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幽霊軌道の先

 午後十一時四十五分、千代田線の運転席。

 運転士の渡辺和夫は、指差喚呼を繰り返しながら、慣れ親しんだレバーを握っていた。

 勤続三十五年。明日が最後の勤務だ。この暗闇も、レールが刻む規則正しいリズムも、彼の身体の一部となっていた。

 代々木公園駅を出発し、明治神宮前へと向かう長い直線。

 ふと、渡辺は前方のシールドビームが照らし出す光の先に、違和感を覚えた。

 本来なら、コンクリートの壁が続くはずの右側に、見たこともない錆びついた「ポイント(分岐器)」が現れたのだ。

「……おかしいな。あんなところに保守用の側線なんてあったか?」

 渡辺は眉をひそめた。長年この路線を走ってきたが、あんな分岐は一度も見たことがない。

 ブレーキをかけようとした瞬間、ATS(自動列車停止装置)の警報音が鳴るどころか、運転台の計器類が一斉に「0」を指して停止した。

 速度計も、圧力計も、時計の針さえも。

 それなのに、電車は加速を続けている。

 ガタン、と大きな衝撃と共に、車体は右側の未知の軌道へと吸い込まれていった。


 そこは、通常のトンネルよりも遥かに巨大で、湿った空気が漂う空間だった。

 壁面には、剥き出しの地層が積み重なり、そこから巨大な樹木の根のような太いケーブルが、血管のようにのたうち回っている。

 渡辺が無線機を手に取ったが、スピーカーから流れてくるのは、激しい砂嵐の音と、大勢の人間が遠くで囁き合うような不気味な声だけだった。

『……定刻です……定刻です……魂の積み残しは、ございませんか……』

 車内放送のスピーカーが、渡辺の操作なしに勝手に喋り始めた。

 バックミラーを確認すると、客室の様子が変貌していた。

 先ほどまで数人座っていた帰宅途中の会社員たちの姿はなく、代わりに、全身が煤けたような灰色をした「影」たちが、座席を埋め尽くしている。

 影たちは一様に、窓の外の暗闇をじっと見つめていた。

前方の信号機が、見たこともない「青」と「赤」が混ざり合った、紫色の中間色を灯している。

 渡辺は必死に非常ブレーキを引いたが、レバーは手応えもなく空回りした。

「止まれ……止まってくれ!」

 渡辺の叫びに応えるように、前方から巨大な駅の明かりが見えてきた。

 しかし、その駅の構造は狂っていた。

 ホームが上下逆さまに設置され、階段は虚空へと伸び、時計の文字盤には「0」から「0」までの数字しかない。

 壁に掲げられた駅名標には、震えるような文字でこう刻まれていた。

『零駅:終着点。ここから先は、線路はございません』

 電車は、慣性を無視してピタリと停車した。

 渡辺の目の前のフロントガラスに、コツン、コツンと指の関節で叩くような音が響く。

 外を見ると、ホームに一人の男が立っていた。

 それは、三十五年前、渡辺が運転士として初めてこの路線を走った日の、若かりし頃の自分自身の姿だった。

 フロントガラスの向こう側、若き日の自分――まだ制服も新しく、期待と緊張に目を輝かせていた「渡辺」が、無表情にこちらを指差していた。

 渡辺の喉は、冷たい鉛を飲み込んだように凍りついた。

 三十五年前、自分が初めてハンドルを握ったあの日。あの日失った「何か」が、この零駅で彼を待っていた。


 プシュー、という湿った排気音と共に、全車両のドアが一斉に開いた。

 車内に座っていた灰色の影たちが、示し合わせたように立ち上がり、音もなくホームへと降りていく。

 彼らが歩くたび、床のタイルからは「カサリ、カサリ」と、乾いた砂が擦れるような音が響く。

 渡辺は運転席の防護扉を蹴破るようにして外へ飛び出した。

「おい、待て! ここはどこだ! 運行指令、聞こえるか!」

 叫びは、上下逆さまになった天井に吸い込まれ、奇妙な反響となって戻ってきた。

『……指令、指令……こちらは……過去……現在地、不明……』

 手元の無線機から返ってきたのは、ノイズに混じった自分自身の、若い頃の声だった。

ホームに降り立つと、重力が狂い始めた。

 足元からじわじわと「時間」が吸い取られていくような感覚。

 若き日の自分は、ゆっくりと歩き出し、迷路のような階段を昇り始めた。

 渡辺はそれを追った。追わなければ、二度と元のレールに戻れないという確信があった。

 

 階段を昇りきった先には、広大な「車両基地」のような空間が広がっていた。

 しかし、そこに並んでいるのは電車ではない。

 巨大なガラスの円筒の中に、これまでの人生で彼が運転してきた「時間そのもの」が、青白い光の液体となって貯蔵されていた。

 ある筒には「1995年、雨の日の通勤ラッシュ」、別の筒には「2011年、震災の夜の孤独な回送」。

 渡辺がこれまで正確に刻んできたダイヤのすべてが、ここでは「部品」として解体され、零駅の動力源にされていた。

「……君が、最後の一片だ」

 若き日の渡辺が、一つの空の円筒の前で立ち止まった。

 その円筒のプレートには、明日の日付と「定年退職」の文字が刻まれている。

 渡辺は戦慄した。

 自分が明日迎えるはずだった「未来」が、既にここで回収を待っている。

 

 駅の案内板が、激しい火花を散らしながら書き換えられた。

『……まもなく……連結……連結……運転士の交代時間は、零分です……』

背後から、先ほどの灰色の影たちが迫ってきた。

 彼らの顔には目も鼻もなく、ただ巨大な「0」の文字が刻まれている。

 影たちは渡辺の腕を、肩を、何百もの冷たい手で掴み、空の円筒の中へと押し込めようとした。

 若き日の渡辺が、ゆっくりと右手を差し出す。

 その掌には、渡辺が今まさに握っているはずの「マスターコントローラー」のレバーが握られていた。

「交代だよ。あんたは、もう十分に走っただろう?」

 若い自分との、残酷なまでの世代交代。

 渡辺の肉体が、円筒に触れた部分から、青白い液体へと溶け出し始めた。

 彼は、自らが守り続けてきた「安全」と「正確さ」という名の檻に、自分自身が閉じ込められようとしていることに気づいた。


 円筒の中に押し込められた渡辺の視界が、青白い液体の膜で覆われていく。

 肺に流れ込んでくるのは酸素ではなく、三十五年分、何万回と繰り返してきた「指差喚呼」の残響だった。

 外側では、若き日の渡辺が冷徹な手つきで円筒の蓋を閉めようとしている。その背後では、灰色の影たちが列をなし、次の「運行」を待っていた。

「……ふざけるな」

 渡辺は、溶けかかった右手に力を込めた。

 彼はこの瞬間のために生きてきたわけではない。

 ダイヤを守ることは、自分を削り取ることではなく、誰かの日常を繋ぐことだったはずだ。

 彼は円筒のガラスを内側から叩き、叫んだ。

「俺のハンドルを……勝手に奪うな!」

 渡辺はポケットの奥底、制服の隅に潜んでいた「遺失物」を思い出した。

 それは、数年前のクリスマスの夜、終点で拾った幼い子供の手作りの折り紙。

 本来なら遺失物センターへ届けるべきだったが、あまりに小さく、あまりに温かかったために、つい手元に残してしまった「不規則な、無駄なもの」。

 彼がその折り紙を液体の海の中で握りしめた瞬間、零駅の「完璧な効率」に致命的なノイズが走った。

 正確なダイヤ、完璧な円筒、冷徹な若き自分。それらすべてが、その一枚の「不純な紙切れ」の存在を拒絶し、激しく拒絶反応を起こした。

 パリン、と円筒にヒビが入る。

 青白い液体が噴出し、渡辺の肉体が再び質量を取り戻した。

「定年は……明日だ。勝手に繰り上げるな!」

 渡辺は割れたガラスを突き破り、若き自分を突き飛ばした。

 若き渡辺の姿が、一瞬にして古いモノクロ写真のように色褪せ、粉々に砕け散る。

 駅全体の重力が反転した。

 上下逆さまだった天井が床へと落ち、時計の針が猛烈な勢いで「未来」へと回り始める。

 渡辺は無我夢中で、停車していた電車の運転席へと飛び込んだ。

 計器類に電力が戻る。

 彼は、ATSの警報を無視し、全力でマスコンを手前に引いた。

 電車は、背後の零駅が崩壊する轟音を置き去りにして、漆黒の闇の中を突き進んだ。


 視界が白光に包まれ、強烈なブレーキ音が鼓膜を震わせる。

気がつくと、電車は明治神宮前駅のホームに、一ミリの狂いもなく停車していた。

 ホームの時計は、午前零時五分。

 背後の客室からは、数人の乗客が何事もなかったかのように降りていく。

 渡辺は、滝のような汗を拭い、震える手でブレーキ弁を締めた。


 翌日。

 定年退職の最後の一周を終えた渡辺は、誰にも何も語らず、静かに運転席を降りた。

 詰め所に戻る途中、彼はホームの端に落ちていた一枚の「使用済み乗車券」を拾い上げ、ゴミ箱に捨てた。

 彼はもう、分岐点を探すことはない。

 地下鉄のレールは、どこまでも続いていくように見えて、必ずどこかで「終わり」が来る。

 渡辺は、地上へと続く長いエスカレーターに乗り、背後の闇に深く一礼した。


 暗いトンネルの奥、二度と戻ることのない幽霊軌道が、彼を見送るように一度だけ、青白く光った。

ここまで「零駅」をお読みいただきありがとうございます。

予約投稿の日付を間違えて4/13(月)が更新なしになってしまい申し訳ございません。

お詫びとして明日から4話おまけの零駅を載せさせていただきます。

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