十七話 弱さ
月明かりだけが静かに差し込む、古びた日本家屋の和室。
畳の上にちょこんと座り込み、手鏡に向かってツインテールを整えていたレツは、ふと自分の口元が緩んでいることに気づいてハッと息を呑んだ。
(ボク……また、アイツのこと考えて……)
思い出すのは、数日前の出来事だ。
風邪を引いてベッドで横になっていた吉田。いつもは圧倒的なフィジカルで迫ってくる生意気な男子高校生が、あの日はひどく弱々しかった。
手を通した時に感じた、人間の儚い体温。
「……最近、やけに楽しそうね」
背後から、しっとりと艶のある声が降ってきた。
振り返ると、そこには長身でスタイル抜群の美女——レツの母親であり、伝説の怪異である『口裂け女』が立っていた。
トレンチコートを羽織り、美しい黒髪をなびかせた彼女は、どこか微笑ましそうな目で息子を見つめている。
「お、お母さん……っ! べ、別ニ! 楽しくなんてナイ!」
「あら、そう? 毎日出かける前に鏡を見て、髪型を気にして……まるで恋でもしているみたいだわ」
「こ、恋なんてしてナイッ! ボクはただ、ターゲットを脅かすために——」
「フフ、冗談よ」
母親はクスッと上品に笑うと、レツの隣に滑らかに腰を下ろした。
そして、優しく息子の頭を撫でる。
「……何かいいことあった?」
「……っ」
レツはアウターの裾をぎゅっと握りしめ、視線を泳がせた。
嘘をつこうとしたけれど、目の前にいるのは大好きな母親だ。黒マスクの下で口元をもごもごと動かした末、ぽつりと小さな声を絞り出した。
「……トモダチ……できた」
「あら、よかったわね。どんな子?」
「……ニンゲン。ヨシダっていうノ。優しくて、カッコよくて……」
部屋を包む空気が、すっと冷ややかに張り詰めた。
「……っ」
母親の手がピタリと止まる。
レツが恐る恐る顔を上げると、いつも綺麗で完璧なお母さんが、見たこともないほど悲しげで、いまにも泣き出しそうな瞳で自分を見つめていた。
「お……母さん……?」
「……そう。人間の子なのね」
母親はゆっくりと手を引き、遠い目をして月を見上げた。
その横顔には、怪異としての恐ろしさではなく、途方もない孤独と痛みが刻まれていた。
「……レツ。人間はね、すごく弱いのよ」
「え……?」
「私たちと違って、病気にもなるし、怪我もする。少し高いところから落ちただけで死んでしまうし……百年も生きられないの」
静かな声だった。けれど、その一言一言がレツの胸に重く突き刺さる。
「あなたのお父さんのこと……話したことはなかったわね」
お父さん。
一度も会ったことのない人間の存在。
母親は静かに語り始めた。
「私はね、かつてあの方を愛していたの。あの方も、口が裂けた不気味な私を『綺麗だ』と言って笑ってくれたわ。二人で過ごした時間は、私の長い生涯の中で一番幸せだった……」
母親の瞳から、一筋の涙が頬を伝って零れ落ちた。
「でもね……人間はあっという間に歳をとって、病にかかって……私の目の前で、冷たくなってしまったの。怪異の私だけを取り残して……。あの方が亡くなった時の暗闇と絶望を、私は今でも忘れられないわ」
言葉が途切れ、沈黙が落ちる。
レツの頭の中に、先日の吉田の顔が鮮明に蘇ってきた。
熱にうなされ、真っ赤な顔で呼吸を乱していた吉田。
『シヌ……?』と問いかけた時の、あの胸を押し潰されるような恐怖。
もし、吉田がこのまま病気で死んでしまったら?
もし、人間である吉田が、怪異である自分を置いて先にいなくなってしまったら?
(やだ……っ。そんなの……ッ!)
吉田を失うイメージ。それは、どんな都市伝説よりも、どんな怪異よりも、レツにとって圧倒的な「恐怖」だった。
身体がガタガタと震えだし、レツは自分の抱える恐怖の正体に気づいて息を詰まらせた。
母親はそんなレツの肩を、包み込むように優しく抱きしめた。
「レツ。あなたに……私と同じ思いをしてほしくないの」
「……お、母さん……」
「……もう、人間と会うのはやめなさい」
静かだが、拒絶を許さない決定的な言葉。
レツは反論しようと口を開いた。けれど、喉が引きつって何も声が出ない。
吉田の顔が浮かぶ。
『今日も可愛いね』と笑う爽やかな笑顔。
『お揃いだね』と自分の口を赤ペンで塗った無邪気な顔。
『死なないよ』と優しく手を握ってくれた温もり。
あいつと、二度と会えない?
あいつの声を、二度と聞けない?
「……ッ」
レツは両手で顔を覆い、静かな部屋でただポロポロと涙を溢ぼした。
月明かりだけが、引き裂かれた小さな愛の行方を静かに照らしていた。




