番外編 指先の写し鏡
千代田線の夜。車内は、一日の労働を終えて魂を吸い取られたような人々で埋まっていた。
大学生の森下亮太もその一人だった。彼は無意識にスマートフォンの画面を親指でスクロールし続けている。青白い光が顔を照らし、タイムラインに流れる無意味な情報を、脳を通さずに指先だけで消費していく。
ふと、亮太は違和感に指を止めた。
画面をスワイプしたはずなのに、表示が動かない。それどころか、スマホの画面に映る「自分の指」が、現実の指よりもコンマ数秒遅れて動いているように見えたのだ。
「……フリーズか?」
亮太が画面を叩こうとしたその時、電車の照明が激しく瞬き、車窓の闇が深くなった。
窓ガラスに映る自分の顔を見る。だが、そこに映っていたのは亮太ではなかった。
それは、真っ黒な背景の中で、巨大なスマートフォンの画面を内側から見つめている「自分自身」の姿だった。
窓の外の闇が、巨大な液晶画面へと変貌していた。
亮太が現実で指を動かすたび、車窓という名のスクリーンに「残像」が焼き付いていく。
驚いて顔を上げると、周囲の乗客たちも同様だった。皆、狂ったように窓ガラスに向かって指を滑らせている。
あるOLは、窓に映る自分の過去の写真を必死に「ピンチアウト(拡大)」しようとし、その指がガラスに食い込んでいた。
ある老人は、亡くなった妻の幻影を「スワイプ」で消し去ろうとして、爪を剥がしながら窓を掻き毟っている。
案内板が、デジタルのノイズを撒き散らしながら文字を映し出す。
『次は……同期……同期……お出口は、指先の記憶の果てでございます』
電車がゆっくりと、一面が「割れた液晶パネル」で構成されたホーム――零駅へと滑り込んだ。
ホームの柱からは、無数の充電ケーブルが触手のように伸び、乗客たちのうなじに直接突き刺さっていく。
亮太のスマホから、聞き覚えのない通知音が鳴り響いた。
【アップデートを開始します:あなたの実体を削除し、データへと移行します】
「おい、待て、何なんだよこれ!」
亮太が叫び、車両から逃げ出そうとした瞬間、彼の視界が「ピクセル単位」で分解され始めた。
足元が0と1の数字の海に溶け、肉体の感覚が「タップ」や「スクロール」という無機質な信号に置き換わっていく。
窓の向こう側にいる「自分」が、冷酷な笑みを浮かべてこちらを操作し始めた。
窓の外の自分は、亮太の存在を「ゴミ箱アイコン」へとドラッグした。
意識が消えゆく中、亮太が最後に聞いたのは、駅全体に響き渡る無数のクリック音と、案内板の非情な一言だった。
『……読み込みに失敗しました。この人生は、正常に終了されました』
翌朝、千代田線の座席には、持ち主のいないスマートフォンが一台だけ落ちていた。
その画面には、昨夜までそこにあったはずの、青年の絶望した顔が「壁紙」として張り付いていた。




