十一話 来ちゃっタ
「……もっと、ヨシダ、あいたい」
昨日の放課後、夕焼けで茜色に染まる路地で投げかけられた言葉。
黒マスク越しにくぐもった、けれどはっきりと聞き取れたレツの小さな呟きが、今も俺の頭から離れない。
「学校に行ってる間は無理かなぁ」
「ガッコウ……?」
首を傾げて聞き返してきたレツに、俺は「人間が勉強するところだよ」と簡単に説明したのだったが——まさか、こんなことになるとは思ってもみなかった。
翌日。放課後、午後五時過ぎ。
日直の仕事を終え、静まり返った二年の教室に俺は一人残っていた。
オレンジ色の夕光が窓から差し込み、誰もいない机と椅子の上に長い影を落としている。鞄に教科書を詰め込み、ジッパーを閉めようとしたその時だった。
スッ……。
「うおっ!?」
誰もいないはずの廊下側のドアから、ヌッと黒い影が姿を現した。
桃色交じりの黒髪ツインテールに、見慣れた地雷系ファッションとブカブカのアウター。
黒マスクをつけた小柄な怪異——レツだ。
「レ、レツ!? なんでここに……!?」
「ここガ……ガッコウ」
レツちゃんは大きめのフードを浅くかぶり、物珍しそうに教室の中をキョロキョロと見回した。
黒板、教壇、壁に貼られたポスター、整然と並ぶ木製のデスク。すべてが彼にとって未知の領域らしく、輝く瞳で観察している。
「来てくれたんだ。でも、大丈夫だった? 見つかったらびっくりされちゃうよ」
「ダイジョウブ……! 今、ニンゲン少なイ。影から影へ……忍び込んダ!」
そう言って、胸を張るレツちゃん。
忍び込んだと言っても、立派な不法侵入な気もするが、そんなことより「俺に会いたい」という一心でわざわざ人間の学校までやってきたという事実が、俺の胸を猛烈に締め付けた。愛おしすぎて頭がどうにかなりそうだ。
「……そこ、ヨシダの席?」
「うん」
俺が窓際の立ち上がった席を指さすと、レツちゃんは「フム……」と頷き、そのままトコトコと歩み寄ってきた。
そして——俺のすぐ隣の席の椅子をサッと引き、小さな身体をちょこんと滑り込ませた。
「ヨシダの隣……」
木製の椅子に腰掛けたレツちゃんは、脚をぶらぶらと揺らしながら感心したように呟いた。
小柄な彼にとって高校生の机と椅子は少し大きすぎるらしく、背もたれにすっぽり収まっている姿が猫みたいでたまらなく可愛い。
レツちゃんは机の上に肘をついた。
そして、小さめの手のひらに自分の顎をのせ——すっと頬杖をついた。
そのまま、黒マスクをゆっくりと顎の下へと引き下げる。
夕日のオレンジ色に照らされた、透き通るような白肌。大きめに裂けた美しい口元と、キランと覗く八重歯。
そして、レツちゃんは俺の顔をじっと見つめると——。
「えへへ」
世界中のどんな宝石よりも眩しく、満開の花のように可愛らしく、純粋な笑顔を俺に向けた。
「ヨシダの、隣……」
ドクン!
「……っ!?」
直撃だった。
胸の奥で、何かが盛大に爆発したような音がした。
いつもは照れ隠しで威嚇してきたり、顔を真っ赤にして逃げ出したりするあのレツちゃんが。
無防備で、あまりにもストレートな『好意』を込めた笑顔を俺に向けてきたのだ。
視界がグラリと揺れる。
体温が一瞬で上限まで跳ね上がり、呼吸の仕方を忘れるほどの衝撃。
中学時代、ゴールキーパーとして幾多の強力なシュートを止めてきた俺の心臓のガードが、完璧に打ち砕かれた瞬間だった。
「……ヨシダ?」
俺が急に固まって絶句したため、レツちゃんは不思議そうに首を小首をかしげた。
頬杖をついたまま、くりっくりとした大きな瞳で俺を覗き込んでくる。
「どうしタ、顔、真っ赤……」
「……レツちゃん」
「ナニ?」
俺はガバッとレツちゃんの肩を両手で掴んだ。
「いまの、反則」
「は……っ!? 反則……!?」
「可愛すぎて心臓止まるかと思った。何それ、俺を撃ち殺す新手の都市伝説? 威嚇より百倍効果あるんだけど」
「な、ナニ言ってるんだバカ……ッ!!」
俺の尋常じゃない熱量と至近距離の圧力に押し負け、レツちゃんは一瞬で顔を林檎のように真っ赤に染め上げた。
さっきまでの無邪気な笑顔はどこへやら、慌てて頬杖を解き、黒マスクをガッと引き上げて顔を覆い隠す。
「カワイイ言うナ! ボクは怪異! オマエを恐怖の底に突き落としに来たんだッ!」
「無理無理、可愛さの底に突き落とされてるから。ねえレツちゃん、もう一回笑って? お願い」
「ヤダ! 絶対笑わナイ!!」
「じゃあ放課後デート行く? 学校案内してあげるよ」
「だ、誰がオマエとデートなんて……っ!」
照れまくるレツちゃんは激しく首を振って抗議するが、ツインテールがパタパタと揺れて可愛さを加速させるだけだった。
誰もいない夕暮れの教室。
赤く染まる空間で、俺は胸の痛みを心地よく感じながら、真っ赤になって威嚇する愛しい怪異を愛おしそうに見つめ続けた。




