第五章 未知の観測者
「昨夜、探索していた時に、この場所に突然レッドドット(赤点)が現れたんだ」
アイクは半透明の地図に浮かぶ、不穏に明滅する微かな光を指差してアンナに言った。
「出発しよう。まずはここへ行って調査してみるんだ」
アンナは少し赤く腫れた目を擦りながら、その精密な立体投影を困惑気味に見つめた。
「この地図……一体どこから出してきたの?」
「これは昨夜、僕の能力でこの街を探索した後に凝縮したものです」
アイクは微笑みながら地図をアンナの手に渡した。
「これがあれば、ここから先は迷子にならずに済みますから」
アンナは地図を受け取り、その上で跳ねる赤点を見つめた。深く息を吸い込み、昨夜から心に残り続けていた陰鬱な感情を振り払う。
「よし……行ってみましょう!」
二人は地図の案內に従い、街の廃墟の縁へとやってきた。しかし、見渡す限り周囲は静まり返っており、雑草と乱石のほかには何も存在しない。
「妙だな……」
アイクは眉をひそめ、辺りを見回した。
「僕の探知によれば、ここには何かしらのオブジェクトがあるはずなんだけど……」
アンナは歩きながら足元に目を配っていた。その時、雑草に覆い隠された円形の鉄盤が彼女の視線に留まる。
「アイク! 早く来て!」
アイクはすぐに駆け寄り、二人は視線を交わした。それは錆びついた下水道の排水蓋だった。
アイクはうなずき、腰を落として力を込める。重々しい金属の摩擦音とともに、彼は蓋を一気に引き剥がした。底は一寸先も見えない漆黒で、まるで底なしの深淵のようであり、湿ったカビの臭いがかすかに漂ってくる。
「僕が先に降りて進路を確保します。底に問題がなければ呼びますから、アンナさん!」
言い終えるや否や、アイクは躊躇なくその暗闇へと飛び降りた。しばらくして、下から彼の空洞な残響が聞こえてくる。
「安全です! アンナさん、降りてきて大丈夫ですよ!」
アンナは真っ暗な穴を覗き込み、両足が少しすくむのを感じた。彼女は自分の両頬を叩く。――本当に大丈夫なのかな……。、彼女は奥歯を噛み締め、勇気を振り絞って目を閉じ、飛び降りた。
「キャ――ッ!」
落下する浮遊感はほんの一瞬だった。予想していた冷たく硬い地面の衝撃は訪れない。アンナが目を開けると、自分が逞しい両腕にしっかりと受け止められていることに気づいた。アイクがなんと、お姫様抱っこ(プリンセスホールド)の体勢で、彼女を軽々と腕の中に抱き抱えていたのだ。
「あ……あ、ありがとう」
アンナの顔は一瞬で真っ赤になり、恥ずかしさのあまり慌ててアイクの腕から飛び降りた。
周囲は静寂と漆黒に包まれ、一寸先も見えない。アンナは迅速に状態を立て直し、肌身離さず持っている液晶タブレットを取り出した。ペン先が画面の上を素早く走ると、微かな光とともに、精巧な木製の松明が彼女の手に実体化した。
それを見たアイクが指先を軽く弾くと、赤々とした魔法の炎が燃え上がり、松明に火が灯る。
微弱な火光が、狭い範囲の暗闇を追い払う。下水道の内部は乱雑極まりなく、腐った木切れと汚水が混ざり合っていたが、想像していたよりも遥かに広々としていた。歩みを進めるうちに、床には多くの紙切れが散らばっており、空気中に張り詰めた緊張感が満ちていく。
突然、アンナの足が止まった。火光に照らされた前方の石壁に、無数の紙がびっしりと貼り付けられていたのだ。それぞれの紙には細かな文字でびっしりと注記が書き込まれ、それらが複雑な線で結ばれている。まるでサスペンス映画で探偵が作り上げる「伏線ネットワーク(線索チェーン)」そのものだった。
アンナが松明を近づけてその内容を読み進めると、全身に電流が走ったような衝撃を受けた。そこには、昨日起きた出来事が完璧に、かつ詳細に記録されていたのだ。パン屋での一件から、アイクが深夜に宿で密かに使用した探知能力にいたるまで――。
(誰かが……昨日の出来事をずっと盗み見て記録していた……?)
アンナは深い思考に沈んだ。
一方のアイクも驚きと強い警戒を隠せずにいた。自分とアンナさんが尾行されていた。それほどの実力者を前に、ベテラン冒険者である自分が完全に気配を察知できなかったという事実に、背筋が凍る。
不気味な下水道の中に、ぽつり、ぽつりと冷たい水滴の音が響く。
「アンナさん、」アイクは声を潜め、険しい表情で彼女を見つめた。「あなたが創造したキャラクターの中に、こういう『記録係』のような役割の人物はいるんですか?」
アンナは壁の線索を凝視したまま、首を横に振った。「いいえ、そんなキャラクターは描いてないわ。本当におかしい……」
彼女はアイクを振り返り、瞳に怯えの色を浮かべる。「じゃあ、これは一体誰なの? 誰がこんなことをしているの?」
アイクが思考を巡らせようとしたその瞬間、周囲の空気の流れに、ごく微かな淀みが生じた。
ゾクッ、と全身の毛が逆立つような鋭い寒気が走る。熟練の冒険者である彼の直感が告げていた。これは未知の線索がもたらす困惑の緊張感などではない。暗闇の奥深くから放たれる、隠そうともしない強烈な「殺気」だ!
「……まずい」
アイクの心に焦りが生じた。これは完全に彼の計画外であり、何よりも最悪なのは、戦闘力を持たないアンナさんをこのような危険な場所に立ち入らせてしまったことだ!
アンナは緊張しながらタブレットを構え、声を震わせた。「ど、どうしたの、アイク……?」
その刹那、アンナの背後の影が悍ましく歪み、巨大な質量が音もなく暴起した!
「危険だ――ッ!」
アイクの瞳孔が急激に収縮し、危機一髪のところで猛然とアンナを突き飛ばした!
「グオオオオオ――ッ!」
鼓膜を突き破らんばかりの咆哮が、狭い通路内に炸裂した。巨体を引き摺り、全身を漆黒の硬甲で覆われた悪魔のワニ(デビル・クロコダイル)が、影の中から猛然と飛び出してきたのだ! 牙がむき出しになったその血盆大口が空中に残酷な弧を描き、アイクの腕に激しく噛み付いた!
「ぐああッ!」
アイクはうめき声を上げ、その力を利用して後方へと跳んで距離を取る。
しかし直後、彼の顔色が劇変した。あのワニの牙には劇毒が含まれており、毒素が驚異的な速度で彼の血液内を駆け巡り、麻痺感が一瞬で全身へと広がっていく。そればかりか、彼の中の魔力までがこの毒素に抑え込まれ、極めて練り上げにくい状態になってしまった。
地面に突き飛ばされたアンナは汚水の中を数回生々しく転がり、どうにか身を起こした。顔の汚れを拭いながら、彼女は思わず毒づく。
「全身びしょ濡れ……最悪、気持ち悪い……! 後で絶対に熱いお風呂に入ってやるんだから!」
しかし、負傷したアイクの姿が目に入った瞬間、彼女の瞳が鋭く据わった。恐怖が怒りへと塗り替えられる。彼女は即座にタブレットを構え、ペン先を飛ぶように走らせ、空間に寒光きらめく鋼鉄の長剣を力強く「描き」出した。
「アイク、これを使って!」
アイクは長剣をガシッと受け止めた。想定外の奇襲、そして体内の異常。アイクの脳裏は一瞬、パニックで真っ白になりかけた。しかし、彼は深く息を吸い込み、恐怖を圧し潰す。――今、僕がすべき唯一のことは、アンナさんを守ることだ!
この時、巨大なワニの身体が汚水の中で恐怖の風切り音を響かせ、再び全速力で襲いかかってくる。
アイクは奥歯を噛み締め、体に残る魔力を強引に練り上げ、怪物の動きに追いつこうと速度を上げようとした、しかし、毒素の影響により、彼の動作は絶望的なほど緩慢だった。
「キィィィン!」
アイクは辛うじて剣を振るって斬りつけたが、火花が激しく飛び散るのみ! 悪魔のワニの身体を覆う外鱗は、まるで防弾鋼板のように硬く、長剣がそこに叩きつけられた衝撃でアイクの腕が痺れた。わずか一分たりとも斬り込むことができない。
危機が迫る中、アイクは目の端の余白で、背後のアンナが狂ったようにタブレットの画面に何かを書き殴っているのを目撃した。
この時、巨ワニは再び血盆大口を開き、山を崩さんばかりの勢いでアイクの方向へと猛烈に突進してくる。
「くそっ……右へ避ける!」
アイクの脳は指令を出したが、毒素に侵された肉体はあまりにも遅く、到底避けきれないことを本能で悟る!
その文字通りの危機一髪の瞬間、奇妙な力が猛然とアイクの肉体に作用した。周囲の空間が強制的に圧縮されたかのように感じられた直後、彼の身体はまるで加速ボタンを押されたかのように、「シュバッ!」という音とともに、瞬時に右側の死角へと空間転移した! 勢いが余りすぎて、危うく粗く削られた石壁に激突しそうになる。
凄まじい轟音とともに巨ワニは突進を外し、下水道の石壁を粉砕して巨大な穴を開けた。
アイクは命拾いした心地で、自分が先ほどまで立っていた場所を振り返った。そこには、半空に数本の黒く、太く、躍動感に満ちた「スピード線(効果線)」が、燃え尽きる灰のようにゆっくりと淡く消えていくのが見えた。
彼は驚愕して背後の少女を振り返る。
アンナはその時、片手を腰に当て、手中のタブレットを軽く振ってみせながら、自信満々に眉を上げて不敵に笑っていた。
「どう? 漫画の『スピード線』の威力、思い知った?」
「はは……助かった!」
アイクは「スピード線」という言葉の意味を完全には理解していなかったが、その線がもたらした恐怖の一歩目の爆発力を肌で感じていた。彼は鋼鉄の剣を固く握り、足を踏み出す。しかし、あまりの超速度に、危うく壁に激突しそうになる。
(この速度、あまりにも規格外だ……)
アイクは迅速に冷静さを取り戻した。彼は盲目的に突っ込むことはせず、広々とした下水道内を縦横無尽に高速で移動し、折返し、横ステップを踏み始めた。熟練の戦士として、実戦の中で一刻も早くこの「線条」がもたらす未知の速度バフに身体を馴染ませ、コントロール下に置くためだ。
自分の通常の攻撃ではあの硬甲を突破できないと分かっているアイクは、撹乱するように残像を残しながら位置を変え続ける。
ワニの眼球が、四方八方に飛び回るアイクの動きを狂ったように追う。まるで挑発されているかのように感じた怪物は、激怒してアイク目掛けて猛烈に突進した。
それを見たアンナが、後方から全力の声を張り上げた。
「アイク! 全力であのワニを攻撃して!」
「でもアンナさん、僕の攻撃じゃあの鱗は突破できません!」
アイクが叫び返す。しかし、アンナは一歩も引かずに、下水道全体にエコーが響き渡るほどの力強い声で叫んだ。
「私を信じて――!!」
その言葉に、アイクの瞳の奥の迷いが消えた。
今度こそ、アイクの速度はあの激昂した巨ワニを完全に凌駕していた!
「これで終わりだ!」
アイクは虚空へと跳躍し、両手で長剣を高く掲げた。それと同時に、背後のアンナが阿吽の呼吸で鋭く叫び、ペン先を画面の中心に力強く突き立てた――!
刹那、無数の真っ直ぐで鋭利な、そして無形の重圧を伴った「集中線」が、四面八方から狂ったようにアイクの剣先へと収束していく!
漫画における「集中線」が、この瞬間に真の実体的な物理重圧へと姿を変えた。長剣はかつてないほどの強大なエネルギーを爆発させ、まるで流星が地上に墜落するかのように、巨ワニが誇る漆黒の硬甲を容赦なく粉砕した!
「轟――ッ!」
巨ワニは苦悶の悲鳴を上げ、巨大な肉体はズタズタに引き裂かれ、汚水の中へと激しく倒れ込んで激しく身悶えた。もはや再び嵐を巻き起こす力は残されていない。
アイクはゆっくりと歩み寄った。顔色は中毒により青白かったが、その瞳は依然として冷静だ。彼は長剣を高く掲げ、ワニの眉間に狙いを定める。
「終わりだ」
彼がまさに一剣を突き刺そうとしたその瞬間、薄暗い下水道の奥深くから、突然、焦燥と鋭さを孕んだ叫び声が響き渡った。
「ま……待って! お願い!」
アイクの剣が、半空でピタリと静止した。彼は警戒を強め、その声の方向へと視線を走らせる。
暗がりの火光の境界から、奇妙な衣服を身にまとい、眼鏡をかけた黒髪の少女がゆっくりと姿を現した。
「少女……?」
アイクは呆然と呟き、言葉を失う。彼は背後のアンナに視線を巡らせ、この「作者」の顔から答えを探そうとした。
しかし、その時のアンナもまた、信じられないといった様子で目を見開いていた。彼女は心の中で猛烈に叫ぶ。
(嘘、そんなはずない……! 私の設定集の中に、こんなキャラクターは絶対に存在しない!)
「あなた……誰?」アンナの声音は、微かに震えていた。
「私……私はヒカリ(光)っていいます」
少女は両手で服の裾をぎゅっと握り締め、声を震わせながら、その瞳に懇願の色を浮かべた。
「お、お願いです、その子を傷つけないで!」
「その子?」
アンナはその場に硬直した。目元が思わずピクピクと引きつる。彼女は心の中で猛烈に突っ込みを入れずにはいられなかった。
(この化け物、ゾウみたいな体格して、ライオンみたいな凶暴さじゃん! どこをどう見たら『その子』なんて可愛く呼べるのよ!?)
目の前の少女がまるで脅威を持たないように見えても、アイクは依然として警戒を怠らなかった。ベテランの冒険者として、彼は未知の地下迷宮において、素性の知れない相手を簡単に信用してはならないことを熟知している。ましてや、その少女の背後には、先ほど自分たちの命を奪いかけた猛獣が控えているのだ。
ヒカリと名乗った少女は、汚水の中に倒れ込む巨ワニを緊張した面持ちで見つめた。すると、あの巨ワニは主人の焦燥と不安を察知したかのように、巨大で重い肉体を強引に奮い立たせ、ゆっくりと地面から這い上がってきたのだ。全身の鱗甲が砕け散り、深手を負っているにもかかわらず、それは激痛を耐え忍び、一歩、また一歩とヒカリの側へと身を寄せた。そして、その武骨な頭をヒカリの衣類に優しく擦り付け、まるで慰めを求めるペットのような仕草を見せた。
巨ワニのその動きを見て、アイクは無意識に再び手中の鋼鉄の剣を握り直した。しかし、体内で狂ったように暴れ狂う毒素が、この瞬間に最悪のタイミングで発作を起こす。強烈な眩暈が彼を襲い、足元がよろめき、危うく立っていられなくなる。
「アイク!」
アンナは悲鳴を上げ、急いで駆け寄ると、崩れ落ちそうになるアイクの身体を全身の力で支えた。
その光景を見て、ヒカリもパニックに陥った。彼女は慌てて身に着けていたリュックサックのファスナーを開け、中から淡い微光を放つ回復薬のボトルを数本引っ張り出した。アンナとアイクの警戒に満ちた視線の中で、ヒカリはまず胸を痛めながらそのうちの一本を隣の巨ワニに飲ませた。解毒ポーションを含んだ液体がワニの傷を癒していく。そして深く息を吸い込み、勇気を振り絞って小走りでこちらへ近寄ると、もう一本のポーションをアイクの目の前に差し出した。
「お、お願いです、早くこれを飲んでください!」
ヒカリの声には涙が混じっており、言葉にできないほどの焦燥感が伝わってくる。
アイクは目の前のポーションを見つめ、半秒ほど躊躇した。
そんなアイクを見て、ヒカリは必死に訴えかける。
「大丈夫ですから、私を信じて!」
自分の肉体が本当に限界を迎えていることを察知していた彼は、一か八かの賭けに出るつもりでボトルを受け取り、頭を仰向けて一気に流し込んだ。
薬液が喉を通ると同時に、清涼なエネルギーが一瞬で拡散していった。アイクは深く息を吐き出す。確かに麻痺していた身体は随分と楽になり、傷口も塞がり始めた。しかし、悪魔のワニの劇毒はそう簡単に根絶できるものではなかった。残留した余毒が依然として体内を暴れ回っており、そのため彼の魔力は完全に混沌に陥り、しばらくは思うように魔法をコントロールできそうになかった。
その時、アンナの視線はアイクを通り越し、後方のヒカリへと向けられた。
ヒカリは、巨ワニの粗く血に染まった頭部を優しく撫でながら、目頭を熱くし、自責の念に駆られながら小さく呟いていた。
「ごめんね……私がドジだったせいで、こんなに酷い怪我をさせちゃって……」
その光景を目の当たりにし、アンナの心の中にあった敵意は完全に瓦解した。彼女はアイクを支えていた手を離し、ゆっくりと前へ歩み出ると、申し訳なさそうな声音で言った。
「あの……ごめんなさい。ここに人が住んでいるなんて知らなくて、突然あなたたちの縄張りに踏み込んじゃって……」
アンナの声を聞いたヒカリは、まるで驚いた小動物のようにビクッと振り返った。彼女は怒るどころか、慌てふためいてアンナとアイクに向かって、何度も何度も頭を下げながら大声で謝罪し始めた。
「い、いえ! 謝らなきゃいけないのは私の方です! ごめんなさい、本当にごめんなさい……! この子が突然皆さんに襲いかかっちゃって、本当に、本当に申し訳ありませんでした!」
必死にペコペコと頭を下げ続ける眼鏡の少女を前にして、アンナは少し困惑しながらも、宥めるように手を振った。「あ、えっと、実は私たち――」
しかし、ヒカリはアンナの言葉を遮るように動いた。彼女は少し不安げに眼鏡のブリッジを押し上げ、上目遣いで恐る恐る目の前の二人を見つめる。
「あの……、質問してもいいですか……?」
ヒカリの声は急に低くなり、空虚な地下水道の中に、驚くほど明瞭に響き渡った。
「あなたたちが、この世界の『創造主(作者)』のアンナさんと、別の物語の世界から来たアイク先生……ですよね?」
その瞬間、空気が凍りついた。
天井から滴る水滴の音さえも、その瞬間に凝固したかのようだった。
アンナとアイクは同時に目を見開き、その顔から一瞬にして血の気が引いていく。
二人は人形のように硬直したまま、互いに視線を交わした。
誰も、一言も発することができない。




