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番外編 ノイズの繭

 深夜の銀座線、古い車両特有の軋み音がトンネル内に反響していた。

 フリーランスの映像編集者、浅井亮介は、ノイズキャンセリング機能の付いた高価なイヤホンを耳に深く押し込んでいた。彼にとって、外界の音はすべて「作業を邪魔するノイズ」に過ぎなかった。

 静寂の中で、締め切りに追われる疲労が浅井の意識を微睡みへと引き摺り込む。

 ふと、イヤホンの機能が誤作動したかのように、耳の奥で「パチン」という湿った音がした。

 無音だったはずの空間に、聞いたこともない音が流れ込んでくる。

 それは、列車の走行音でも、乗客の話し声でもなかった。


 ズ、ズズ……助け……て……た……すけ……て……

 重い……ここ……狭い……


 何千、何万という人間の「呻き声」が、地下鉄の騒音の波に混じって、地層の底から響いていた。

 浅井が驚いてイヤホンを外すと、車内は異様な光景に包まれていた。

 照明は赤黒く濁り、窓の外の壁面には、剥き出しの「巨大な耳」がびっしりと張り付いて、走行中の電車が発する振動を貪り食っている。

 案内板が、鼓膜を震わせるような重低音と共に文字を書き換えた。

『次は……聴取……聴取……お忘れ物のないよう、口を閉じてお待ちください……』


 電車が滑り込んだのは、巨大な蓄音機の内部のような、螺旋状の空洞――零駅だった。

 ホームに立っているのは、顔の真ん中に巨大な「穴」が開いた駅員たち。彼らは乗客一人ひとりの耳に、細長い真鍮製の管を差し込んでは、何かを「吸い出して」いた。

「何をしてる……やめろ!」

逃げようとした浅井だったが、彼の耳から、実体化した「音」が溢れ出した。

 これまで彼がイヤホンで遮断し、無視し続けてきた都会の喧騒、誰かの舌打ち、雨の音、遠い悲鳴。

 それらが真っ黒なタールのような液体となって耳孔から噴き出し、彼の全身を包み込み始めた。

 「監督」のような影が、浅井の耳元で囁く。その声は、何十人もの声を合成したような不快なノイズだった。

「……お前は聞きすぎた。そして、聞き逃しすぎた。世界が発する『摩擦音』こそが、この地下の潤滑油なのだよ」


 浅井の肉体は、みるみるうちに硬直していった。

 彼の皮膚はザラついたサンドペーパーのように変質し、その喉からは二度と言葉が出なくなった。代わりに、彼が呼吸をするたびに、古い放送禁止用語のような不快なハウリング音が漏れ出す。

 浅井は、零駅の線路脇に置かれた「音響板」の一部として固定された。

 そこは、電車が通過するたびに激しい火花と轟音を浴びる場所だった。

 次に電車が通り過ぎる時、浅井は激痛の中で叫ぼうとした。

 しかし、彼の口から出たのは、ただの「ガタン、ゴトン」という、何の変哲もない列車の走行音だった。


 地上の人々は、その音が「自分たちの命を削る叫び」であることなど知る由もない。

 ただ今日もイヤホンを付け、「最近、地下鉄の音がうるさくなったな」と、顔を顰めるだけである。

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