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呼び出し音

「ねえ、知ってる? 深夜二時に地下鉄のホームで『00-0000-0000』に電話すると、死んだ人に会える駅に行けるんだって」

 放課後の教室で聞いた他愛もない噂。高校二年生の陽菜ひなは、塾帰りの誰もいない地下鉄のベンチで、スマートフォンの画面を見つめていた。

 時刻は午前二時三分。終電はとうに過ぎ、構内には看板のハミング音だけが響いている。

「……やってみるか」

 軽い気持ちで番号を入力し、発信ボタンを押した。

 耳元で鳴り響く、低く湿った呼び出し音。

 ツーーー、ツーーー……。

 普通ならすぐに「おかけになった番号は……」というアナウンスが流れるはずだ。しかし、呼び出し音は延々と続き、十回目を超えたあたりで、不意にノイズが混じった。

『……はい、零駅・案内所です』

 出た。それは、若くも老いてもいない、抑揚のない女の声だった。

「えっ、あ、あの……」

『お客様、どちらまで? 戻りたい過去か、それとも進みたくない未来か。あるいは、誰にも見つからない「今」をご希望ですか?』

 陽菜は冗談だと思い、強がって答えた。

「一番遠いところまで。誰も私を知らない場所がいいな」

『承知いたしました。まもなく、特別急行が参ります。足元の「白い線」の内側でお待ちください』

 電話が切れた。

 ふと足元を見ると、黄色い点字ブロックのさらに先、ホームの端ギリギリのところに、見たこともない「真っ白な線」が一本、引かれていた。

 その線から、シュウゥゥ……という冷たい蒸気が立ち上っている。

 暗闇の奥から、光が見えた。しかしそれは電車のヘッドライトではない。巨大な提灯のような、揺らめく鬼火のような青白い光だった。

 キィィィィィン……!

 鼓膜を劈くような金属音が響き、目の前に現れたのは、車体全体が鏡のように磨き上げられた漆黒の列車だった。

 ドアが音もなく開く。車内からは、懐かしい金木犀の香りと、大勢の人がひそひそと笑い合うような気配が漏れ出してきた。

「……行っちゃダメだ」

 本能が警鐘を鳴らす。しかし、陽菜のスマートフォンが勝手に震え、画面に『着信:お母さん』と表示された。

 三年前、事故で亡くなった母からだ。

 陽菜は吸い寄せられるように、その漆黒の車両へと足を踏み入れた。

 一歩入った瞬間、背後でドアが閉まる音がした。それは、重い棺桶の蓋を閉じるような、絶対的な断絶の音だった。


「お母さん……? 本当に、お母さんなの?」

 陽菜は震える手でスマートフォンを耳に当てた。スピーカーからは、ザーッという激しい砂嵐のような音の向こう側から、聞き覚えのある穏やかな声が聞こえてくる。

『陽菜、こっちよ。窓側の席に座って……。すぐに行くからね』

 車内は、外観の漆黒とは打って変わり、豪奢なベルベットのシートが並ぶレトロな特等車のようだった。しかし、よく見ると吊り革は乾燥した植物のつるでできており、広告枠には文字ではなく、誰かの「遺影」のようなセピア色の写真が延々と流れている。

陽菜は導かれるように、一番奥の窓席に腰を下ろした。

 ガタン、と大きな衝撃と共に列車が動き出す。窓の外を見ると、いつもの地下鉄のトンネルではなく、星一つない真黒な空間を、銀色の糸のような線路が幾重にも重なり合いながら伸びていた。

「……あれ?」

 ふと、隣の席に気配を感じた。

 そこには、自分と同じ制服を着た少女が座っていた。しかし、彼女の顔には「耳」がなかった。ただ滑らかな肌があるだけで、彼女は自分のスマートフォンを必死に操作している。

「ねえ、あなたも……お母さんに呼ばれたの?」

 陽菜が声をかけると、少女はゆっくりと顔を上げた。彼女のスマートフォンの画面には、無数の「不在着信」が赤く染まった履歴が表示されていた。

『……聞こえない。もう、何も聞こえないの。呼び出し音が、私の耳を奪っていったから』

 少女の声は、口を動かさずに直接脳内に響いてきた。

『逃げて。ここは「声」を餌にする魚の胃袋よ。一度電話を切ったら、二度と自分自身の声が出せなくなる』

陽菜は戦慄してスマートフォンを引き離そうとした。しかし、端末はまるで磁石のように彼女の耳に吸い付いて離れない。

『陽菜、どうしたの? 寂しいんでしょう? お母さんとずっと一緒にいようね』

 母の声が、次第に低く、湿り気を帯びて変化していく。

 ふと、窓ガラスに映った自分の姿を見た。

 陽菜の「口」が、少しずつ消えかかっている。代わりに、スマートフォンの画面の中にある母のアイコンが、不気味に口角を吊り上げて笑い始めた。

『お前の「声」をちょうだい。そうすれば、私はもう一度、地上の空気を吸えるわ』

列車が急減速した。

 車内放送が、ノイズ混じりに響き渡る。

『次は……零……。お出口は、左側の「受話器」の中にございます……』

 ドアが開いた先には、巨大な電話交換機が脈打つ、グロテスクな機械の心臓部のようなホームが広がっていた。

 無数の黒いコードが、触手のように車内に侵入し、陽菜の体に巻き付こうと迫ってくる。

「嫌……離して! お母さんじゃない、あんたは誰だ!」

 陽菜が叫ぼうとしたが、もはや声は空気の抜けるような音にしかならなかった。

 彼女のスマートフォンの充電残量が、一分ごとに一%ずつ、急激に減り始めている。

「0%」になった瞬間、彼女の声は永遠にこの「零駅」の交換機の一部として組み込まれてしまう。

 陽菜は必死に抵抗し、巻き付くコードを振りほどきながら、開いたドアの向こうへと飛び出した。


「……っ、はぁ、はぁ!」

 陽菜は、脈打つ黒いコードの山を掻き分け、ホームをひた走った。足元のコンクリートは、まるで古い受話器のプラスチックのように硬く、冷たい。

 背後からは、何万もの「話し中」の音が重なり合ったような、地響きが追いかけてくる。

『陽菜、行かないで……。お母さんの声、忘れちゃうの?』

 スマートフォンの画面が、激しく明滅する。充電残量は残り「3%」。

 視界の端で、先ほどの「耳のない少女」が、黒いコードにぐるぐる巻きにされ、交換機の巨大な真空管の中へと引きずり込まれていくのが見えた。彼女の口は完全に消失し、代わりにスマートフォンの画面の中に、彼女の叫び声が波形となって閉じ込められていく。

「……あ、あ……」

 陽菜もまた、喉の奥が急速に癒着していくような感覚に襲われた。自分の名前さえ思い出せなくなるような、圧倒的な無音の恐怖。

 出口を探して階段を駆け上がると、そこには巨大な「公衆電話ボックス」がポツンと置かれていた。

 緑色の古びた電話機。その周囲には、無数のスマートフォンの残骸が、抜け殻のように散らばっている。

『充電、残り1%』

 画面が赤く染まった。

 陽菜は震える手で、その公衆電話の受話器を取り上げた。デジタルではない、アナログの重み。

 彼女は、スマートフォンの連絡先ではなく、自分の頭の隅にこびりついていた「実家の固定電話」の番号を、ダイヤルを回すようにプッシュした。

 プルルル、プルルル……。

 それは、電子音ではない、物理的なベルの音だった。

『……はい、もしもし? 陽菜?』

 聞こえてきたのは、今、家にいるはずの「お父さん」の、少し眠そうな、でも本物の声だった。

「……お父、さん……っ!」

 その瞬間、陽菜の喉を塞いでいた「零駅」の呪縛が、ガラスが割れるような音を立てて砕け散った。

 スマートフォンの画面が真っ暗になり、電源が落ちる。

 同時に、駅全体を覆っていた黒いコードが、熱を帯びたように溶け始め、周囲の景色が激しいノイズと共に崩壊していった。

「……な、陽菜! しっかりしろ!」

 強い力で肩を揺すられ、陽菜は目を開けた。

 そこは、いつもの地下鉄のホームだった。心配そうに覗き込んでいるのは、駅員と、夜勤明けらしい数人の乗客だ。

「ベンチで倒れてたんだぞ。深夜二時にこんなところで……」

 陽菜は、震える手で自分のスマートフォンを確認した。

 電源は入らない。完全に放電している。

 だが、ふと画面の暗闇に映った自分の顔を見ると、耳たぶのすぐ後ろに、小さな「電話番号」のような刻印が一瞬だけ浮かび、すぐに消えた。

それ以来、陽菜はスマートフォンを耳に当てることができなくなった。

 スピーカーモードでしか通話ができない。なぜなら、耳を近づけると、どんな相手との通話中であっても、その奥底から微かに聞こえてくるからだ。

 ツーーー、ツーーー……という、あの湿った呼び出し音と。

『……次は、あなたの、番……』という、自分の声にそっくりな囁きが。

深夜、あなたのスマートフォンが、あり得ない番号からの着信で震えたら。

 決して、耳を近づけてはいけません。

 その「声」は、もう、あなたのものではないかもしれないのだから。


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