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欠測の周波数

 深夜の地下鉄構内には、地上では決して聴くことのできない「音」が流れている。

 録音技師の修一は、重厚なヘッドフォンを耳に当て、高感度マイクの指向性を暗闇の奥へと向けた。

 彼にとって、この地下の世界は巨大な共鳴箱のようなものだった。電車の風切音、タイルの裏側を流れる地下水の滴り、老朽化した鉄骨が軋む悲鳴。

 それらすべての音を採取し、デジタルデータとして固定することに、修一は人生のすべてを捧げていた。

 特に、終電が去った後の「空白の時間」に現れる微細な振動には、特別な意味があると彼は信じていた。それは、この場所を通っていった数百万人の乗客たちが、無意識のうちに置き去りにしていった感情の残響ではないか。


 今夜、修一が降り立ったのは、路線図の端に位置する「零駅」へと続く古い連絡通路だった。

 ここは数十年前の改修工事以来、閉鎖されたまま放置されている場所だ。壁のタイルは剥がれ落ち、湿ったカビの匂いが立ち込めている。修一は懐中電灯の光を頼りに、通路の中央に機材を設置した。

 レコーダーのスイッチを入れる。レベルメーターの液晶が、静かに波打ち始めた。

 ヘッドフォンから聞こえてくるのは、最初はただのホワイトノイズだった。しかし、ボリュームのノブを限界まで回したとき、その音の壁の向こう側から、奇妙な周波数が混じり始めた。

 ギィ、ギィ、ギィ……

 それは、硬い金属同士が、一定のリズムで擦れ合うような音だった。

「……こんなところで、何の音だ?」

 修一は呟き、音の源を探してマイクをゆっくりと回した。

 音は、コンクリートの壁の奥、さらに深い場所から響いてきているようだった。修一はその場所へ近づこうと、さらに通路の奥へと足を進めた。

 すると、足元に何かが触れた。ライトを向けると、そこには古びたオープンリール式のテープが、無数に散乱していた。

 テープはどれも泥を被り、絡まり合っている。修一はその中の一本を拾い上げ、目を細めた。ラベルには、震えるような筆跡で日付が記されている。

「明日……?」

 そこに書かれていた日付は、数時間後の「明日」のものだった。

 困惑しながらも、修一は持ち込んだポータブルプレイヤーにそのテープをセットした。磁気ヘッドが回り始め、スピーカーからノイズが溢れ出す。

 聞こえてきたのは、地下鉄のホームに響く、けたたましい非常ベルの音だった。

 そして、その後に続いたのは、誰かの激しい悲鳴。

 修一は息を呑んだ。その声は、自分自身のものと全く同じだった。

 テープの中で「自分」が叫んでいる。

『やめろ! 録るな! それを耳に当てるな!』

 あまりの恐怖に、修一はプレイヤーを床に叩きつけた。しかし、ヘッドフォンからの音は止まらない。それどころか、音圧は増し、鼓膜を直接針で刺されるような激痛が走った。

 視界が歪み始める。タイルの壁が波打ち、文字通り、音の振動によって空間が溶解していく。

 ふと見ると、自分が設置したはずのレコーダーの液晶画面が、真っ赤に染まっていた。

 そこに表示されていた文字は、録音時間ではなく、カウントダウンの数字だった。

 修一は気づいた。自分は音を拾いに来たのではない。

 この地下の深淵が、新しい「音源」として自分を求めているのだということに。

 逃げなければならない。そう直感した修一が振り返ったとき、通路の入り口は既に消え、そこには巨大な「耳」の形をした穴が口を開けていた。


 修一は震える指でレコーダーの停止ボタンを連打したが、機器は一切の操作を受け付けなかった。それどころか、マイクの集音部分がまるで生き物の口のように微かに収縮し、周囲の空気を猛烈な勢いで吸い込み始めている。

 ヘッドフォンから流れる音は、もはや単なる環境音ではなかった。それは、過去にこの「零駅」で命を落とした者たちの、最期の瞬間の音を何層にも重ね合わせた、巨大な音の塊だった。

 線路に転落した際の風切音、衝突の瞬間に響いた骨の砕ける音、そして、それらすべてをかき消そうとするかのような、冷徹な機械の駆動音。

「……やめろ、消えてくれ!」

 修一は叫びながら、両手でヘッドフォンを無理やり引き剥がそうとした。しかし、耳を覆う合皮のパッドは、既に彼の側頭部の皮膚と癒着し始めていた。無理に引けば、自分の耳ごと剥がれてしまいそうな激痛が走る。

 視界の端で、床に散乱していたオープンリールテープが、蛇のように鎌首をもたげた。黒い磁気テープが生き物のようにうねりながら、修一の足首に、膝に、そして腰へと巻き付いてくる。

 テープの表面には、微細な砂嵐のようなノイズが物理的な感触を伴って刻まれており、それが皮膚を擦るたびに、修一の脳内には知らない誰かの「記憶」が直接流れ込んできた。

 それは、昭和の初めにこの通路を掘り進めていた作業員の、酸欠による最期のあがきだった。あるいは、戦時中に空襲を逃れてこの闇に逃げ込み、そのまま出口を失った親子の、絶望的な沈黙だった。

 それら数え切れないほどの「音になれなかった声」が、修一という依代を通じて、この世界に再び響き渡ろうとしている。

 カチ、カチ、カチ……

 先ほど叩き壊したはずのプレイヤーから、再び不気味なリズムが響き始めた。

 壊れたはずの液晶画面に、新しい文字が浮かび上がる。

『録音率:六十パーセント』

 修一の身体は、もはや自分の意志では動かせなかった。マイクを握る右手は、まるで彫像のように固定され、暗闇のさらに奥、壁に空いた「耳」の穴の深淵へと向けられている。

 その穴の奥から、何かがこちらを覗いている気配がした。

 それは巨大な鼓膜のようでもあり、あるいは無数の人間の顔を継ぎ接ぎして作った、巨大な振動板のようにも見えた。

 突如、足元のコンクリートが激しく振動し、地下鉄の走行音が遠くから響いてきた。しかし、今の時間はとっくに終電が過ぎているはずだ。

 音は次第に大きくなり、線路を軋ませる金属音が通路全体を震わせる。

 だが、やってきたのは電車ではなかった。

 それは、音そのものが形を成したような、実体のない「衝撃の波」だった。

 修一の鼓膜が限界を迎え、一筋の血が頬を伝って流れ落ちる。

 その血が床に落ちる音さえも、レコーダーは逃さず、増幅してヘッドフォンに叩き込んできた。

 ピチャリ。

 その小さな音が、大聖堂の鐘の音のように重く響く。

『録音率:八十パーセント』

 修一の意識は、次第に遠のいていった。自分の肉体が、徐々に透明な「波形」へと書き換えられていくような感覚。指先の感覚が消え、言葉を司る脳の領域が、ただの電気信号の羅列へと分解されていく。

 暗闇の奥で、あの「自分自身の声」が再び囁いた。

『いい音だ。君が消える瞬間の、その震え……最高だよ』

 修一は最後の力を振り絞り、胸のポケットに刺していた一本のドライバーを手に取った。録音機材のメンテナンス用に持ち歩いていたものだ。

 彼はそれを、自分の右耳を覆うヘッドフォンの中心部へと、迷わず突き立てた。


 鈍い音とともに、ドライバーの先がハウジングを貫き、中の基板を粉砕した。

 キィィィィィン!

 脳を直接焼くような電子音が炸裂し、修一の視界は真っ白に染まった。強烈なフィードバックが全身を駆け抜け、彼は糸の切れた人形のようにコンクリートの床へと崩れ落ちた。

 数秒、あるいは数分。

 耳を劈いていた爆音は、嘘のように止んでいた。

 修一が恐る恐る目を開けると、そこには静寂だけが横たわっていた。懐中電灯の火線が、埃の舞う通路を虚しく照らしている。

 右耳からは生暖かい血が流れ、聴覚は完全に失われていた。だが、左耳に残ったわずかな感覚が、この場所が「元の静寂」に戻ったことを告げていた。

 足首に絡みついていた磁気テープは、ただの古びたゴミに戻り、壁の「耳」も、脈打つ肉のような質感も、すべては幻影だったかのように消え去っていた。

 修一は震える手で、足元に転がったレコーダーを拾い上げた。

 液晶画面は割れ、内部の回路からは焦げた匂いが漂っている。

 だが、その壊れた画面の隅で、小さな赤いランプだけが、心臓の鼓動のように弱々しく点滅を続けていた。

『録音完了:百パーセント』

 その文字を見た瞬間、修一は総毛立つような恐怖を覚えた。

 自分は抵抗し、機材を破壊したはずだった。だが、この場所は、その「抵抗の音」さえも、あらかじめ予定された結末として飲み込んでしまったのではないか。

 彼は這うようにして通路を戻り、出口の階段へと急いだ。背後を振り返る勇気はなかった。ただ、一刻も早く、地上の「意味のある雑音」の中に逃げ込みたかった。


 数時間後。

 修一は自宅の作業机に座っていた。

 右耳は包帯で塞がれ、激しい耳鳴りが止まない。彼は無意識のうちに、予備の再生機に、あの現場から持ち帰ったメモリーカードを差し込んでいた。

 中身を確認しなければならない。あそこで何が録音されたのか。

 再生ボタンを押すと、左側のスピーカーから、静かな「風の音」が流れ出した。

 しばらくの間、ただの地下の環境音が続く。修一は安堵のため息をつき、ボリュームを少し上げた。

 ……すると、その音の中に、何かが混じり始めた。

 カサ、カサ。

 それは、誰かがマイクのすぐ側で、服の擦れるような音を立てているものだった。

 そして、修一の背筋が凍りついた。

 スピーカーから聞こえてきたのは、彼が自宅のドアを開け、靴を脱ぎ、階段を上がって、今まさにこの椅子に座るまでの「現在の音」だった。

 ガタッ。

 再生機から流れる椅子の軋む音と、現実の修一が動いた音が、完璧に同期した。

 彼は慌てて電源を切ろうとしたが、スピーカーの中の「自分」の声が、それを遮った。

『……聴こえてるんだろう? 修一』

 その声は、左側のスピーカーからではなく、聴覚を失ったはずの右耳の奥から、直接響いてきた。

 修一は絶叫し、スピーカーを床に叩きつけた。

 だが、音は止まらない。

 部屋中の壁が、家具が、窓ガラスが、あの地下通路で聴いた「共鳴」を始め、一斉に彼の名前を呼び始めた。

 彼はもう、どこへ逃げても、あの「零駅」の周波数から逃れることはできないのだ。

 修一は耳を塞ぎ、うずくまった。

 開け放たれた窓の外、深夜の都会の喧騒が、次第にあの「非常ベルの音」へと書き換えられていくのを聴きながら。

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