最終話 口が裂けても
レツちゃんが俺の前に姿を消してから、一週間が過ぎていた。
放課後の校門前、夕暮れの路地裏、公園のブランコ。どこを探しても、あの黒髪ツインテールに地雷系ファッションの小柄な影は見当たらない。
風邪はすっかり治っていたが、俺の心にはぽっかりと大きな穴が開いたようだった。
「どこいっちゃったんだよ、レツ……」
何かあったのだろうか。怪異の世界でトラブルにでも巻き込まれたのだろうか。
必死に都市伝説やオカルトの噂を調べる中で、俺はあるひとつの怪しい都市伝説に行き当たった。
『深夜二時、自室で合わせ鏡をすると、怪異の棲む世界と道が繋がる。会いたい怪異の姿を強く思い浮かべれば、こちら側へ引き寄せることができる』
「……これだ」
根拠なんてどこにもない。だが、レツに会える可能性があるなら、試さない手はなかった。
——午前二時ちょうど。
自室の机の上に大きな鏡を二枚、向かい合わせになるように配置する。
部屋の明かりを消し、手元に立てた一本のローソクの炎だけがゆらゆらと闇を照らしていた。
「レツちゃん……来てくれ」
鏡の奥、無限に続く虚無の空間に向かって、俺は強く祈った。
その時だった。
ズズ……ドロリ……。
鏡の表面が波打ち、禍々しい漆黒の気配が溢れ出してきた。
部屋の温度が一気に氷点下まで下がり、ローソクの炎が青紫色に揺れる。合わせ鏡の奥から這い出てきたのは、レツではなかった。
目も鼻もない、泥のように蠢く黒い質量。異臭を放つ本物の「悪霊」だった。
『ニンゲン……喰ウ…………』
「くっ……!?」
俺は咄嗟に身構え、右拳を固めた。
中学時代から鍛え上げたフィジカルで拳を叩き込む——が、物理攻撃がすり抜ける。打撃が一切効かない。
黒い泥が鞭のようにしなり、俺の身体に巻き付こうと迫る。いくら体格が良かろうと、相手は物理法則の通らない本物の怨念だ。
「しまっ——」
逃げ場を失い、足をとられた俺の目の前に、鋭い爪のような手が振り下ろされる。
その瞬間だった。
「ヨシダに手ぇ出すなーーーッ!!」
鋭い叫び声と共に、合わせ鏡の隙間から一条の光が疾走した。
ザシュッッッ!!!
閃光が闇を切り裂く。
襲いかかってきた黒い怪異が一瞬で真っ二つに切り裂かれ、甲高い叫び声を上げて霧散していった。
静寂が戻った部屋の中。
降り立った人物の手には、可愛らしいリボンがあしらわれた、身の丈ほどもある巨大なハサミが握られていた。
風になびく桃色交じりのツインテール。息を荒くし、必死な顔で立ちすくむ少年。
「……レツ」
「ハァ……ハァ……っ! バカ! 大バカ! なんでこんな危険なことしたんだッ! 一歩間違えたら喰われて死んでタッ!!」
デカバサミを床に叩きつけるように置き、真っ赤な目で俺を怒鳴りつけた。
一週間ぶりに見るその姿。俺は胸がいっぱいになり、思わず脚を踏み出した。
「レツ……! 会いたかった! ありがとう。助けてくれて——」
「寄るなッ!」
レツが叫んだ。
その声は、怒りではなく泣きじゃくるような震えを含んでいた。
「……ッ」
レツはアウターの袖でぎゅっと目元を拭うと、黒マスクを顎の下へと引き下げた。
左右に大きく裂けた口元が、激しく震えている。涙がボロボロと溢れ落ち、透き通るような白い肌を濡らしていた。
「……ヨシダ」
「なぁに?」
「もう……会わなイ」
「……え?」
予想外の言葉に、俺の足が止まる。
「どうして……?」
「どうしてじゃナイッ!!」
レツは胸元で握り拳を作り、絞り出すように本音を叫んだ。
「ニンゲンは……すぐシヌッ! ちょっと風邪引いただけで弱るシ……怪異に襲われたら、簡単に壊れちゃうんダッ! 放っておいたら……すぐ死ヌッ!!」
レツの声が部屋に響き渡る。
「ボクは……怪異ダ。オマエよりずっと長く生きル……。いつかオマエがいなくなったら……ボク、どうしたらいいか分からないッ! ヨシダがいなくなるのが……怖イ……っ! 居なくなるくらいなら……最初から、会わない方がイイ!!」
涙で顔をグシャグシャにして泣き叫ぶレツ。
彼が姿を消していた一週間の苦悩、そして俺を失うことへの絶大な「恐怖」。都市伝説として人を怖がらせようとしていた彼が何よりも恐れていたのは、俺という人間の死だったのだ。
「レツ……」
俺はゆっくりと歩み寄り、膝をついてレツちゃんの目線に合わせた。
震えるその手を取り、そっと頬の涙を拭う。
「俺は簡単に死なないよ。レツちゃんを一人にして死んだりしない。何があっても君の側にいるから——」
「嘘ッ! ニンゲンは絶対死ヌッ! だ、だから……っ!」
恐怖に囚われたレツちゃんの心は、俺の言葉だけでは解けない。
その時だった。
「——ちょっと待ちなさいよッ!!」
凛とした甲高い声が、合わせ鏡の奥から響き渡った。
「え!?」
鏡の表面が再び揺らぎ、そこから現れたのは——クラシカルなドレスを着た金髪縦ロールのメリー先輩と、上半身だけのテケテケおばさんだった。
「メ、メリー先輩!? テケテケおばさん!?」
「ウジウジウジウジ……! 黙って聞いていれば、情けなさすぎるわよ!」
メリー先輩はビシッと指を差し、眉をひそめて一喝した。
「いつから怪異はそんな弱気になったの!? いつか死ぬから愛さないなんて、一流の怪異を目指す者のセリフかしら!? 今を全力で脅かして、今を死ぬほど愛し抜きなさいよッ!」
「そうよレツちゃん!」
テケテケおばさんも身を乗り出して力説する。
「ニンゲンの寿命が短いなら、その短い時間の中で一生分の愛を注ぎ込めばいいじゃない! あたしたち怪異はね、未練を残してなんぼなのよ!」
あまりにも怪異らしい豪快すぎる理論に、俺とレツちゃんは呆然と開いた口が塞がらなかった。
「ふふ……相変わらず、あなたたちは賑やかね」
空間の温度が、すっと静かに変わった。
メリー先輩とテケテケおばさんが静かに道を譲る。
鏡の向こうの闇から優雅に歩み出てきたのは——ロングコートを羽織った美しい黒髪の女性。本家の『口裂け女』だった。
「お……お母さん……っ!」
レツが息を呑む。
静かな足取りで部屋に入ると、涙目で固まる息子を見つめ、そしてゆっくりと俺の方へと視線を向けた。
「吉田くん」
「……はい」
俺は背筋を伸ばし、伝説の怪異の目を見つめ返した。
「あなたは……この子が怪異で、いつか種族の壁や寿命の壁にぶつかるとしても、この子を愛し続ける覚悟はあるかしら?」
「あります」
即座に答える。迷いは一切なかった。
「俺は重度の面食いです。でも、レツの見た目だけじゃなく、不器用で、一生懸命で、俺のために泣いてくれるその心が好きなんです。レツが怪異でも、寿命が違っても、関係ない。俺の命が続く限り、世界で一番幸せにしてみせます」
部屋の中に静寂が落ちる。
母親は俺の目をじっと見つめていたが——やがて、小さく目元を緩めた。
その唇が、美しく、けれど大きめに裂けた笑みを形作る。
「……合格ね、吉田くん」
「エ……お母さん……!?」
口裂け女は、驚くレツちゃんの頭を優しく包み込むように撫でた。
「ごめんなさい、レツ。私、間違ってたら。私の悲しみをあなたに押し付けて、あなたの幸せを奪うところだった……。こんなにも強くあなたを愛してくれる人がいるのに、引き離そうとするなんて野暮なことね」
「お母さん……でも……」
「大丈夫よ」
母親は愛おしそうに息子の頬の涙を拭うと、凛とした声で言った。
「失うことは、確かに苦しい。でも、それ以上に……誰かを愛おしく想い、ともに過ごす時間は……何物にも代えがたい宝物になるの」
優しく微笑み、レツの目元に温かい指先を添えた。
「口裂け女はね。口が裂けても……息子とその大切な人の絆を引き裂いたりしないわ。レツ——自分の気持ちに、嘘をついちゃダメよ」
母親の言葉がレツの胸の奥にしみ込んでいく。
俺は一歩踏み出し、まっすぐにレツを見つめた。
「よし、レツ。俺と付き合おう」
「は、はァ!?」
レツちゃんの顔が一瞬で爆発したように真っ赤に染まった。
メリー先輩が「あらあら」とほほ笑み、テケテケおばさんが「ヒューヒュー! 若いねぇ!」と歓声を上げる。
「ッ……ジャマ者は帰レーーーッ!!」
耐え切れなくなったレツちゃんは、真っ赤な顔でデカバサミを振り回して先輩怪異とお母さんを合わせ鏡の向こうへと押し返した。
「じゃあねレツちゃん! 末長くお幸せにね〜!」
「吉田くん、今度お茶会に招待するわね!」
賑やかな先輩たちと、優しく微笑むお母さんが鏡の向こうへ消え、空間の歪みがすっと収まった。
部屋に残されたのは、ろうそくの温かい光の中で顔を真っ赤にして立ち尽くすレツと、俺だけだった。
「……レツ」
「な……なニ……」
レツちゃんは黒マスクを引っ張り上げ、デカバサミを構えて俺を牽制した。だが、黒マスクの上の瞳はうるうると揺れていて、耳の先まで真っ赤だ。
俺は笑顔で一歩を踏み出し、彼の手からデカバサミをそっと受け取って床に置いた。
そして、華奢な身体を包み込むように、強く、優しく抱きしめた。
「ひ……ッ!?」
「二度と会わないなんて言わないでよ。俺、レツがいない一週間、死ぬほど寂しかったんだから」
「う……あ……っ」
俺の胸に顔を埋める形になったレツちゃんは、暴れることも忘れて小さく身を縮こまらせた。
服越しに伝わってくる、冷たいけれど確かにそこにある愛しい体温。
「——大好きだよ」
「〜〜〜〜ッ!!」
至近距離でのストレートな告白に、レツの体温が急上昇する。
レツは俺の胸を押し返しながら、涙目で叫んだ。
「バカッ!! ボクは都市伝説ダッ! オマエを恐怖の底に突き落とス。絶対諦めないんだからナッ!!」
「はいはい、楽しみにしてるよ」
照れ隠しの威嚇。
それこそが、俺の愛する世界一可愛い怪異の、最高の返答だった。




