表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
資本家  作者: ドライサーの小説の翻訳作品です
30/59

第30章

 

 これに関連して、クーパーウッドがまだ知らない進展がひとつあった。娘に関する匿名の手紙がエドワード・バトラーに届いたのと同じ日に、フランク・アルガーノン・クーパーウッド夫人にもほぼ同じ手紙が届いた。ただ、こっちは不思議なことにアイリーン・バトラーの名前が省かれていた。 

  

 

 おそらく、あなたは自分の夫が他の女と浮気していることを知りません。これを信じないなら、北十番街九三一番地の家を見張りなさい。

  

 

 月曜日の朝、この手紙がメイドによって持ち込まれたとき、クーパーウッド夫人は温室で植物に水をやっていた。昨夜の話し合いがどんな意味を持っているかを知らなかったから、至って心穏やかだった。フランクは時々、金融の嵐に見舞われたが、ダメージを受けると確認したわけではなかった。

 

「それは書斎のテーブルに置いといて、アニー。すぐもらうわ」

 

 夫人は何かの社交に関連した手紙だと思った。

 

 しばらくして(こういうことはのんびりやるので)じょうろを置いてから書斎に行った。手紙は、書斎の大きなテーブルの装飾の一翼を担っている緑色の羊皮の上にあった。手に取ると、安っぽい紙だったので物珍しそうに一瞥し、それから開封した。読むうちに顔が少し青ざめ、やがて手が震えた――大した震えではなかった。彼女の魂はこれまで情熱的な愛し方をしたことがなかったから、情熱的に苦しむことができなかった。傷つき、嫌悪し、いったん怒って、怖くなったが、完全に精神的に打ち砕かれたわけではなかった。フランク・クーパーウッドとの十三年の生活は、彼女にたくさんのことを教えた。夫は身勝手で、自己中心的で、以前ほど自分に魅力を感じていないことをリリアンは今ではわかっていた。自分が年上である年齢差の影響にもともと感じていた不安が、時間の経過とともにある程度現実のものになっていた。フランクはかつてほど自分を愛していない――しばらく前からそうだった。リリアンはこれを実感していた。これはどういうことかしら?――リリアンは何度も自問した――ようするに、相手は誰かしら? あんなに仕事にかまけきりなのに。

 

 金融のことしか頭にないのに。これは私の時代の終焉を意味するのかしら、とリリアンは自問した。フランクは私を捨てる気かしら? 私はどうなるのかしら? 私はどうすればいいの? もちろん、私は無力ではない。私には、フランクが私のために運用している自分の資産がある。この他の女って誰かしら? 若くて、美しくて、社会的地位がある女かしら? それって――? 突然、リリアンは考えるのをやめた。そんなことが? まさか、そんなことがありえるかしら――リリアンの口が開いた――アイリーン・バトラー? 

 

 手紙を凝視したまま立ち尽くした。自分の考えをどうしても受け入れられなった。二人がどんな警戒をしたにせよ、リリアンは、アイリーンがフランクに、フランクがアイリーンに、やけに親しげな態度でいるのをたびたび目撃していた。フランクはアイリーンのことが好きで、彼女をかばうチャンスを絶対に逃さなかった。この二人は不思議なほど互いに気質が似通っているとリリアンは時々思うことがあった。フランクは若い人たちが好きだ。しかし、もちろんフランクは既婚者であり、アイリーンはフランクよりも社会的地位がはるかに下であり、しかもフランクは二人の子持ちでこの私がいる。それに、彼の社会的経済的な地位は、しっかり固まって安定しているので、自分からわざわざそれを粗略に扱うことはあるまい。それでもリリアンは立ち止まった。たとえ最大級の資産家の地位を目前にしていようが、四十という年齢、二人の子供、多少の小皺、もうかつてのようには愛されていないかもしれないという疑念は、どんな女性でも立ち止まらせた。フランクと別れたら、私はどこに行ってしまうの? 世間はどう思うかしら? 子供たちはどうなるの? 私にこの不倫を証明できるかしら? 疑いを招く状況にいる夫に、罠をしかけることができるかしら? 私はそうしたいのかしら? 

 

 リリアンは今、自分の夫を愛している女性たちのようには、自分がフランクを愛していないことに気がついた。自分はフランクに熱中ではない。ある意味でリリアンはこの数年間フランクのことを当然のことのように受けとめていて、浮気しない程度には自分を愛してくれていると思っていた。少なくとも、フランクは人生のもっと重大な物事に夢中なので、この手紙にあるようなつまらない情事がフランクを煩わせたり、彼の偉大なキャリアを頓挫させたりすることはない、と考えていた。どうやら、これは事実ではないようだ。どうすべきだろう? 何て言えばいいんだろう? どう振る舞うべきだろう? 決して聡明ではないリリアンの頭脳は、この危機に際して大して役立たなかった。彼女は計画の立て方も、戦い方も、あまりよく知らなかった。

 

 型にはまった思考は、最高の状態であっても機械のちっぽけな一部にすぎない。その機能は牡蠣くらい、いや、もっとましかもしれない、ハマグリくらいである。貝が自分の思考回路という小さな管を、事実と状況という大海原に出し入れしたところで、それが使う量は微量で水をくむ力も非力だから、膨大な質量がじかに接している部分はかき乱されない。人生の精細さは何も感知されず、その動乱や恐怖のほんの小さな兆しさえ、偶然でもなければ決して発見されはしない。この手紙が証明するような粗野で示唆に富んだ事実が、平穏な出来事の流れの中に突然現れると、大変な苦悩というか、いわゆる通常の工程に障害や停滞が発生する。管は正常に機能しなくなり、恐怖と苦悩を吸い込んでしまう。環境に適合しない部品は大きく摩耗してしまう――機械に砂が混入するのに似てなくもなく――往々にして、人生は終わるか、それ以降はずっとぎくしゃくする。

 

 クーパーウッド夫人は型にはまった考え方をする人だった。人生について本当に何も知らなかった。人生も彼女に教えることはできなかった。つらい思考過程からは彼女の反応は生まれない。アイリーン・バトラーの感覚でいうと、リリアンは生きてはいなかった。それでも彼女は自分ではちゃんと生きていると思っていた。すべては幻想。彼女は存在しない。穏やかさを愛する人には、彼女は魅力的。そうでない人には魅力的ではない。人を引きつけもせず、華麗でもなく、力強くもない。フランク・クーパーウッドだって、どうして自分は彼女と結婚したのだろう、と最初は自問自答したかもしれない。もうしないのは、自分の失敗や過ちのことで過去を問い直すのは賢明ではないと信じるからだ。クーパーウッドにとって、後悔は愚行の極みである。彼は顔と思考を未来に向けつづけた。

 

 しかしクーパーウッド夫人は自分なりに心底苦しんだ。考え事をしながら、惨めな気持ちになりながら、家の中を歩き回った。手紙には自分で確かめてみろと書いてあったので待つことに決めた。やるにしても、この家を見張る方法を考えなくてはならない。フランクに知られてはならない。もし相手がアイリーン・バトラーだったら――まさかそんなことはあるまいが――両親に暴露してやろうと考えた。しかし、それでは自分までさらし者になってしまう。夕食のときはできるだけ自分の感情を隠すことに決めた――しかしクーパーウッドはその場に居合わせることができなかった。彼は多忙で、人とこもりっきりになることが多く、父親や他の人たちとも緊密に話し合いを持ったので、リリアンはこの月曜日の夜も翌日も何日も、彼にはほとんど会わなかった。

 

 クーパーウッドは、債権者集会を火曜日の午後二時半に招集して、五時半には管財人の手に委ねる決定を下した。事務所で主要な債権者――三十名――を前にしても、人生が破綻したとは感じなかった。一時的に困っているだけだ。確かに、お先真っ暗だ。市財務官の職権濫用は大騒ぎになるだろう。ステナーがその気になれば、六万ドルの市債の証書を担保にした件が、もうひと騒動起こすだろう。それでも、彼は完全に破滅したとは感じなかった。

 

「みなさん」この集会の説明の締めくくりに、クーパーウッドはこれまでとまったく同じように直立不動で、自信満々、大胆不敵、説得力のある口調で述べた。「状況はおわかりでしょうが、これらの株券にはこれまでとまったく同じ価値があります。株の背景にある資産には何の問題もありません。十五日から二十日ほど時間をいただければ、問題はすべて解決できると確信しています。これができるのは私だけと言っていいでしょう。私は問題のすべてを把握しておりますから。マーケットは必ず回復します。経済活動はこれまで以上に活況を呈するでしょう。私がほしいのは時間です。この状況で重要なのは時間だけです。みなさんが十五日から二十日――できればひと月――私に時間をいただけるか、それを知りたいのです。私がほしいのはそれだけです」

 

 クーパーウッドは脇へどき、自分の状況を内々で話し合う機会を債権者たちに提供するために、ブラインドが引かれた応接室を出て自分の事務所にこもった。集会には彼を支持する友人たちがいた。話し合いが続く間、クーパーウッドは一時間、二時間、三時間近く待った。ようやく、ウォルター・リー、ジャッジ・キッチン、ジェイ・クック商会のアベリー・ストーン、他数名がやってきた。彼らはさらなる情報を集めるために選任された委員たちだ。

 

「今日はもう何もできないよ、フランク」ウォルター・リーは静かに告げた。「帳簿を調べる権利を欲しがる連中が大勢いるんだ。あなたがあると言っている市財務官との悶着にいささか不透明な部分があるからね。いずれにしても、みんなはあなたがいったん休業を発表した方がいいと感じてる。後で再開させたくなれば、再開させられるからね」

 

「こうなったのは残念です、みなさん」クーパーウッドはほんの少しだけ落胆して答えた。「いったん休業するくらいだったら何だってしますよ。それがどういうことかはわかってますから。株式を正常な流通価格で評価すれば、負債をはるかに上回る資産がうちにあることが、みなさんにもわかるでしょう。でもこの店を閉めたら、どうにもならなくなるんです。世間が私を信用しなくなりますからね。店は開けておくべきです」

 

「残念だが、フランク」リーは親身になって手を押しあてて言った。「私の一存で済むのなら、ほしいだけの時間をあなたにあげましたよ。論理的な説明に耳を貸そうとしない石頭の爺さんが多くてね。パニックになってるんです。向こうは向こうでかなりの痛手を被ってるんでしょう。あの人たちを責めることはできませんよ。あなたが店を閉める必要はないとは思うんだが、あなたなら大丈夫。いずれにしても、あの連中が相手じゃ我々には何もできない。でも、まったくな、あなたが破産するなんて思わなかったよ、ほんと。こういう株は十日もすれば持ち直すだろうに」

 

 ジャッジ・キッチンもまた同情してくれた。しかしそれが何の役に立つのだろう? クーパーウッドは一時的休業を迫られていた。会計の専門家が来て帳簿を調べなければならなくなるな。バトラーがこの市財務官との関係のニュースを広めるかもしれない。この最後の市債取り扱いの件をステナーが訴えるかもしれない。頼れる友人が六人も午前四時までそばにいてくれた。しかしそれでもクーパーウッドは休業しなければならなかった。休業した時点で、富と名声を求める競争で最終的に敗北したわけではないとしても、深刻なダメージを受けたことはわかる。

 

 ようやく寝室で本当にひとりぼっちになってから、クーパーウッドは鏡に映る自分の姿を見つめた。顔は青白く疲れてはいるが、説得力も影響力もあると思った。「ふん!」クーパーウッドは独り言を言った。「へこたれるもんか。まだ若いんだ。何とかしてこの状況を抜け出してやる。必ずだ。何か突破口を見つけてやる」

 

 ぐったりと疲れたように考え事をしながら、クーパーウッドは服を脱ぎ始めた。やっとの思いでベッドに沈んでしばらくすると、あれほど周囲は厄介事だらけだったのに、不思議に思えるかもしれないが、眠ってしまった。クーパーウッドにはそれができた――とても安らかに眠って喉を鳴らすことができた。その一方で父親は自分の部屋で床を歩き回って、人心地がつくのを拒んでいた。この老人の前途は真っ暗――未来は絶望的だった。息子の前にはまだ希望があった。

 

 そして、この新たな災難に直面したリリアン・クーパーウッドは、自分の部屋で何度も寝返りをうった。実家の父親とフランクとアンナと義理の母親から知らされて、フランクが破産しそうだ、あるいは破産するだろう、あるいは破産した、ということが突然明らかになった――どういう状況なのか、正確には到底言えなかった。フランクは多忙で説明していられなかった。シカゴの火事のせいだ。市財務官の件はまだ何も取り沙汰されてはいなかった。フランクは罠にはまり必死に戦っていた。

 

 この危機の中で、リリアンは一時的に夫の不貞に関する手紙のことを忘れた、というよりは無視した。驚き、怯え、呆れ、困惑した。リリアンの小さな穏やかで美しい世界は、めまぐるしくぐるぐる回っていた。みんなの運命を乗せた魅力的で飾り立てた船は、あっちへこっちへと情け容赦なく吹き飛ばされていた。ベッドにとどまって眠る努力をするのがある種の義務だと感じたが、目は冴え渡り、頭痛がした。数時間前にフランクが、私のことは気にしなくていい、きみには何もできないと言ったので、リリアンは自分の義務の境界線はどこにあってどういうものかしら、と以前に増して悩みながらフランクを放っておいた。夫唱婦随と昔から言うから、リリアンはそれに倣うことにした。そうよ、信仰もそう言ってるし、昔からそうだもの。子供だっているんだし。子供たちが傷つくのはよくないわ。できるのであれば、フランクに改心してもらわないと。フランクならこれを乗り越えるわ。それにしても、まいったわ! 

 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ