十話 オソロイ
ぽかぽかと暖かい日光が注ぐ、休日の昼下がり。
平日の賑やかさが嘘のように静まり返った住宅街の路地を、俺はあくびを噛み殺しながら歩いていた。
特に予定もない散歩道。だが、俺の心はどこか浮き立っていた。
——このへんでぶらぶらしていれば、またあの可愛い怪異に会えるかもしれない。
そんな下心を抱きつつ曲がり角を過ぎたとき、ふと視界の隅に小さくて丸い影が映り込んだ。
「ん……? うわ、可愛い」
日当たりの良いブロック塀の上。一匹の茶トラ猫が、日差しを浴びながら気持ち良さそうに丸くなっていた。目を細め、喉をゴロゴロと鳴らしている。
俺は静かに足を止め、息を殺して胸ポケットからスマホを取り出した。カメラアプリを起動し、猫を起こさないようにそっと画面を向ける。
カシャッ。
静かな路地に小さなシャッター音が響いた。画面には、ぬくぬくとした日差しの中で幸せそうに眠る茶トラ猫の見事な一枚が収まっている。
「いい写真撮れたなー」
「……ナニ、してル?」
唐突に、すぐ耳元で鈴が転がるような低い声が聞こえた。
振り返ると、そこにはレツがいた。
いつもの地雷系ファッションにオーバーサイズのアウター。黒マスクの隙間から、大きな目をくりくりと輝かせて俺のスマホ画面を覗き込んでいる。
「レツ! 休日に会うなんて奇遇だね」
「ボクはただ、オマエが変な行動をしてるかラ視察に来ただケッ!」
「はいはい、視察ね。それより見てよ、これ。可愛く撮れたでしょ?」
俺がスマホの画面をレツちゃんに見せると、彼は「む……」と眉をひそめながらも、吸い寄せられるように画面を食い入るように見つめた。
「ネコ、入っている……」
「入ってるわけじゃないよ。写真を撮ったの。レツ、写真見たことないの?」
「シッテル! 見たことくらいある! でも……実際に使ってるところは、あんまり……」
興味津々なのに、必死で強がって「知ってるし」という顔をしているのが目に見えてわかる。可愛すぎる。
「じゃあさ、せっかくだから俺たちも一緒に撮ろうよ」
「え……ボクと、オマエで……?」
「そう、記念撮影!」
俺はレツちゃんの返事も待たずに、インカメラにモードを切り替えた。
そして、彼の肩を抱き寄せるようにしてグッと距離を縮める。
「ひゃい!?」
レツちゃんが跳ね上がるような声を上げた。
俺の肩とレツちゃんの肩がぴったりと密着する。レツちゃんから漂う、どこか甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「ほらレツちゃん、画面見て! カメラここね!」
「ち、近イ……! 離れろ、ニンゲン……ッ!」
「はい、笑って! ピース!」
俺はテンション高めに歯を見せてニッと笑い、空いた手でピースサインを作った。
レツちゃんはパニックになりながらも俺の勢いに押され、胸の前でぎこちなく小さなピースサインを作ってみせる。黒マスクの上の目が、まんまるに見開かれていた。
カシャッ!
「よし、撮れた!」
「ハァ、ハァ……ッ。いきなりナニをするんだバカ……! 心臓に悪いだロ……ッ!」
胸を押さえて真っ赤な顔で呼吸を乱すレツちゃん。
俺は「どんな風に撮れたかな」とニヤニヤしながら撮影した画面を確認した。
……だが。
「……あ」
画面に映っていたのは、満面の笑みで一人でピースをしている俺の姿だけだった。
俺のすぐ隣、俺の手が抱え込んでいるはずの空間には、誰も映っていない。背景のレンガ壁が空しく透けて見えているだけだった。
「……あー、そっか」
俺は思わず声を漏らした。
レツちゃんは怪異だ。レンズや電子機器のセンサーにはその姿が捉えられないのだ。
「……やっぱり、映らナイんだナ」
レツちゃんの声が、すっと低くなった。
さっきまであんなにパニックになって赤くなっていた顔からすっかり熱が引き、哀しげに伏せられている。
アウターの裾をぎゅっと握りしめ、ぽつりと呟いた。
「怪異は……写真に映らナイ。お母さん、言ってタ。ボクは怪異だから……ニンゲンの思い出には、残れナイんだ」
ぎこちなく作っていた小さなピースサインが、力なく解けていく。
自尊心を傷つけられたような、世界から一人だけ取り残されたような、寂しそうな横顔。
都市伝説として威嚇してくるときとは比べものにならないほど、本当の彼が透けて見えるような儚さがあった。
——そんな顔、させられるわけがない。
「レツ」
「……笑いたければ笑エ。どうせボクはバケモノで——」
「ちょっと待っててね」
俺はレツちゃんの言葉を遮り、そのままスマホの画面をタップした。
画像編集アプリを立ち上げる。標準搭載されているペンツールと加工機能を選び、集中して画面を指でなぞり始めた。
「……ナニしてるんだ?」
「ん、ちょっと待って……ここをこうして、こう……よし!」
作業時間、わずか三十秒。
俺は「できた!」と声を上げて、編集完了した画面をレツちゃんの目の前に差し出した。
「見て!」
「……え?」
レツちゃんが恐る恐る画面を覗き込む。
そこに映っていたのは——写真の中で一人で写っていたはずの俺の顔だ。
だが、その俺の顔の口元には、雑ではあるが丁寧に赤ラインで『両端が耳まで大きく裂けた口』が描き加えられていた。さらには白い八重歯まで描き足されている。
「これ……」
「俺の口も、大きくしてみた!」
レツちゃんが呆然と目を見開く。
「ほら見て、口裂け男の完成!」
「な……ナニ言ってるんだ……ッ!? 意味が分からないぞ!?」
「意味? お揃いにしたかっただけだけど」
俺はスマホを胸元に抱え、レツちゃんの目を真っ直ぐに見つめて微笑んだ。
「写真に映らなくても、俺の目の前にはこうして世界一可愛いレツちゃんがいるし。写真の中でくらい、レツちゃんとお揃いが良いなって思ってさ」
「お……オソロイ……ッ!?」
「うん。これで俺たち、お揃いの怪異カップルだね」
軽口っぽく言ったつもりだったが、俺の言葉はレツちゃんの胸のど真ん中に直撃したらしい。
「カッ……カカカ、カップル……ッ!?」
レツちゃんの顔が、みるみるうちに耳の先端、首筋、果ては目元まで真っ赤に染まっていく。
沸騰したやかんのように湯気が立ち上りそうなほどの赤さだ。
彼は両手で顔を覆い、ガタガタと膝を震わせた。
「お、お前……ッ! ニンゲンのくせに……ッ! 変なことばかり言うナーーーッ!!」
「あ、待ってレツちゃん!」
耐え切れなくなったレツちゃんは、そのままくるりと背を向けると、驚異的な脚力でダッシュして逃げ出した。
ブカブカのアウターと桃色のツインテールを風になびかせながら、一直線に路地の奥へと消えていく。
「逃げられちゃった……」
俺はぽつんと取り残された路地で、苦笑しながら去っていく背中を見送った。
だが、逃げていく彼の耳が最後までリンゴのように真っ赤だったのを、俺は見逃さなかった。
スマホの画面に目を落とす。
下手くそな赤ペンで口を大きく描いた俺の写真。
その隣には誰も映っていないけれど——俺の心の中には、照れすぎて真っ赤になった可愛い怪異の姿が、鮮明に焼き付いていた。




