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資本家  作者: ドライサーの小説の翻訳作品です
37/59

第37章

 

 バトラーは憤慨し、できればこの資本家を散々な目に遭わせてやると決めたにもかかわらず、自分が二十四時間前と同じ人間であることが到底信じられないほど、アイリーンの態度にひどく動揺して衝撃を受けていた。アイリーンは悪びれた様子もなく反抗的だった。自分の罪の重さと向き合えば、娘は完全に弱気になると彼は期待していたのだ。ところが、絶望したことに、いったん無事にあの家を出た後で、自分が娘の中に自分のものとは比較にならないほどの闘志を呼び覚ましてしまったことに気がついた。アイリーンにもバトラー自身やオーエンの気概が多少はあったのだ。アイリーンは――バトラーのものではない――小型馬車の中で父親の横に座っていた。バトラーはそれに乗って娘を自宅へ連れ帰るところだった。さまざまな考えが波が打ち寄せるように襲いかかるたびに、アイリーンの顔は赤くなったり青くなったりを繰り返し、父がこうも明らかに自分を罠にかけた今となっては、一歩も譲らず、クーパーウッドと自分の愛と自分の全体的な立場をはっきりさせようと決心した。今さら父親が何を考えようと、どうでもいいことじゃない、とアイリーンは自問した。これは自分の問題だ。あたしはクーパーウッドを愛している。あたしは父親の目からすればいつまでたっても恥さらしでしかないのだ。今後これはどう変わるのかしら? 父は親心とはいえ親馬鹿に陥り、このあたしを監視し、他の男たち――見知らぬ人、探偵、クーパーウッド――の前でさらし者にした。この先、あたしは父にどんな真の愛情を抱けるかしら? アイリーンからすれば、父親は過ちを犯たのだ。父は愚かで卑劣なことをしてくれた。これはあたしの行為がどんなにひどかったとしても正当化できるものではない。こんなやり方であたしのところに押しかけて、他の男たち――あの下品な探偵たち――の前で、あたしの魂からベールをはぎ取って、何をやり遂げたかったのかしら? ああ、寝室から応接室まで歩いたときのあの苦痛ときたら! こればかりは父を絶対に許さない――絶対に、絶対に、絶対に許すもんですか! 父は今、父に対するあたしの愛を殺したのよ――これがアイリーンの心情だった。これから二人の間で激しい闘いが始まるのだ。道すがら――いっときの完全な沈黙の中――アイリーンの両手は反抗的に握ったり開いたりし、爪は手のひらを切り、口は硬く閉じていた。

 

 がむしゃらな抵抗がこの先この世界で何か価値のあるものを生むかどうかは誰にもわからない。それは、この人間世界の仕組みに深く根付いているように思えるので、とかくまかり通っているように見える。おそらく、この人生という見世物はそれに負うところがあり、これが科学的に証明される可能性はかなり高いだろう。しかし、そう言われて証明されたからといって、それにどんな価値があるのだろう? その見世物にはどんな価値があるのだろう? そして、アイリーンと父親の間で演じられたこういうシーンにはどんな価値があるのだろう? 

 

 移動中のこの老人には、どう決着がつくのかわからない二人の間の厳しい争い以外、何も見えなかった。私がこの娘にできることは何なんだ? 私たちはせっかくこの恐ろしい惨事から遠ざかっているというのに、娘は一言も口を効いてくれない! 娘ときたら、どうしてこんなところに来たのよ、と尋ねさえしたのだ! 娘を罠にかける行為そのものが失敗したとなると、どうやって娘を従わせればいいだろう? 策略は物理的には大成功を収めたが、精神的には完敗だった。自宅につくとアイリーンは降りた。この老人は、このときすっかり困惑してこれ以上先に進みたくなかったので、馬車で事務所に戻った。それから外に出て歩いた――彼にとっては珍しいことだった。こういうことを――歩きながら考えることを――何年もしてなかったからだ。開いているカトリックの教会まで来ると、中に入って啓示を求めて祈った。室内の薄暗さ、聖櫃の前でぽつんと灯る聖体灯、ロウソクのそなえられた高く白い祭壇が、荒ぶる気持ちを和らげてくれた。

 

 しばらくして教会を出ると自宅に戻った。アイリーンは夕食の席に現れず、バトラーは食事が喉を通らなかった。自分の部屋にこもってドアを閉め――考えて考えて考え抜いた。あのいかがわしい家にいたアイリーンの恐ろしい光景が頭の中で燃えあがった。クーパーウッドが娘をあんなところに連れ込んだのだ――私のアイリーンを、私と妻のかわいい娘を。私が祈ろうが、迷っていようが、娘が反対しようが、状況が不可解だろうが、娘はここから抜け出さなければならない。しばらく遠くへ行き、あの男との関係を断たねばならない。そのときになれば法があの男にしかるべき処置を下すはずだ。どのみち、クーパーウッドは刑務所へ行くことになるだろう――行って当然の人物がいるとすればあいつだからな。打ち残した手がないか確かめよう。必要なら、個人的な問題ということにしよう。やらなければならないのは、私がこれを望んでいることを法曹界に周知させることだ。陪審員を買収することはできない。それだと犯罪になってしまう。しかしこの事件が正式に全力で法廷で争われるように手配することはできる。もしクーパーウッドが有罪になれば、神に助けを求めるしかない。金融界のあいつの友人の嘆願がやつを救うことはない。下級裁判所と上級裁判所の判事たちは、どちらが自分の利益になるかを知っている。彼らはその時々の最高権力者に有利になるよう無理な解釈でもするだろうし、私なら確実にそれに影響を及ぼすことができる。一方、アイリーンは自分の立場の奇妙さを考えていた。二人とも帰り道は無言だったが、アイリーンは父親との対話が迫りつつあることを知っていた。話し合いは必然だった。父はあたしをどこかに行かせたがるだろう。きっと、何らかの形でヨーロッパ旅行を蒸し返すだろう――このときアイリーンは、モレンハウワー夫人の招待を策略だと疑っていた。あたしは自分が行くかどうかを決めなくてはならない。クーパーウッドが裁判にかけられようとしているそのときに、あたしは彼を置き去りにしようというの? アイリーンは行かないことに決めた。彼がどうなるかを見届けたい。まずは家を出よう――誰か親戚か友人、何なら知らない人のところでもいいから駆け込んで、かくまってもらうのだ。多少のお金はある――少しだけど。父はいつもあたしのことになるととても気前がよかったからだ。着るものを少し持って行方をくらませればいい。しばらく家を出れば、喜んで迎えをよこすだろう。母は半狂乱、ノラとカラムとオーエンは驚きと心配で我を忘れ、父は――ああ、目に浮かぶわ。もしかしたら、これで父は正気に戻るかもしれない。感情の起伏が激しくても、アイリーンは自分がこの家の誇りであり、関心の的であることを知っていた。

 

 六番街の家でひどいさらし者にされた数日後に、父親が部屋へ来るように呼びつけたとき、アイリーンの考えが進んでいたのがこの方向だった。バトラーはアイリーンと密かに話をしたかったから、娘が家にいるのを期待して、午後早々に事務所から帰宅してみると、運良くアイリーンは家にいた。アイリーンはこの数日、外出したい気分ではなかった――これから起こるもめ事が気になって仕方がなかった。探偵がいるにもかかわらず、明日の午後ウィスコンシンで会いたい、とクーパーウッドに手紙を書いたばかりだった。どうしても彼に会わなければならない。父は何もしなかった、と伝えはしたが、何かをしようとするだろうという確信があったからだ。そのことでクーパーウッドと話がしたかった。

 

「お父さんはな、お前のことと、この問題をどうすべきかをずっと考えてたんだ、アイリーン」二人っきりで自宅の〝仕事部屋〟にこもったとたんに、父親は何の前置きもなく話し始めた。「もし破滅の道を歩む人がいるとするなら、まさにお前がそれなんだ。お前の不滅の魂のことを考えると、お父さんは震えてしまうよ。手遅れになる前に、お父さんは何かお前のためになることをしたいんだ。このひと月以上お父さんはずっと自分を責めてきたんだ。考えたよ、ひょっとして、お父さんが何かをしてしまったのか、それとも、お父さんかお母さんが、し忘れたのか、それがお前を今日のような事態に追い込んでしまったのかなって。言うまでもないが、それがお父さんの良心を苦しめてるんだ、我が子よ。今日お前が見ているのは、心を砕かれた男だ。お父さんはもう二度と頭を上げることはできないよ。ああ、恥だ――恥ずかしいったらない! あんなものを見るために私は生きてきたのか!」

 

「でも、お父さん」神と教会、家族、母親、父親への義務に関する長い説教を聞かねばならないのかと考え、少し取り乱したアイリーンは抗議した。そういうことのすべてがそれなりには重要なことはわかっていたが、クーパーウッドと彼の視点はアイリーンに新たな人生観を与えていた。二人は、この家族の問題――両親、子供、夫、妻、兄弟、姉妹――について、あらゆる視点から議論した。クーパーウッドの放任主義的な態度はアイリーンの考え方に浸透して完全に染め上げていた。アイリーンは彼の冷淡で率直な「私は自分が満足すればそれでいい」という態度を通して物事を見ていた。クーパーウッドは、人と人との間に生じて喧嘩や口論や対立や別れを生む、小さな性格の違いを残念に思ったが、そいうものはどうしようもない。人は成長していくうちにそれぞれ考え方が変わるからだ。人の考え方はさまざまな割合で少しずつ変化する――だから変わるのだ。モラル――これはある人にはあるが、ない人にはない。説明のしようがない。クーパーウッドにすれば、肉体関係が悪いとは全然思わなかった。互いに気の合う同士の間なら、それは罪がなく甘美だった。クーパーウッドの腕の中にいるアイリーンは、未婚でありながら彼に愛され、クーパーウッドもアイリーンに愛されたが、彼女は生きているどの女性と比べても善良で純粋だった――ほとんどの女性よりもはるかに純粋だった。人は、与えられた社会秩序や理論や物事の枠組みの中に自分を置いている。社会で成功するために、相手を怒らせないために、自分の道を平らにするために、物事を簡単にするために、無用な批判を避けるために、それらしい外見を作る――上辺では従っている――必要があった。それ以外は何もする必要がなかった。破産してはならないし、捕まるなどもってのほかだ。もしそうなったら、黙って戦い抜いて、何も言わないことだ。これは、彼が今抱えている金融上のトラブルに関係することで実行していることであり、先日事件が発覚した時点で実行する準備ができていたことだった。今話を聞いている間、すべてではないにしてもこれがある程度アイリーンの気分に色濃く反映していた。

 

「でもね、お父さん」アイリーンは反論した。「あたし、クーパーウッドさんを愛してるの。結婚したも同然なのよ。いつかクーパーウッド夫人と離婚すれば、彼はあたしと結婚するんだから。お父さんは事情がわかってないのよ。彼はあたしのことが大好きだし、あたしは彼を愛しているわ。彼はあたしを必要としているのよ」

 

 バトラーは怪訝そうに理解できないものを見る目で娘を見た。「離婚と言ったな」バトラーはカトリック教会と、このことに関係する教会の教義について考えながら話し始めた。「あいつは妻子と別れるつもりなのか――お前のために? あいつがお前を必要としているだと?」バトラーは皮肉をこめて付け加えた。「じゃあ、奥さんや子供たちはどうなるんだ? 家族にはあいつが必要なんじゃないのか? お前の話を聞こう?」

 

 アイリーンは反抗的に頭を後ろに反らせた。「それはそうだけどさ」彼女は繰り返した。「お父さんはわかってないだけよ」

 

 バトラーは自分の耳が信じられなかった。今まで生きてきたが、こんな話は聞いたことがなかった。このことはバトラーを驚かせ、衝撃を与えた。政治やビジネスのことなら微妙な駆け引きまで全部知っているが、恋愛の問題は手に負えなかった。恋愛のことなど何も知らないからだ。自分の娘がこんなことを言うなんて、しかもカトリックの娘とあろう者が! クーパーウッド自身の権謀術数に長けた堕落した頭脳が出処でなければ、娘がどこでそんな考えを知ったのか、バトラーにはわからなかった。

 

「お前はいつからそんな考えを持つようになったんだ?」バトラーは突然、冷静に、真面目に尋ねた。「どこでそんなことを覚えたんだ? この家の中では絶対にそんな話は聞かなかったはずだぞ。まるで気が変になったかのような口ぶりだな」

 

「ねえ、馬鹿なことは言わないでよ、お父さん」どうせこんなことを父親に言っても無駄だと思いながら、アイリーンは怒って燃え上がった。「あたしはもう子供じゃないんだから。二十四歳なのよ。お父さんがわかってないだけよ。クーパーウッドさんはね、奥さんのことが好きじゃないのよ。でき次第離婚して、あたしと結婚するつもりなんだから。あたしは彼を愛してる。そして彼はあたしを愛してる。それだけのことよ」

 

「ほお、そうなのか?」バトラーはどんなことをしてでもこの娘を正気に戻そうと固く決意して尋ねた。「それじゃ、お前は奥さんや子供たちのことは何も考えてないんだな? その上、あいつが刑務所に行こうが、お前には関係ないんだな。囚人服を着ることになっても、お前は同じようにあいつを愛するんだろうな――おそらく今以上に」(この老人は少し皮肉っぽくなったときが、人間的に言えば、一番調子よかった。)「お前のことだから、そういうことになっても、あいつを受け入れそうだ」

 

 アイリーンはたちまち激しく逆上した。「そうよ、あたし知ってるんだから」そして冷笑し「それってお父さんがやりたがってることでしょ。お父さんが何をやってるのか、あたし、知ってるんだから。フランクだって知ってるわ。お父さんは、彼がやってもいないことに何かの罪をきせて、刑務所に送ろうとしてるじゃない――全部あたしのせいなのに。あたし、知ってるのよ。でも、お父さんが彼を傷つけることはないわ。お父さんにはできっこないから! 彼はお父さんが考えてるよりも大きくて立派なの。長い目で見ればお父さんが彼を傷つけることはないわ。また立ち上がるもの。お父さんはあたしのことで罰したいんでしょうけど、彼は平気よ。とにかく、あたしは彼と結婚するわ。愛してますから。あたしは彼を待って結婚します。お父さんは自分の好きにすればいいわよ。さあ、どうぞ!」

 

「お前はあいつと結婚するつもりなのか?」バトラーは困惑し、さらに驚いて尋ねた。「あいつを待って結婚するだと? お前はあいつを妻子から引き離すつもりか。あいつが曲がりなりにも男なら、お前と遊び歩いたりせずに、この瞬間も家族のもとにいるだろうよ。なのに結婚するって? お前はお父さんやお母さんや家族の者に恥をかかせる気か? よくもお前はお父さんに向かってこんなことが言えるな、お前を育て、面倒を見て、一人前にしてやったこのお父さんに? お父さんと、気の毒な働き詰めのお母さんが、毎年毎年お前のために計画や予定を立ててこなかったら、お前はどうなっていただろうね? お前はお父さんなんかよりも賢いはずだ。お前は、お父さんや、お前に何だかんだと吹き込みたがる他の奴なんかよりも、世の中を知っている。お父さんはお前を立派なレディに育てあげたのに、こんなことになるなんて。お父さんにはわからないわ、と言われたり、お前が愛してる相手が囚人になる男で、それも泥棒、横領犯、破産者、うそつき、盗人――」

 

「お父さん!」アイリーンは決然と叫んだ。「そんなふうに言うなら、お父さんの話は聞かないわよ。あの人はお父さんが言うような人じゃありません。あたし、ここにはいられないわ」アイリーンはドアに向かったが、バトラーはすかさず飛び出して引き止めた。バトラーの顔が一瞬、怒りで赤くなって腫れた。

 

「だが、まだあいつとは決着がついてない」バトラーは続けた。娘が退去したがるのを無視して、直接話しかけた――娘にだって他の人と同じくらい私を理解する能力はある、とこのときは確信していた。「必ずあいつをやっつけてやる。この国には法律があるんだ。私はそれをあいつに適用させる。まともな家庭に忍び込んで、親から子供を奪えるかどうかをあいつに思い知らせてやる」

 

 バトラーは息が切れたのでしばらく話すのをやめた。アイリーンはじっと目を凝らた。顔はこわばり真っ青だった。父がこれほど愚かになれるとは。クーパーウッドや彼の考え方に比べると、父は時代遅れだ。あたしは自分から喜んで行ったのに、父は誰かが家に忍び込んであたしを父から奪ったなどと言えてしまう人なのだ。馬鹿馬鹿しい! なのに、どうして議論するの? ここでこんな風に父と議論して何の成果があるかしら? そしてしばらく、アイリーンはそれ以上何も言わなかった――ただ見ているだけだった。しかしバトラーは決してあきらめなかった。彼はこのとき、精一杯自分を抑えようとしていたが、感情がひどく高ぶっていた。

 

「言い過ぎたよ、娘」言いたいことが娘にあったとしても少ししかないだろう、と確信するとすぐにバトラーは穏やかに話を再開した。「お父さんは怒りで我を忘れかけているんだな。お前を呼んだときに、話すつもりでいたのはこれじゃなかったのに。他の考えがあったんだよ。もしかしたら、お前はしばらくヨーロッパに行って音楽を勉強したいんじゃないかと考えたんでな。今のお前は全然お前らしくない。お前には休息が必要だ。しばらく遠くに行くのがいいだろう。向こうですてきなひと時が過ごせるんだぞ。お前さえよければノラが一緒に行ってもいいんだ、それとお前の先生だったシスター・コンスタンティナもな。シスターならお前に異論はあるまい?」

 

 少し新しい形にするためにシスター・コンスタンティナと音楽まで投入した、このヨーロッパ旅行に再び話が及ぶと、アイリーンはつんと頭を反らせて、今度は内心半笑いだった。ここでこんな話を持ち出す父のやり方は、まったく馬鹿げている――実に芸がない。ましてやクーパーウッドさんとあたしを非難し、父の持っているすべての材料を使って脅した直後にするなんて。娘が相手だと全然駆け引きをしないのかしら? 本当に滑稽すぎる! しかしアイリーンはここでまた自分を抑えた。もうこの種の議論はすべて無駄だとわかったし感じてもいたからだ。

 

「そんな話、しないでほしいわ、お父さん」説明を聞いて態度を和らげながら、アイリーンは始めた。「あたしは今ヨーロッパには行きたくありません。フィラデルフィアを離れたくないのよ。お父さんがあたしを行かせたがってるのは知ってるけど、今行くなんて考えたくないわ。無理ね」

 

 バトラーの表情は再び曇った。娘のこうした抵抗に何の意味があるんだ? この問題で、この私を――自分の父親を――やりこめよう、と本当に思ってるのだろうか? できるはずがない! しかし、バトラーはできるだけ声を和らげながら、実に穏やかに続けた。「でも、これはお前にとって、とてもいいことだろ、アイリーン。お前だってきっとここにいつづけようとは思えないはずだ、あん――」バトラーは「あんなことがあった後じゃ」と言いそうになって口を閉ざした。娘がこのことにとても敏感なのを知っていたからだ。娘を追い詰めた自分の行為が、娘が憤りを感じているのがわかるほど父としての礼儀を欠いたことは知っていたし、ある意味では当然だった。それでも、娘の罪よりも大きなものはあるだろうか?「あんな過ちを犯した後じゃ」バトラーは話をしめくくった。「お前だってきっとここにいたくなくなるだろうしな。お前だってあんなこと続けたいとは思わんだろう――大罪を犯してるんだからな。あれは神と人の法に反してるんだ」

 

 バトラーは、アイリーンに罪の意識――精神的な観点から見た自分の罪の重大さ――が芽生えることを期待した――しかしアイリーンにはこれがまったくわからなかった。

 

「お父さんはあたしを理解してないわ」しまいには絶望して叫んだ。「お父さんには理解できないのよ。あたしにはあたしの考えがあり、お父さんにはお父さんの考えがあるのよ。今さら、お父さんに理解してもらえるとは思ってないから。知りたければ言うけど、あたしはもうカトリック教会を信じてません、だからそういうことなの」

 

 アイリーンは言ったそばから、これは言うんじゃなかったと思った。つい口が滑ってしまった。バトラーの顔に何とも言いようがない悲しい絶望の表情が浮かんだ。

 

「お前はカトリックの教えを信じてないのか?」バトラーは尋ねた。

 

「ええ、鵜呑みにはしてないわ――お父さんのようにはね」

 

 バトラーは首を振った。

 

「魂まで損なわれるとはな!」バトラーは答えた。「娘よ、何か恐しいことがお前の身に起こったのは明らかだ。この男がお前を堕落させたのだ、肉体も魂もな。何とかしなければならない。お父さんはお前に手荒なまねはしたくないが、お前はフィラデルフィアを離れないといけないよ。ここにはいられないからな。お父さんは許さない。お前はヨーロッパに行ってもいいし、あるいはニューオリンズのおばさんのところでもいい。でもね、お前はどこかよそへ行かなくてはいけないんだ。お父さんはお前をここにおいてはおけないよ――危険すぎるからな。これは確実に露見する。次は新聞がそれを取り上げるだろう。お前はまだ若い。人生はこれからなんだ。お父さんはお前の魂が心配だ。でも、お前は若いんだから、生きている限り、正気に戻るかもしれない。厳しくするのはお父さんの役目であり、お前と教会に対するお父さんの義務だ。お前はこの生活をやめないといけないよ。あの男とはわかれなければならない。もう二度とあいつに会ってはならない。お父さんは許さない。あいつはろくでなしだ。お前と結婚するつもりなどありはしない。それに、結婚したところで、それは神と人間に背く罪になるんだからな。いかん、いかん! 絶対にだ! あの男は破産者で、悪党で、泥棒だ。あんなのと一緒になったら、お前はすぐに世界一不幸な女になってしまうぞ。あいつはお前にだって誠実ではいないだろう。絶対に誠実でいるはずがない。そういうタイプじゃないからな」バトラーは心底むかついて、いったん話をやめた。「お前はここを離れなければならない。これだけは言わせてくれ。お父さんはお前のためを思って言うんだ。そうしてほしい。お父さんは心からお前を一番に思っている。お前のことは愛しているが、お前は行かなくてはならないんだ。お前が行くのを見送るのは残念だよ――お父さんだって、お前にはここにいてほしいんだから。誰よりも残念に思ってるが、お前は行かなければならない。お母さんには全部が自然に普通に見えるようにしないといけないけど、お前は行かなければ駄目だ――わかったか? お前はそうしなければならないんだ」

 

 バトラーはいったん話をやめて、ボサボサの眉毛の下からアイリーンを悲しげではあるがしっかりと見た。アイリーンは父がこれを本気で言っていることを知った。これは父の最も厳粛な、最も信仰心に満ちた表情だった。しかしアイリーンは答えなかった。答えられなかった。これが何の役に立つのかしら? ただ一つ確かなのは、自分が行かないことだった。彼女はこれを知っていた――だから青ざめて緊張してそこに立っていた。

 

「さあ、お前が欲しい服をみんな買ってあげよう」娘の本当の気持ちをまったく理解しないまま、バトラーは続けた。「とにかく好きなように着飾るといい。どこへ行きたいか言ってごらん。でも準備はするんだぞ」

 

「でも、あたしは行かないわよ、お父さん」とうとうアイリーンは同じくらい厳粛に、同じくらい決然と答えた。「あたしは行きません! フィラデルフィアを離れません」

 

「お父さんがこれだけお前のためを思って頼み事をしているのに、お前はわざと逆らおうというのではあるまいな?」

 

「ええ、そのつもりよ」アイリーンは決然と答えた。「あたしは行きません! あいにくだけど、行きませんから!」

 

「本気なんだな?」バトラーは悲しげだが厳粛に尋ねた。

 

「ええ、本気よ」アイリーンは厳粛に答えた。

 

「それじゃ、お父さんは自分に何ができるかを確かめないとならないな」老人は答えた。「お前がどんな人間であれ私の娘であることに変わりはない。私は自分の厳粛な義務だとわかっていることをやりもしないで、お前が破滅し堕落するのを見たくはないんだ。もう二、三日お前に考える時間をやろう。しかしお前は行かねばならないからな。それで終わりにしなさい。この国にはまだ法律がある。法に従わない者に対しては、できることがあるんだ。今回お父さんはお前を見つけた――そうするのがどれほど辛かったか。もしお前がお父さんに逆らおうとすれば、また見つけるまでのことだ。お前は生活態度を改めないといけないよ。お父さんは、お前のこの状態をつづけさせるわけにはいかないんだ。もう分かっただろう。これが最後の言葉だ。あの男と別れろ。そうすれば好きなものが何でも手に入るんだ。お前はお父さんの娘だ――お前を幸せにするためなら、お父さんはこの世の中の自分にできることを何だってするぞ。なのに、どうして駄目なんだ? 子供たち以外に、お父さんに何の生きがいがあるっていうんだ? 何年も働いて計画を立ててきたのは、お前や他の子供たちのためなんだぞ。だから、いい子になっておくれ。年を取ったお父さんのことを、愛してくれるだろ? お父さんは赤ん坊だったお前をこの腕であやしたんだぞ、アイリーン。お父さんは、お前がまだこの両手に収まるほどの大きさもなかったときからお前を見守ってきたんだ。お前にとって、いいお父さんであり続けてきたんだ――お前だってそれは否定できまい。お前がこれまでに見てきたよその娘さんたちをごらん。その人たちの中に、お前が持っている以上のものを持ってる者がいたか? この件に関してはお父さんに逆らわないでおくれ。お父さんはお前が逆らわないって信じてるよ。お前が逆らうはずはないからな。お前はお父さんのことを愛してるだろ、えっ――そうだろ?」バトラーの声は弱くなった。目には涙があふれていた。

 

 バトラーは話すのをやめて、大きな茶色いごつごつした手をアイリーンの腕に置いた。アイリーンは父の嘆願を聞いて動じないわけではなかった――実際、多少軟化していた――そこに絶望があったからだ。アイリーンはクーパーウッドをあきらめられなかった。彼女の父親はまったく理解してくれなかった。愛がどういうものなのかを知らないからだ。間違いなく、彼は娘がしたような恋愛をしたことがなかった。

 

 バトラーが訴える間、アイリーンは無言のまま立っていた。

 

「そうしたいわよ、お父さん」とうとうアイリーンは優しく穏やかに言った。「本当よ。あたしはお父さんを愛してますから。ええ、愛してるわよ。あたしだってお父さんを喜ばせたいわよ。でもね、これは駄目――できないわ! あたしはフランク・クーパーウッドを愛しているの。お父さんにはわからないのよ――まったくわかってないわ!」

 

 クーパーウッドの名前が再び出てくると、バトラーの口もとがこわばった。娘がのぼせあがっていることが見て取れた――慎重に計算された頼み事は失敗したのだ。だから、何か別の方法を考えなければならない。

 

「そうか、わかった」アイリーンが背を向けると、最後にバトラーは悲しそうに、とても悲しそうに言った。「お前がそういう気なら、そうすればいい。だが、お前は否応なく行かなければならないんだ。他に道はないんだからな。あることを神に願うよ」

 

 アイリーンはとても厳粛な面持ちで出て行き、バトラーは自分の机のところに行き腰を下ろした。「何という事態だ!」バトラーは独り言を言った。「厄介なことだ!」

 


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