背後の足音
深夜二時十五分。地下鉄の運行が完全に停止したあと、男たちの「夜」が始まる。
歩線作業員の磯山剛は、ヘルメットのライトを頼りに、果てしなく続く線路の上を歩いていた。仕事は単純だ。レールの歪みやボルトの緩みを目視と打音で確認していく。
「……今日はやけに冷えるな」
剛は首筋をさすった。地下特有の湿った空気の中に、時折、腐った生木のような異臭が混じる。
ふと、背後で音がした。
コツン。
石を蹴るような小さな音。剛は足を止め、振り返った。しかし、ライトの光が届く範囲には、鈍く光る二条のレールと、等間隔に並ぶ枕木があるだけだ。
「気のせいか……」
再び歩き出す。
ザッ、ザッ、ザッ。
自分の安全靴が砂利を踏む音。
……ザッ、ザッ、ザッ、ザザッ。
一拍遅れて、全く同じリズムの足音が聞こえてくる。剛は今度は振り返らずに、わざと歩幅を変えてみた。
大股で三歩。小股で二歩。
……ザッ、ザッ、ザッ……ザザッ、ザッ。
背後の「何か」も、正確にその歩調を真似てきている。
剛の心臓が早鐘を打つ。このトンネルには、今夜は自分一人しか入っていないはずだ。無線機に手をかけるが、なぜか指が凍りついたように動かない。
その時、前方のトンネルの壁に、見慣れない落書きが現れた。
『この先、零駅。振り返れば終点』
チョークで書かれたような白い文字が、ライトの光の中で不気味に浮かび上がる。
剛は息を呑んだ。
一キロごとに設置されているはずの距離標識が、いつの間にか「00.0km」を指して止まっている。
背後の足音が、一段と近くなった。
今度は足音だけではない。耳元で、ヒタヒタと濡れた布が地面を叩くような音と、子供が喉を鳴らすような「ククッ……」という笑い声が聞こえてきた。
「……来るな」
剛は前だけを見つめ、必死に足を動かした。
だが、トンネルの先から、信じられない光景が迫ってきた。
線路が、垂直に切り立っている。
平坦なはずの道が、まるで絶壁のように上へと反り返り、その先は巨大な「口」を開けた闇へと繋がっていた。
『……パパ、こっちだよ』
闇の中から聞こえてきたのは、三年前に行方不明になったままの、幼い息子の声だった。
「……航? 航なのか!」
剛の声が、湿ったコンクリートの壁に虚しく反響した。三年前、公園の生垣の向こうへ消えたきり、二度と戻らなかった息子。その幼い、鈴を転がすような声が、地下鉄の最深部から聞こえてくるはずがない。
理性がそう叫んでいるのに、剛の体は勝手に前へと進んでいた。
垂直に切り立ったはずの線路は、一歩踏み出すごとにぐにゃりと歪み、重力そのものが狂い始めている。今や、壁を歩いているのか天井を歩いているのかさえ定かではない。
『パパ、こっち。暗いよ、寒いよ……早く見つけて』
声は、前方の闇——「零駅」と書かれた看板のすぐ下から響いていた。
剛はヘルメットのライトを最大出力に上げた。白い光の柱が闇を切り裂く。
そこには、一人の子供が背中を向けてしゃがみ込んでいた。泥だらけの黄色い長靴。あの日、最後に見送った時と同じ服装だ。
「航! パパだ、今助けるからな!」
剛が駆け寄ろうとしたその時。
ザッ。
背後で、かつてないほど近く、重い足音が響いた。
今度は真似ではない。誰かが、剛のすぐ後ろに立っている。
冷たい、凍りつくような呼気が、剛のうなじを撫でた。
「……振り返っては、いけない」
脳裏に、先ほどの落書きがフラッシュバックする。
『振り返れば終点』
剛は足を止めた。目の前の「息子」は、微動だにせずしゃがみ込んでいる。
だが、不自然だった。
息子がしゃがんでいる地面。そこには影がない。
代わりに、剛自身の足元から伸びる影が、勝手に動き出し、目の前の子供の形へと繋がっていた。
「……お前、航じゃないな」
剛の声が震える。
すると、しゃがみ込んでいた「子供」が、首だけを百八十度回転させてこちらを向いた。
顔はなかった。
そこには、のっぺらぼうの肌の上に、無数の「目」がびっしりと埋め込まれていた。その一つひとつの瞳が、剛を、そして彼の背後にいる「何か」を同時に映し出している。
『……パパ、後ろを見て。後ろに、本物の僕がいるよ』
子供の形をした怪物が、耳を劈くような高音で笑った。
剛は、背後の気配が、ゆっくりと自分の肩に手を置くのを感じた。
指先は氷のように冷たく、長い爪が作業服の生地を突き破り、肉に食い込んでくる。
「……っ!」
激痛と共に、剛はハンマーを握り直した。
振り返れば死ぬ。前を見れば化け物。
出口のないトンネルの真ん中で、剛は究極の選択を迫られていた。
その時、彼の耳に、無機質な機械音が届いた。
『……保線区より各員へ。異常気象により、これよりトンネル内を強制換気する。全員、待避所に退避せよ。繰り返す……』
現実の無線だ。
剛は、そのノイズ混じりの声を命綱にして、目を強く閉じた。
「俺は、仕事中だ……お前たちの遊びには付き合わない!」
彼は、前方の「子供」に向かって、思い切り点検用のハンマーを振り下ろした。
「……消えろ!」
剛の振るったハンマーが、空を切った。
のっぺらぼうの子供は、煙のように掻き消えた。しかし、背後の「何か」の力は強まり、長い爪が肩の骨にまで達しようとしていた。剛は激痛に耐えながら、決して振り返ることなく、叫び声に近い声を絞り出す。
「お前は航じゃない! 航は……航は、もう、いないんだ!」
三年前のあの日、警察の捜索が打ち切られた夜。剛は自分の中で整理をつけたはずだった。息子を忘れたわけではない。だが、この地下の闇に巣食う「未練」が化けた偽物に、捕まるわけにはいかないのだ。
剛は無線機を掴み、叫んだ。
「こちら磯山! 零キロ地点付近、待避所に退避する! 早く……早く送風機を回せ!」
その瞬間、トンネルの奥から凄まじい轟音が響き渡った。巨大な換気ファンが起動し、澱んだ空気を力技で押し流し始めたのだ。
強烈な風が、剛の背後の「気配」を切り裂く。
ギィィィィ……!
耳を劈くような、金属が擦れる悲鳴が上がった。肩に食い込んでいた爪が、熱い鉄を押し当てられたように震え、ゆっくりと離れていく。
剛は風に逆らい、一歩、また一歩と前へ進んだ。
出口はまだ見えない。だが、壁の「零キロ」の標識が、激しい振動と共にひび割れ、剥がれ落ちていくのが見えた。
「……あっ! 磯山さん!」
突然、ライトの光が前方から差し込んだ。
同僚の作業員たちが、心配そうに駆け寄ってくる。
「おい、どうしたんだ。無線で叫びながら、線路の真ん中でうずくまって……」
剛が顔を上げると、そこはいつもの点検区間だった。垂直に切り立った線路も、不気味な看板も、どこにもない。
「……いや、なんでもない。ちょっと立ち眩みがしただけだ」
剛は仲間の肩を借りて立ち上がった。
詰め所に戻り、ヘルメットを脱いだ剛は、鏡の前で凍りついた。
作業服の肩の部分が、鋭い刃物で裂かれたようにボロボロになっていた。そしてその下の肌には、子供の小さな指の形をした、どす黒い痣が五つ、くっきりと残っている。
ふと、ポケットの中に違和感を感じ、手を入れた。
中から出てきたのは、三年前、息子が最後に履いていたはずの、泥だらけの黄色い長靴の「ミニチュア」……おもちゃのストラップだった。
そんなもの、持っていた覚えはない。
「……パパ、またね」
耳元で、かすかな、本当に微かな声がした。
剛は今度は振り返らなかった。ただ、静かに目を閉じ、その温度のない声を、心の奥底にある「忘れてはいけない場所」へと仕舞い込んだ。
地下鉄のトンネルには、今も「零キロ」の先が続いている。
もしあなたが、作業服を着た男が独り言を言いながら壁を叩いているのを見かけたら、決して声をかけてはいけません。
彼は今も、背後にぴったりと張り付いた「何か」を、現実の世界に連れてこないよう、戦っている最中かもしれないのだから。




