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資本家  作者: ドライサーの小説の翻訳作品です
38/59

第38章

 

 アイリーンが直面した状況はまさに試練だった。生まれ持った勇気と決断力が小さな少女だったら弱音を吐いてくじけていただろう。いろいろな社交上の人脈があり、知り合いがいたにもかかわらず、こういう緊急事態にアイリーンが駆け込める相手は多くなかった。詮索もせずに自分を長期間かくまってくれそうな相手はなかなか思いつかなかった。とても仲がいい同年代の若い女性は既婚・未婚に関係なくたくさんいたが、本当に親密な人は少なかった。一時的な避難先に本当になるかもしれないと頭に浮かんだ唯一の相手は、メアリー・キャリガンだけだった。友人の間では「マミー」の方がよく知られている彼女は、 アイリーンと同じ学校に通った仲で、今は地元の学校で教師をしている。

 

 キャリガン家は、母親のキャサリン・キャリガン夫人、仕立て屋をしている未亡人――曳家(ひきや)だった夫は十年くらい前に壁の崩落で死亡――と、二十三歳の娘のマミーの二人暮らしだった。二人は十五番街近くのチェリー・ストリートにある小さな二階建てのレンガ造りの家に住んでいた。キャリガン夫人はあまり立派な仕立て屋ではなかった。少なくとも、今高い地位にいるバトラー家が贔屓にするほど立派ではなかった。アイリーンが時々、ギンガムの部屋着や下着やかわいい化粧着を買ったり、チェスナット・ストリートの超一流の店で仕立てられたもっと大切な服の直しを頼みにそこに行くくらいだった。彼女がこの家を訪れた大きな理由は、キャリガン家の前途がもっとずっと洋々だったころ、マミーと一緒にセント・アガサに通っていたからだ。マミーは近くの公立学校の六年生の担任教師として月に四十ドルを稼ぎ、キャリガン夫人は一日平均して約二ドル――時にはそれに達しないこともあった。住まいは持ち家で抵当の類はなく、中の家具は月収約八十ドルという二人分を合わせた収入の規模をうかがわせた。

 

 マミー・キャリガンは美人ではなかった。昔の母親の容貌に到底及ばなかった。キャリガン夫人は五十歳でもふっくらして明るく陽気でユーモアたっぷりなのに、マミーは精神面も感情面もかなり鈍感だった。マミーは真面目な性格だった――何よりもまず環境のせいでそうなったのかもしれない。全然生き生きとしておらず色気もほとんどなかった。しかし親切で、正直で、真面目で、善良なカトリック教徒だった。大勢の人々を世の中から締め出してしまう、あの不思議なほど極端に内向きな美徳――義務感を持っていた。マミー・キャリガンにとって義務(子供の頃から聞いて実践してきた説法や教えを日々守ること)は極めて重要なことであり、慰めと安らぎの大元だった。奇妙で不確実な世界の中でマミーの支えになるのは、教会に対する義務、学校に対する義務、母親に対する義務、友人に対する義務などだった。母親はよくマミーのために、もっと義務感が薄れて、肉体的な魅力が増して、男性がこの()を好きになってくれればいいのに、と願っていた。

 

 母親が裁縫師なのに、マミーの服は決しておしゃれでも魅力的でもなかった――もし服がおしゃれだったら、自分らしくないと彼女は感じただろう。靴はかなり大きめでサイズが合っておらず、スカートは素材は良いのに、見た感じのデザインが悪く、腰から足もとにだらんと垂れ下がっていた。この頃、カラーの「ジャージ」なるものが流行り始めた。体にぴったりとフィットするので、スタイルのいい人が着ると見栄えがよかった。気の毒なマミー・キャリガン! そのときの流行でマミーもこれを着るはめになったが、この服をすばらしく見せるほど彼女は腕も胸も発育を遂げていなかった。選ぶ帽子はいつも長い羽根が一本ついたパンケーキのようなものだが、どういうわけか羽根は髪にも顔にもぴったり合う位置がないようだった。ほとんどいつも少し疲れているように見えたが、肉体的疲労というよりは、退屈していたからだ。マミーの人生には本当に魅力的なものがほとんどなく、アイリーン・バトラーは紛れもなく彼女の人生のロマンスの最重要要素だった。

 

 マミーの母親のとても楽しい社交的な性格、貧しくて小さくてもとても清潔な家をこの親子が持っていること、アイリーンがピアノを弾いて二人を楽しませることができたこと、キャリガン夫人が自分のためにする仕事に愛情深い関心を注いでくれたことは、アイリーンが抱くキャリガン家の魅力の重要部分を構成した。他のことからの避難場所として時々そこに行くこともあった。それにマミー・キャリガンは文学の好みが合う上に、とてもよく理解して関心を持っていたからだ。不思議なことに、アイリーンが好きな本はマミーも好きだった――『ジェーン・エア』、『ケネリム・チリングリー』、『トリコトリン』、『オレンジのリボンを結んで』。マミーは時折アイリーンにこの性質を持つ最新の作品を薦めてくれた。アイリーンはマミーの判断力の良さに気づいて感心せざるを得なかった。

 

 この窮地にいるアイリーンが思いついたのがこのキャリガン家だった。もし父が本当に優しくなくなって、ひとまず家を出なければならなくなったら、キャリガン家に行けばいい。あそこなら何も言わずに、あたしを受け入れてくれるだろう。あの二人ならバトラー家の他のメンバーにあまり知られていないから、あたしがそこへ行ったことを家族が疑うことはない。チェリー・ストリートのあの人目につかない場所であればたやすく姿を消せて、何週間でも姿を見られたり消息を聞かれたりずに済むかもしれない。キャリガン家の人たちがバトラー家のさまざまな人たちと同じように、道から外れた人生を送る傾向がアイリーンにあることを少しも疑っていなかったのは、興味深い事実である。したがって、もしアイリーンの家出が実現したとしても、他の何よりも気まぐれで感情の抑制が効かないせいにされただろう。

 

 また、バトラー家に関して言えば、アイリーンが家族を必要とする以上に、家族にアイリーンが必要だった。家族が適度な団欒を保つにはアイリーンの表情の明るさが必要であり、もしアイリーンがいなくなったら、すぐには乗り越えられない明確な溝が生じてしまうだろう。

 

 例えばバトラーは、幼い娘が晴れて美しい女性に成長したのを見届けた。娘が学校や修道院に通い、ピアノを習うのを見てきた――バトラーにすれば大きなことをやりとげて感無量だった。またバトラーは、娘の態度が変わってとても派手になり、一見、人生についての知識が広がったようであり、少なくとも彼にとって印象的になったのを見てきた。いろいろな物事についての娘の生意気で独断的な考え方は、バトラーにとって少なくとも聞く価値があった。アイリーンはオーエンやカラムよりも本や美術についての知識が豊富で、社交のマナーのセンスは申し分なかった。朝昼晩の食事のテーブルについたとき――アイリーンはいつもバトラーにとって魅力的な存在だった。自分がアイリーンを育て上げたのだ――バトラーはひとりで得意がった。私がお金を出したから娘はこんなに立派になったんだ。今後も続けていく。二流の成り上がり者に娘の人生を台無しにされてたまるものか。バトラーはずっと娘の面倒を見るつもりだった――夫が破産しても娘に影響が及ばないように、法を駆使してたくさんのお金を残すつもりだった。「今夜のお前は魅力的なレディだと思うぞ」がバトラーの口癖の一つで「どうだ、我々も立派なもんだな!」と言うこともあった。テーブルではほぼ決まってアイリーンがバトラーの隣に座って、父に気を遣った。これを父が望んだからだ。何年も前、彼女が子供だった頃から、バトラーは食事の時にアイリーンを自分の隣に座らせていた。

 

 母親も彼女を溺愛し、カラムとオーエンは兄弟にふさわしい態度で接した。だから、アイリーンはこれまで少なくとも、受け取った分に見合う美しさに利息をつけてお返ししていた。家族はみんなそれをそう感じていた。アイリーンが一日二日、家を留守にすると、家が暗く思えた――食事はおいしくなくなった。彼女が戻ると、みんなは再び幸せを取り戻して明るくなった。

 

 アイリーンは一応これをはっきり理解していた。無理強いされたくない旅行を避けるために、家を出てひとり暮らしを始めようと考えるようになった今、アイリーンが勇気を出せたのは主に、家族にとって自分は大事な存在であるというこの強い自覚が根底にあったからだ。アイリーンは父親が言ったことを考え直して、すぐに行動を起こさなければならないと決断した。翌朝、父親が出かけた後、アイリーンは外出の支度を整え、マミーが昼食で家にいそうな正午頃にキャリガン家に立ち寄ることにした。そのときに、さりげなくこの問題を持ち出すつもりだった。もし先方に異論がなければ、そこに行くつもりだった。こんな大変な目に遭っているのに、どうしてクーパーウッドは二人でどこか知らない場所に行こうと言ってくれないのか、時々不思議に思うことがあった。しかし、彼のことだから自分に何ができるかは彼が一番よく知っているに違いないとも感じた。クーパーウッドの増え続けるトラブルはアイリーンを滅入らせた。

 

 着いたとき、キャリガン夫人はひとりっきりで、アイリーンを見て喜んだ。その日の世間話を交わした後、アイリーンは自分の用件をどう切り出していいかよくわからないまま、ピアノで悲しいメロディーを奏でた。

 

「まったく、上手に弾くもんだね、アイリーン」すっかり感傷に浸っていたキャリガン夫人は感想を述べた。「私はあなたの演奏を聞くのが大好きなんだよ。もっとちょいちょい会いに来てくれればいいのに。近頃はめったに来てくれないね」

 

「ええ、とても忙しかったんです、キャリガンさん」アイリーンは答えた。「この秋はやることがたくさんあって来られなかっただけですわ。家族があたしをヨーロッパへ行かせたがっているんですけど、あたしは行きたくないんです。ああ!」アイリーンはため息をつき、悲しくもロマンチックな曲のしらべに合わせて流れるようにひき始めた。ドアが開いてマミーが入って来た。アイリーンを見て平凡な表情が明るくなった。

 

「まあ、アイリーン・バトラー!」マミーは叫んだ。「どういう風の吹き回しかしら? ずいぶんとご無沙汰だったじゃない?」

 

 アイリーンは立ち上がってキスを交わした。「ずっとすごく忙しかったのよ、マミー。ちょうどあなたのお母さんとその話をしてたとこだわ。あなたこそどうなの? お仕事は順調?」

 

 マミーはさっそく自分を悩ませているいくつかの学校の問題点――クラスの規模が拡大していることと期待される仕事の量――について話をした。キャリガン夫人が食事の支度をする間、マミーは自分の部屋に行き、アイリーンはその後を追った。

 

 マミーが鏡の前で髪を整える間、アイリーンは考え込むような面持ちで相手を見た。

 

「今日はどうしたの、アイリーン?」マミーは尋ねた。「あなた、何だかその――」マミーは話すのをやめて、もう一度ちらっと見た。

 

「あたし、どう見える?」アイリーンは尋ねた。

 

「うーん、迷ってるっていうか、何かに悩んでるみたい。あなたがそんな顔をするのをこれまで見たことなかったわ。どうしたのよ?」

 

「別に、何でもないわ」アイリーンは答えた。「ちょっと考え事をしてただけよ」アイリーンは小さな庭に面した窓のひとつに行き、ここで長期間暮らすことに耐えられるかを考えていた。家はとても小さいし、家具はとても質素だ。

 

「今日のあなたは何か変よ、アイリーン」マミーはそばまで来て、顔をのぞき込んで言った。「全然あなたらしくないもの」

 

「考えていることがあるんだけど」アイリーンは答えた。「それが心配なのよ。どうしたらいいかわからなくて――それが問題なの」

 

「一体、どんなことなのよ?」マミーは言った。「あなたがこんな風になるなんて、私、これまで見たことないもの。私にも言えないの? 何なのよ?」

 

「ええ、無理な気がする――とにかく今はね」アイリーンは間をおいて「あなたのお母さんは反対するかしら」と突然尋ねた。「もしあたしがここに来て少しの間滞在するとしたら? ある事情があってしばらく家を出たいのよ」

 

「まあ、アイリーン・バトラー、何ですって!」友は叫んだ。「反対ですって! 母は喜ぶってば、それに私もよ。ねえ――うちに来ればいいじゃない? でも、何でまた家を出たくなったの?」

 

「それはあなたにも言えないの――とにかく、今はまだ。あなたにというより、あなたのお母さんにかな。だって、お母さんがどう思うか、心配だもの」アイリーンは答えた。「でも、とにかく、今はまだ聞かないで。あたし、考えたいの。ねえ! でも、あなたさえよければ、あたしはここに来たいんだけど。あなたからお母さんに話してくれない、それとも、あたしから話す?」

 

「あら、私がやるわよ」この異例の展開に驚きながらマミーは言った。「でも、そんなことするなんて馬鹿げてるわ。言う前から母の返事はわかってるもの。あなたにだってわかるでしょ。あなたは荷物をもって、来るだけでいいのよ。それだけでいいわ。母は何も言わないし、何も聞かないわよ。わかってるでしょ――もしあなたが望まないのならね」マミーはこの考えにすっかり興奮して、顔を輝かせた。アイリーンと一緒にいたくてたまらなかったからだ。

 

 アイリーンは真剣な眼差しでマミーを見た。どうしてマミーが――彼女も母親も――これほど夢中になるのかよくわかっていた。二人とも、あたしの存在が自分たちの世界を明るくすることを望んでいるのだ。「でも、二人とも、あたしがここにいることは誰にも言っちゃ駄目よ、いい? 誰にも知られたくないのよ――特に、うちの家族の者には絶対にね。理由はあるのよ、ちゃんとしたのが。でも、それがどういうものなのかは、あなたにも言えないのよ――とにかく今は駄目なの。誰にも言わないって約束してくれるわよね」

 

「もちろんよ」マミーは意気込んで答えた。「でもずっと家に帰らないってわけじゃないんでしょ?」 マミーは詮索しながら真面目に締めくくった。

 

「さあ、わからないわ。どうするかは自分でもまだわかってないから。今はただ、しばらく家を出ていたいってことしかわからないわ――それだけよ」アイリーンは話をやめた。マミーは呆気にとられて彼女の前に立っていた。

 

「何にしても」友人は答えた。「驚きって尽きないものね、アイリーン? でも、あなたがここにいるなんて、とてもすてきだわ。母は大喜びするわよ。もちろん、あなたが望まないなら、私たちは誰にも話さないわ。どうせここにはほとんど人は来ないし、もし来ても、あなたが会う必要はないでしょ。私の隣のこの大きな部屋を使えばいいわ。ねえ、それってすてきじゃない? うれしいったらないわ」この若い学校教師の気分は最高に盛り上った。「じゃ、さっそく母に話してみない?」

 

 アイリーンは今でもこれを実行すべきか確信が持てずにいたのでためらいがあったが、結局二人は一緒に下へ降りた。アイリーンは階段の下が近づくにつれて少しぐずぐずした。マミーは母親のところに飛び込んで言った。「ねえ、お母さん、すてきじゃない? アイリーンが来てしばらく私たちと一緒に暮らすのよ。誰にも知られたくないんですって。すぐ来るのよ」キャリガン夫人は砂糖の容器を片手に持ったまま振り向いて、驚きながらも笑顔でアイリーンに探りを入れた。すぐに、どうしてアイリーンがここに来たがらなければいけないのか――なぜ家を出たいのか――気になった。一方で、キャリガン夫人のアイリーンへの感情はとても強かったので、この考えに大喜びして、大いに興味をそそられた。別に構うまい? かの有名なエドワード・バトラーの娘は自分のことは自分で管理できる成人女性ではないか。重要な一族の名誉ある一員としてもちろん歓迎すればいい。どんな事情であれアイリーンが来たがっていると思うことは、キャリガン家にとってとても名誉なことだった。

 

「どういうわけであなたのご両親があなたを行かせることができるのか私にはわからないけど、あなたはいたいだけここにいていいんだからね、何ならずっといてくれてもいいんだよ」キャリガン夫人は歓迎の気持ちを込めて微笑んだ。アイリーン・バトラーがここに来ることを許してほしいと願い出るなんて! 母親がこれを言ったときの親身な理解ある態度と、マミーの熱意に、アイリーンは安堵のため息をついた。自分がいることでキャリガン家にかかる費用のことが頭に浮かんだ。

 

「来るとなれば、もちろん費用はお支払いします」アイリーンはキャリガン夫人に言った。

 

「水くさいわね、アイリーン・バトラー!」マミーが叫んだ。「そんなこと、しなくていいんだから。私のお客さまとしてここに来て私と一緒に暮らせばいいのよ」

 

「そうはいかないわ! お金を払えないんじゃ、来ないわよ」アイリーンは答えた。「そのくらいのことは、させてくれなきゃだめよ」キャリガン家に自分を養う余裕がないのはわかっていた。

 

「まあ、とにかく、今その話をするのはよしましょう」キャリガン夫人は答えた。「好きなときに来て、好きなだけいてくれていいんだからね。きれいなナプキンをとってちょうだい、マミー」アイリーンは残って昼食をごちそうになり、その後すぐにクーパーウッドとの約束を果たすために立ち去り、大きな問題が片付いたことに満足していた。これで道は開けた。来たければ、ここに来ることができる。必要なものを少しそろえるか、何も持たずに来るか、それだけの問題だった。もしかしたらフランクが何かを提案するかもしれない。

 

 一方、クーパーウッドは密会場所の不幸な発覚以降、アイリーンと連絡をとる努力を何もせずに彼女からの手紙を待っていた。手紙は間もなく届いた。それはいつもと同じ、長ったらしい、楽観的て、愛情に満ちた、反抗的で退屈な文章で、その中に、自分に起こったすべての出来事と、家出についての現在の計画が書いてあった。最後の話は少なからずクーパーウッドを戸惑わせ、悩ませた。

 

 家族に囲まれ、賢く、大切にされるアイリーンと、社会に出てクーパーウッドを頼るアイリーンとでは、状況が違う。自分が受け入れ準備を整える前にアイリーンが家を出て行かざるを得なくなるとは、想像したことがなかった。もし今そんなことをしたら、厄介な事態を引き起こすかもしれない。それでもアイリーンのことが好きで、大好きだから、アイリーンを幸せにするためなら何でもするつもりだ。もし最終的に刑務所に行かなければ、今でもアイリーンをきちんと養うことはできる。たとえ行ったとしてもアイリーンのために何とかやりくりできるかもしれない。しかし、自分の運命がどうなるかはっきりとわかるまで家にいるようアイリーンを説得できればそれに越したことはない。何が起きても、それなりの時間が経てば、いつかはこうした厄介な問題から解放されて、またうまくやっていける、と彼は信じて疑わなかった。その場合、離婚が成立すればアイリーンと結婚したい。結婚しなくても、とにかく、アイリーンを一緒に連れて行くのだから、この考え方でいくと、今アイリーンが家族と縁を切っても、同じかもしれない。しかし現在の複雑な状況――バトラーが行うであろう捜索――を考えると、これは危険かもしれない。バトラーが公然と誘拐罪で訴えてくる可能性さえある。従って、アイリーンには家にとどまってもらい、当分の間会ったり連絡を取り合うのをやめ、海外に行くことさえ説得しようと決めた。アイリーンが戻ってくるまでには自分の状況はよくなっているだろうし、アイリーンもそうだろう――こういう場合は常識に従うべきだ。

 

 これをすべて頭に入れて、アイリーンが手紙で言ってきた待ち合わせの約束を守ることにした。しかしそれでも実行するのは少し危険な気がした。

 

「本当にそんなところで暮らしたいの?」キャリガン家の家庭環境の説明を聞いた後でクーパーウッドは尋ねた。「かなり貧しそうに聞こえるんだけど」

 

「ええ、でも、あたしはあの人たちのことが大好きなのよ」アイリーンは答えた。

 

「それと、その人たちがきみのことを口外しないって自信があるのかい?」

 

「ええ、絶対よ! 絶対しないわ!」

 

「ならいい」クーパーウッドは締めくくった。「きみは自分が何をしているのかをわかっているんだね。きみの意思に反する助言はしたくない。私がきみだったら、お父さんの言う通りにして、しばらくここを離れるけどね。その頃にはお父さんだって立ち直っているだろう。それに、私はずっとここにいるんだ。時々きみに手紙を書けるし、きみだって私に書けるだろ」

 

 クーパーウッドがこれを言ったとたん、アイリーンの表情が曇った。アイリーンのクーパーウッドに対する愛情はとても大きかったので、長い別れをほんの少し匂わしただけで、ナイフで刺されたような衝撃があった。あたしのフランクがここにいて困っている――おそらく裁判にかけられるのに、あたしがその場にいないなんて! 絶対に嫌よ! こんなこと言うなんてどういうつもりかしら? あたしがフランクを愛しているほどフランクはあたしを愛していないのかしら? この人はあたしのことを本当に愛しているのかしら? アイリーンは自分に問いかけた。二人をもっと近づける行動をとろうとしているまさにそのときに、フランクったらあたしを捨てるつもりかしら? アイリーンの目が曇った。ひどく傷ついたのだ。

 

「まあ、何てこと言うのよ!」アイリーンは叫んだ。「あたしが今フィラデルフィアを離れるつもりがないのをあなたは知ってるでしょ。まさかあたしがあなたから離れるとは思ってないわよね」

 

 クーパーウッドはすべてがとてもはっきりとわかった。ありすぎるほど洞察力があったから、わからないはずがなかった。クーパーウッドはアイリーンのことが大好きだった。ああ、何てことだ、たとえどんなことがあったって、彼女の気持ちを傷つけるようなことはしないぞ! と思った。

 

「アイリーン」クーパーウッドは彼女の目を見てすかさず言った。「わかってないな。きみは自分のやりたいことをやればいい。きみは私と一緒にいるためにこれを計画したんだろ。じゃあ、すぐにでも実行することだ。もう、私のことや、私が言ったことを考えるな。私はただ、そんなことをすれば私たち二人の問題を悪化させるかもしれないと考えただけなんだ。でもそうならないと信じるよ。きみは、お父さんがきみのことをとても愛してるから、家出をすればお父さんが考えを改めると思うんだね。いいね、そうしよう。でも、私たちはとても慎重でいないといけないんだ――きみも私もね――本当にそうしないと駄目なんだ。事態は深刻になりつつあるからね。きみが家出をすれば、お父さんは誘拐罪で私を告訴するよ――世間に真相を明かして、これに関するすべてを話したら、私たちは二人とも深刻なことになる――私と同じくらいきみも大変だよ。そうなったら私の有罪は確実なんだ。他に何もなくても、それだけで決まりさ。そのときはどうするんだい? 当分は頻繁に私に会おうとしない方がいい――やむを得ないとき以外は会わない方がいいんだ。お父さんがあの手紙を受け取ったときに、私たちが常識を働かせてやめておけば、こんなことにはならなかった。でも、こうなった以上は、できるかぎり賢く振る舞わなければならない、わからないかい? だから、よく考えるんだ。そして自分が一番いいと思ったことをするんだ。そしたら私に手紙を書いてくれ。きみが何をしようと私の方はそれでいい――わかったかい?」クーパーウッドはアイリーンを引き寄せ、キスをして「先立つものが、ないんじゃないか?」と上手に締めくくった。

 

 アイリーンはクーパーウッドがたった今言ったことに深く心を動かされたが、少し考え、それでも自分の方針が一番いいと確信した。父はあたしを溺愛している。あたしに傷がつくことを公然とはしないだろう。だからあたしを利用してクーパーウッドを攻撃することはない。今もフランクに説明したけど、おそらく、父は戻って来いとあたしに頼み込むわ。これを聞いていたクーパーウッドは譲歩せざるを得なくなった。何で議論する必要があるんだ? いずれにしても、彼女が私から離れることはないのだ。

 

 クーパーウッドはアイリーンと知り合って初めてポケットに手を入れ、札束を取り出し、「ここに二百ドルある」と言った。「会うか、きみからの連絡を聞くまでの分だ。きみが必要なものは何でも私が用意する。もう私がきみを愛していないなんて考えないでくれ。私が愛していることは知ってるだろ。きみに夢中なんだから」

 

 アイリーンは、そんなにたくさん必要ない――本当に全然必要ない――家に多少はあるんだからと断ったが、クーパーウッドはそれを退けた。彼女にお金が欠かせないことを知っているからだ。

 

「何も言わなくていい」クーパーウッドは言った。「きみに必要なものはわかっている」アイリーンは両親から時々まとまった額のお金をもらい慣れていたから、これを何とも思わなかった。フランクは彼女をとても愛していたので、二人の間はすべてがうまくいった。アイリーンは気持ちを和らげ、二人は手紙のやり取りについて話し合い、自前の連絡係を使うのが一番安全だという結論に達した。クーパーウッドの煮え切らない態度のせいで失意のどん底に落とされていたアイリーンだったが、最後に二人が別れるときには、再び有頂天になっていた。アイリーンは、クーパーウッドが自分を愛していることを確信すると笑顔で立ち去った。あたしには頼れるフランクがいる――父に思い知らせてやる。クーパーウッドは首を振り、アイリーンを目で見送った。アイリーンは余計な重荷だが、彼女を手放すなど絶対にできない。こんなに彼女を大切にしているときに、この愛情という幻想からベールをはぎとって、彼女をとても惨めな気持ちにさせられるだろうか? できない。すでにやったことの外に、自分にできることは本当に何もない。結局、そんなに悪い結果にはならないかもしれない、と考えた。バトラーがちょっとでも調べる気になれば、アイリーンが自分のところに駆け込まなかったことは判明するのだ。いかなる場合であれ、致命的な結末からこの状況を救うために常識的対応をとる必要が生じたら、こっちはアイリーンの居場所についての情報をバトラー家に密かに知らせてしまえばいい。それでこの件に自分はほとんど関係してないことが伝わるし、バトラー家はアイリーンにもう一度家に戻ってくるよう説得を試みることができる。良い結果が出るかもしれない――こればかりはわからない。問題が生じたら対処しよう。クーパーウッドは急いで事務所に戻り、アイリーンは計画を実行に移すことに決めて自宅へ戻った。父親はアイリーンに決断する時間を少し与えていた――おそらくはもっと時間をくれるかもしれない――しかしアイリーンは待つつもりはなかった。いつも何でも自分の願いがかなえられてきたので、どうして今回は思い通りにならないのか理解できなかった。時刻は五時頃。アイリーンは家族全員がくつろいで食卓につく七時頃まで待って、それからそっと抜け出すつもりだった。

 

 しかし家に到着すると、行動を延期しなければならない予期せぬ理由に迎えられた。シュタインメッツ夫妻の来訪である――夫の方は有名な技師で、バトラーが手がけた仕事の多くの図面を描いた人だった。その日は感謝祭の前日だった。夫妻はアイリーンとノラをウエストチェスターの新居に二週間滞在してほしいと熱心に誘ってくれた――アイリーンはその建物の魅力を散々聞いていた。夫妻はものすごく感じのいい人たちで――比較的若くて興味深い友人たちに囲まれていた。アイリーンは家出を延期して出かけることにした。父親は最高に優しかった。シュタインメッツ夫妻が来て招待してくれたおかげで、アイリーンばかりではなくバトラーまでずいぶん安心することができた。ウエストチェスターはフィラデルフィアから四十マイル離れていたから、アイリーンがそこにいる間にクーパーウッドに会おうとする可能性は少ないからだ。

 

 アイリーンは状況が変わったことをクーパーウッドに伝えて出発した。クーパーウッドは安堵のため息をつき、これでこの嵐は完全に過ぎ去ったとそのときは思った。

 


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