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掃き溜めの宴

 深夜二時、営業を終えた地下鉄車両は、巨大な鉄の寝床のように静まり返っている。

 清掃員の芳江は、手慣れた手つきで長いブラシを動かし、座席の下のゴミを掃き出していた。空き缶、丸められたレシート、誰かが落とした片方の手袋。

「やれやれ、今日も落とし物だらけだねぇ」

 芳江は腰を叩きながら、誰もいない車両の奥へと進んでいった。

 この仕事に就いて十年。彼女には、他の新人には見えないものが「見える」ようになっていた。それは、物理的なゴミではない。座席にこびりついた、乗客たちの「負の残り香」のようなものだ。

 誰かの溜息、押し殺した怒り、行き場のない孤独。それらは黒いすすのような形をして、隅っこに溜まっている。芳江はそれを専用の洗剤で拭き取るのが、自分の裏の仕事だと思っていた。


 最後尾の車両に入った時、芳江は異変に気づいた。

 車内灯が、いつになく赤みを帯びている。そして、床に落ちているゴミが、どれも「新しすぎる」のだ。

 足元に、一輪の瑞々しい百合の花が落ちていた。

「おや、こんな綺麗な花を……」

 拾い上げようとした瞬間、花は芳江の指先で、瞬時に黒く腐り落ちた。鼻を突くような死臭が立ち込める。

 顔を上げると、先程まで空だったはずの座席に、びっしりと「何か」が座っていた。

 それは人間ではなかった。

 ボロ布のような皮膚を纏い、顔があるべき場所には、大きな「口」だけが横一文字に裂けて存在している。彼らは一斉に、芳江の方を向いた。

『……掃除の時間だ。我々の、汚れを。取ってくれ』

 その声は、一万人の囁きを重ねたような、不気味な重低音だった。

 芳江が震える手で周囲を見渡すと、電車のドアの外には、いつもの車庫の景色はなかった。

 そこには、地響きのような唸りを上げる巨大な暗闇の穴と、そこに吸い込まれていく無数のガラクタの山。

 看板には、歪な文字でこう刻まれていた。

『零:掃き溜め口』

「……ここは、ゴミ捨て場じゃない。捨てられた『心』の終着駅なんだね」

 芳江は、覚悟を決めたように掃除用具を握り直した。


「……仕事、だもんねぇ。綺麗にしてあげなきゃね」

 芳江は震える膝を叩き、あえて明るい声を出した。長年、地下の澱んだ空気を吸い続けてきた彼女には、恐怖よりも先に「片付けなくては」という職業病じみた使命感が湧き上がっていた。

 座席に座る「口だけの乗客」たちは、芳江の言葉に反応し、一斉にその巨大な裂け目を開いた。中には歯がなく、ただ底知れない闇が広がっている。

『洗え。拭け。この、べっとりと、こびりついた、後悔を』

 一人の「乗客」が、芳江の足元にドロリとした黒い液体を吐き出した。それは床に触れた瞬間、文字の形に変わった。

『死にたかった』『あいつが憎い』『やり直したい』

 怨嗟の言葉が、生き物のようにタイルを這い回り、芳江の長靴に纏わりつく。

「はいはい、分かったよ。そんなに溜め込まないの」

 芳江はバケツから特殊な洗剤——彼女が独自に調合した、塩とアルコールを混ぜたもの——を取り出し、床にぶちまけた。

 ジュウッ!

 激しい音と共に白い煙が立ち上がり、言葉の群れが悶え苦しみながら消えていく。

「あんたたちのそれは、ゴミじゃない。ただの『湿気』だよ。換気が悪いから、そんな顔になっちまうんだ」

 芳江はブラシを力強く動かした。ゴシゴシと、リズムよく床を擦る。


 その時、車両の連結部から、ひときわ巨大な影がヌッと現れた。

 それは、数千着の古いスーツやワンピースが継ぎ接ぎに合わさったような、山のような怪物だった。その体からは、数え切れないほどの「手」が突き出し、必死に何かを掴もうと空を掻いている。

『……捨てられた。私は、まだ、必要だったのに』

 怪物の中心から、一人の女性の啜り泣きが聞こえてきた。

 芳江はその怪物の前に立ち、静かにモップを構えた。

「捨てられたんじゃないよ。あんたが、その重荷を『置いた』だけさ。ここは零駅。全部置いていっていい場所なんだよ」

 怪物の「手」が、芳江の首筋に伸びてくる。冷たい指先が、彼女の皮膚を撫でた。

「でもね、掃除屋は『置いたもの』をそのままにはしておかない。全部まとめて、光の差すところへ送ってやるのが、私の流儀さ」

 芳江は腰に下げていた大きなゴミ袋を広げた。その袋の口は、まるで宇宙のように深く、吸い込まれるような青い光を放っている。

 それは、彼女が十年間の清掃で集めた「ささやかな善意」や「感謝の言葉」を詰め込んだ、特製の「浄化袋」だった。

『……光? そんなもの、この地下には……』

「あるよ。あんたたちが忘れているだけでね」

 芳江が袋を大きく振ると、中から眩いばかりの銀色の粉が舞い散った。

 それは、深夜の駅のホームで交わされる「お疲れ様」や、迷子を助けた時の「ありがとう」といった、地下鉄に微かに残る温かい記憶の残滓だった。

 光の粉が怪物に触れた瞬間、継ぎ接ぎの服がバラバラに解け始め、中から無数の白い蝶が羽ばたくように、重苦しい空気が霧散していく。


 しかし、喜びも束の間。

 列車の非常ブレーキが、鼓膜を破らんばかりの音で鳴り響いた。

 ガガガガガッ!

 激しい衝撃と共に、芳江は床に叩きつけられた。

 窓の外を見ると、そこには「零駅」のホームではなく、巨大な「焼却炉」の扉のような、真っ赤に焼けた鉄の門が口を開けて待っていた。


「おっと……これは、ちょっと手に負えない掃除になりそうだねぇ」

 芳江は床に這いつくばりながら、迫りくる巨大な熱気に顔を顰めた。窓の外、焼却炉の扉のような門からは、地獄の業火に似た紅蓮の光が漏れ出し、車両の塗装をチリチリと焼き始めている。

 そこは、この世で「ゴミ」と定義されたすべての執着を、魂ごと焼き尽くす最終処分場だった。

『……燃やせ。すべて。無に。還せ』

 先程までの「乗客」たちが、今度は火の粉を纏った影となって芳江に迫る。彼らにとって、焼却こそが唯一の救済なのだ。


 だが、芳江は立ち上がった。腰のバケツから、使い古したボロ雑巾を一枚取り出す。それは、彼女が初任給で買った、一番愛着のある仕事道具だった。

「勝手に燃やされてたまるもんか。あたしが掃除し終えるまでは、ここはこの車両のままだよ!」

 芳江はバケツの底に残った「浄化の雫」を雑巾に染み込ませ、足元の床を一心不乱に拭き始めた。

 キュッ、キュッ。

 火花が飛び散る車内で、その音だけがやけに現実味を持って響く。

 彼女が拭いた場所から、銀色の光が波紋のように広がり、迫りくる炎を押し返していく。一拭きごとに、熱気が和らぎ、煤けた壁に元のステンレスの輝きが戻っていく。

「仕事はね、終わりがあるから尊いんだよ。焼き捨てて消すんじゃなくて、綺麗にして次の誰かに渡す。それが『地下』を守るってことさ!」


 芳江が最後の一拭きを終え、車両の連結部にある鏡を磨き上げた瞬間。

 パリンッ!

 鏡が激しく割れ、そこから眩いばかりの「朝の光」が溢れ出した。

 焼却炉の門が、凄まじい音を立てて閉ざされていく。影たちは光に溶けるように消え、車両を包んでいた不気味な赤みは、穏やかな始発前の静寂へと塗り替えられた。

「……ふぅ。これで、おしまいだね」

 芳江は額の汗を拭い、ゴミ袋の口をぎゅっと結んだ。中には、もう怨嗟の声は聞こえない。ただ、温かい砂のような重みがあるだけだった。


気がつくと、電車はいつもの検車区の奥に停まっていた。

 窓の外には、朝の冷たい空気と、遠くで鳴る始発の準備を告げるブザーの音が響いている。

「おーい、芳江さん! 終わったか? もうすぐ交代だぞ」

 仲間の清掃員の声に、芳江は「はいよ!」と元気に答えた。

 彼女が降りた後の車内は、新車のようにピカピカに磨き上げられ、不思議と懐かしい花の香りが漂っていた。


その日、一番電車に乗ったサラリーマンは、座席に座った瞬間に「ふっ」と肩の荷が下りるのを感じた。

 昨夜まで死ぬほど悩んでいた仕事のミスが、なぜか「どうにかなる」と思えたのだ。

 彼は気づかなかった。

 足元の隅に、小さな銀色の光の粉が、一瞬だけキラキラと輝いて消えたことに。


 地下鉄の掃除屋、芳江。

 彼女が今日もどこかの車両で、あなたの「心のゴミ」をこっそり片付けてくれているかもしれない。


 ただし、もし掃除の終わっていない「零駅行き」の車両に乗り込んでしまったら……

 その時は、せめて自分の「溜息」だけでも、持ち帰るように気をつけて。

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