されているが、肩幅の骨格や首元のライン、声の低さのベース……どれをとっても、女の子というよりは、華奢で綺麗な男の子のそれに見える。
男の子……? え、女装男子ってコト……?
俺の中で一瞬だけ思考が巡る。
――が、次の瞬間にはどうでもよくなった。
まあ、どっちでもいいか! 顔が最高にタイプなのは紛れもない事実だし!
男だろうが女だろうが、怪異だろうが人間だろうが、この圧倒的な顔面の強さの前には一切の障害になり得ない。重度の面食いである俺の辞書に「性別の壁」などという概念は存在しなかった。
「明日はどんな風に脅かしに来てくれるのかな」
夕闇が深まる帰り道、俺はウキウキとした足取りで歩き出した。
怪異に狙われているというのに、世界がこんなにも輝いて見えるなんて、恋の力というのは本当に恐ろしいものである。




