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資本家  作者: ドライサーの小説の翻訳作品です
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第11章-第19第

  

第十一章

 


最初の大儲けのチャンスがクーパーウッドに巡ってきたのは、戦争中のことで、戦争が数日では終わらないことがはっきりした後だった。当時、国、州、市には強い資金需要があった。一八六一年七月、議会は五千万ドルの借り入れを承認し、利息七パーセントを超えない二十年債が担保とされた。州は同様の担保で三百万ドルの借り入れを承認し、初回はボストン、ニューヨーク、フィラデルフィアの金融業者が担当し、二回目はフィラデルフィアの金融業者が単独で担当した。クーパーウッドはこれに手が出せなかった。それだけの大物ではなかった。個人的に知っていたり、あるいは評判を聞いている人たちが〝国と州を支援する最善の方法を検討する〟ために集まっているという記事を新聞で読みはしたが、彼はその中に含まれなかった。それでも、彼の魂はその一員になりたいと熱望した。お金持ちは、言葉だけで用が済むことがよくあることに気がついた――お金も証書も担保も何もいらないのだ。もし、ドレクセル商会、ジェイ・クック商会、グールド&フィスク商会が背後にいると噂されたら、どれだけ保証されるだろう! フィラデルフィアの青年ジェイ・クックは、ドレクセル商会と組んでこの州債を引き受け、額面価格で販売するという快挙を遂げたのだ。世間一般の意見は、九十パーセントで売るべきであり、それでしか売れないというものだった。クックはこれを信じず、州の誇りと愛国心は、中小の銀行や民間人にこの公債を売り出す正当な理由になり、民衆は満額でもそれ以上でも出してくれると信じた。結果はものの見事にクックの読みの正しさを証明し、世間での彼の評価が確立した。クーパーウッドは、自分も何かこういう攻勢をかけられたらいいのにと思った。しかし彼はあまりにも現実的過ぎたので、目の前にある諸々の事実と周囲の状況以外のことにまで気を回せなかった。


約半年後、州が追加資金を確保しなければならなくなることが判明したときに、クーパーウッドのチャンスが訪れた。州に割り当てられた軍隊に、装備と給料を支給しなければならなかった。講じられるべき防衛措置と、補充されねばならない資金があった。二千三百万ドルの公債を求める案が最終的に議会で承認されて発表された。巷では誰が扱うかが取り沙汰された――もちろん、ドレクセル商会とジェイ・クック商会だった。


クーパーウッドはこれについてじっくり考えた。もし今この大きな公債の一部でも扱うことができたら――必要な人脈がないので全部を扱うのはおそらく無理だった――まとまった額を稼ぐ一方で、ブローカーとしての評判をかなり上げることができるだろう。自分ならどれくらい扱えるだろうか? それが問題だ。誰が引き受けてくれるだろう? 父親の銀行? 多分。ウォーターマン商会? 少しは。ジャッジ・キッチン? 微々たるものだ。ミルズ・デビッド商会? 確実だ。自分を通じて――個人的な友情、善意、過去の恩義への感謝など、さまざまな理由で――七パーセントの公債の一部を引き受けてくれそうないろいろな個人や企業を考えた。クーパーウッドは心当たりをすべて考えた。そして地元の政治家を通じて個人的な影響力を行使して、これだけの公債を自分が扱えたら、事前に少し声をかけておけばおそらく百万ドルは処分できることが判明した。


彼の評価の中である特定の人物が、表面には見えない微妙な政治的人脈を持つ者として、存在を強くしていた。これがエドワード・マリア・バトラーだった。バトラーは請負業者で、下水道や水道本管の施工、ビルの基礎工事、道路の舗装などを手がけていた。その昔、クーパーウッドが彼を知るずっと前は自営のゴミ収集業者だった。その当時、市には広範囲に及ぶ道路清掃事業がなく、とりわけ郊外と古くからある貧しい地域の一部には行き届かなかった。当時は貧しかった若いアイルランド人のエドワード・バトラーが、生ゴミを無料で回収、撤去し、自分の豚や牛の餌にしたのが始まりだった。やがて、このサービスにささやかな料金を払ってくれる人たちがいることを知った。そのときに、地元の政治家と、彼の友人の議員――二人ともカトリック――が、この全体像に新しい論点を見出した。バトラーが公認のゴミ収集業者になってしまえばいい。議会はこのサービスに対して年間の予算を成立させることができた。バトラーは今よりもっと多くの荷馬車を雇うことができた――何十台も。それだけではなく、他のゴミ回収業者は認められなくなるのだ。他に業者がいても、バトラーに認められた公式契約が、公式に、すべての邪魔なライバルの命も断つことになった。請負業者ではない者の感情を和らげるには、収益の一定額が充てられねばならない。蓄えたお金は、選挙のときに特定の個人や団体に貸し付けられねばならない――これは何の問題もなかった。額が小さいのだ。そこで、バトラーとパトリック・ギャビン・コミスキー議員は(後者は無言のまま)業務提携した。バトラーは自分で荷馬車を運転するのをやめた。ジミー・シーハンという近所の賢いアイルランド人の青年を雇って、助手、管理者、馬の世話、経理などを任せた。それまで二千ドルだった年収がすぐに四千ドルから五千ドルになったので、南側の郊外にあるレンガ造りの家に引っ越して、子供たちを学校に通わせた。バトラー夫人は石鹸作りと豚の餌やりをやめた。それ以来、エドワード・バトラーは極めて順調に行っていた。


最初は読み書きもできなかったが、今はもちろん、やり方を知っている。コミスキー氏との付き合いで、他にも請負業――下水道、水道本管、ガス管、道路舗装など――があることを知った。これをやるのにエドワード・バトラーよりもうまくやれる者がいただろうか? 彼は市議会議員に顔が広かった。彼は酒場の奥の部屋で、日曜日や土曜日は野外の政治集会で、選挙の評議会や会議で、彼らに会った。市の手厚い恩恵を受けている者として、お金だけではなく、助言も期待された。不思議なことに、彼は不思議な政治的叡智を発達させていた。見れば、成功する男や、将来有望な男がわかるのだ。彼の経理係、管理職、時間記録係の多くが成長して市議会議員や州議会議員になった。彼が指名した人物は――政治的な話し合いの場で提案された者は――成功することがよく知られた。まずは議員区で、次に立法区で、そして所属政党――もちろんホイッグ党――の市議会で、影響力を持つようになり、やがて組織を持つようになった。


議会では謎の力がバトラーに都合よく働いた。重要な契約が与えられたし、彼がいつも落札した。ゴミ処理の仕事はもう過去のものだった。長男のオーエンは、州議会議員であり、彼の事業の共同経営者だった。次男のカラムは、市の水道局の事務員であり、父の補佐役でもあった。長女のアイリーンは十五歳で、ジャーマンタウンのセント・アガサ修道院付属学校にまだ通っていた。次女で末っ子のノラは十三歳で、カトリックの修道女会が運営する地元の私立学校に通っていた。バトラー家は南フィラデルフィアからジラード・アベニューの千二百番台に近くに引っ越した。そこで新たなかなり面白い社交的な生活が始まっていた。一家は社交界の一員ではなかったが、請負業者のエドワード・バトラーは、現在は五十五歳、資産五十万ドルの資産家で、政財界に数多くの友人がいた。もはや〝荒くれ者〟ではなく、がっしりとした、赤ら顔の、軽く日焼けした、肩幅が広くて、胸板が厚く、灰色の目と灰色の髪を持つ男性で、典型的なアイルランド人の顔は、豊富な経験のおかげで、賢く、穏やかで、考えが読めなくなっていた。大きな手と足は、彼が最高級の英国製スーツやなめし革と着てこなかった時代を偲ばせるが、彼の風貌は決して見苦しくなかった――むしろ正反対だった。訛りは抜けきれていないが、穏やかな口調には愛嬌と説得力があった。


バトラーは路面鉄道網の発展にいち早く目をつけたひとりで、クーパーウッドや他の大勢の人たちと同じように、これはすばらしいものになるという結論に達していた。購入を勧められた株式や持ち分のリターンが、そのことを十分に証明していた。あちこちのブローカーを通して取引をしていたが、最初の会社組織に入りそびれてしまった。あっちの会社でもこっちの会社でもできるだけ多くの株を集めたかった。彼はすべての会社に将来性があると信じていたし、そして何よりも、路線の一、二本を支配したいと考えたからだ。この構想に関連して、自分の指示に従って働き、自分の言ったことを実行する、誠実で有能な信頼できる若者を探していた。そんな矢先にクーパーウッドのことを知り、ある日、使いを送って自宅に来てほしいと頼んだ。


クーパーウッドは、バトラーのことも、その日の出の勢いも、人脈も、実力も知っていたのですぐに反応した。ある寒い身の引き締まる二月の朝、指示されたとおりに自宅を訪れた。その後もその通りの様子を忘れることはなかった――レンガで舗装された広い歩道と、マカダム道路にはうっすらと雪が積もり、若い葉の落ちた低木と街灯が並んでいた。バトラーの家は新築ではなく、買って修繕したものだったが、当時の建築物としては不満のないものだった。幅五十フィート、高さ四階建ての灰色の石造りで、四段の幅の広い石段が玄関までつづいていた。白で縁取られた窓のアーチにはU字型の要石(かなめいし)があった。外の寒さと雪とは対照的な暖かく輝く窓から、レースのカーテンと赤いブラシ天が垣間見えた。きちんとした身なりのアイルランド人のメイドが玄関までやって来た。名刺を渡すと、クーパーウッドは家の中に通された。


「バトラーさんはご在宅ですか?」


「わかりません。見てまいります。外出したかもしれません」


しばらくすると二階にあがるように言われ、何だか営業所のような部屋にバトラーがいるのを見つけた。机と事務椅子、革張りの家具、本棚があった。しかし、オフィスとしてもリビングとしても、まとまりや調和が全然なかった。壁には何枚か絵がかかっていた――一つは見るに堪えない暗くて陰気な油絵。もう一つはピンクとナイルグリーンの運河と(はしけ)の風景画。それと、決して悪くない親族と友人の銀板写真。クーパーウッドは二人の少女のうちの片方に注目した。ひとりは赤みがかった金色の髪で、もうひとりはシルクのような茶色の髪をしていた。銀板写真の美しい銀の効果は色づけされたものだった。健康的で、微笑ましい、ケルト系で、頭を寄せ合い、目は見る者をまっすぐ見ている、かわいらしい少女たちだった。クーパーウッドは何気なく称讃の目で眺め、バトラーの娘たちに違いないと思った。


「クーパーウッドさんだね?」バトラーは母音に独特のアクセントをたっぷりつけてその名前を口にした。(堂々とした落ち着いた態度の、ゆっくりと動く男だった)。クーパーウッドは彼の体が風雨にさらされ天日でよく乾燥させられたヒッコリーのように、強壮でたくましいことに気がついた。頬の肉には張りがあり、この男には柔らみやたるみがまったくなかった。


「そうです」


「株の〝件〟で少し話したいことがあってね」(〝件〟が訛ってきこえた)。「私があなたの事務所に出向くべきなんだろうが、あなたにここに来てもらった方がいいと思ったんだ。我々はもっと個人的な関係になれるかもしれない。それに、私は昔のように若くはないものでね」


訪問者を見定める間、バトラーは目にきらめきのようなものを宿らせた。


クーパーウッドは微笑んだ。


「私がお役に立てれば幸いです」と穏やかに言った。


「ちょうど今、ある路面鉄道株を市場で集めようと思い立ったものでね。そのことについては後で話しますよ。何か飲みませんか? 寒い朝だしね」


「いえ、結構です。私は飲みませんので」


「全然? ウィスキーに向けるには、厳しい言葉だ。まあ、いいさ。いい心掛けだ。うちの息子たちも全然手をつけない。それはいいんだがな。さっきも言ったが、私は取引所を通してちょっとした株の買い付けをしたいんだ。しかし、正直に言うと、その人物を介して私が活動できる、あなたのような賢い若者を見つけることの方がもっと関心があるかな。この世界は、こっちがあっちにつながってたりするんだ」そして、バトラーは曖昧な態度で、それでいて愛想よく興味を示しながら、訪問者を見た。


「そうですね」クーパーウッドはお返しに親しげな明るい笑みを浮かべて答えた。


「それでだ」 バトラーはじっくり考え、半分は自分に、半分はクーパーウッドに向かって言った。「その気があれば、優秀な若者は街で私のためにやれることがたくさんあるんだ。私にも優秀な息子が二人いる。でも、彼らに株のギャンブラーになってほしいとは思わない。それに私が望んだとしても、彼らがそんなものになる気があるのか、なれるのかもわからんしな。だが、これは株のギャンブルの問題じゃあないんだ。これでも、私は結構忙しい。さっきも言ったが、うまくいっている。昔ほど足取りは軽くないがね。しかし、もしふさわしい若者がいたら――ところで、あなたの経歴を調べてみたんだがね、気にせんでくれよ――その若者はちょっとしたことをたくさんやれるんだ――投資とか融資――お互いにちょっとした利益をもたらしてくれるかもしれんものだよ。時々、町中の若い連中が、あれやこれやで私に助言を求めてくることがある――その連中は投資にまわせるものを少し持ってるんだ。それでだ――」


バトラーは話を中断し、じらすように窓の外を眺めた。クーパーウッドが興味津々であることも、政治的影響力と人脈についてのこの話が相手の欲望を刺激しかしないことも十分知っていた。バトラーは、この件では忠誠が大切であることを相手にはっきりと認識させたかった――忠誠、機転、奸智、隠密性。


「まあ、私の経歴を調べていたのであれば」クーパーウッドは持ち前のつかみどころのない笑みを浮かべて言い、考えを中断させた。


バトラーは気質と主張の力強さを感じた。この若者の落ち着きと安定感が気に入った。何人かの人がバトラーにクーパーウッドについて話していた。(それは今はクーパーウッド商会で、会社と言っても名ばかりのものに過ぎない)。バトラーは巷の問題、市場の運営状況、路面鉄道について彼が何を知っているか、を尋ねた。最後にバトラーは特定の二つの路線――九番街=十番街線と十五番街=十六番街線――の株式を、できれば人目を引かないように、買えるだけすべて買う計画のあらましを説明した。一部は取引所で、一部は個人の株主から、ゆっくり買い集められるというものだった。今の路線の終点のさらに先の地域へ延長する認可を取得するために自分がかけたがっている、一定規模の法的圧力があることを、バトラーはクーパーウッドには話さなかった。その目的は、会社が施設を拡張するときに、まさにその会社の大株主になっているかもしれないバトラーか彼の息子に会社が会わなければならないようにするためだった。これはずっと先を見越した計画であり、この鉄道が最終的に彼かその息子の手中に落ちることを意味していた。


「バトラーさん、何なりとあなたの提案に沿う形で、私は喜んであなたに協力いたします」クーパーウッドは言った。「まだ事業規模が大きいとは言えませんが――将来性だけはあります。人脈は確かです。今はニューヨークとフィラデルフィアの取引所の会員です。私と取引をしたことがある者は、私が出した結果に満足しているようです」


「あなたの仕事ぶりについてはすでにある程度知っている」バトラーは物知り顔で繰り返した。


「わかりました。それでは、依頼があるときは、いつでも私の事務所に電話か手紙をいただくなり、あるいは私がこちらに出向くことにしましょう。私どもの秘密の行動別番号表をお渡ししますので、あなたの言うことはすべて厳重に秘匿されます」


「じゃあ、今のところはもう言うことはない。数日のうちに渡すものを渡す。そうすれば、必要なものは一定額まで私の銀行から引き出せるからな」バトラーは立ち上がって通りを眺めた。クーパーウッドも立ち上がった。


「今日は、いい天気だな?」


「そうですね」


「きっと、我々はお互いにもっとよく知り合うことになるだろう」


バトラーは手を差し出した。


「同感です」


クーパーウッドは外に出た。バトラーは玄関まで一緒に行った。そのとき、通りから少女が飛び込んできた。赤い頬、青い目、緋色のケープを羽織り、その尖ったフードが赤みがかった金髪を覆っていた。


「あら、パパ、もう少しでぶつかって倒しちゃうとこだったわね」


少女は父親と、ついでにクーパーウッドにも、きらきらと輝く包み込むような笑顔を見せた。歯は白く小さく、唇は蕾のように赤かった。


「早かったね。一日中うちにいるとばかり思ってたよ」


「そのつもりだったけど、気が変わったの」


少女は腕を振りながら、通り過ぎて中に入った。


「そうだな――」娘が行ってしまうと、バトラーは話を続けた。「それじゃあ、一日か二日置いてからにしよう。さよなら」


「失礼します」


クーパーウッドは金融面の展望が開けていくことに胸を熱くして階段を下りた。ついでに、今の赤い頬の少女の中に現れた若さの陽気な精神に一瞬思いを巡らせた。何て明るくて、健康的で、活発な少女だろう! 声には十五か十六歳の繊細で力強い響きがある。元気いっぱいだ。いつか、どこかの若者のいい結婚相手になるんだろうな。あの父親は、間違いなく、そいつを金持ちにするか、そうなるのを助けてやるのだろう。

 

 

第十二章


約十九か月後、州債発行の一部を自分にも割り振ってもらう影響力を考えていたときに、クーパーウッドが思いついたのが、エドワード・マリア・バトラーだった。バトラーならおそらく彼自身が興味を持って債権の一部を引き受けるかもしれないし、クーパーウッドが誰かに売りさばくの手伝えるかもしれなかった。バトラーはクーパーウッドをとても気に入っていた。今では株式の大量購入が見込める客としてクーパーウッドの帳簿に記載されていたし、クーパーウッドの方でもこの大物の堅実なアイルランド人を気に入っていた。彼の生い立ちも好きだった。バトラー夫人にも会ったことがあった。かなり太った粘液質のアイルランド人女性で、見た目を全然気にせず、今でも台所に入って料理を監督するのが好きだった。息子のオーエン、カラム、娘のアイリーン、ノラにも会っていた。アイリーンは、数か月前にクーパーウッドが初めてバトラー邸を訪問した日に、元気よく階段をのぼって来た少女だった。


クーパーウッドが訪問したとき、ありあわせのもので間に合わせたバトラーの個人事務室では暖炉が心地よく燃えていた。春が近づいているというのに、夕方はひんやりした。バトラーは、クーパーウッドに暖炉の前の大きな革張りの椅子に座って体を楽にするよう促し、それから、彼がやり遂げたがっていることについての詳しい説明に耳を傾けた。


「うーん、それはそう簡単なことではないな」最後に意見を述べた。「そういうことは、私よりもそちらの方が詳しいはずだ。知ってのとおり、私は金融の人間じゃあない」バトラーは申し訳なさそうに歯を見せて笑った。


「これは影響力の問題なんです」クーパーウッドは続けた。「それと、身びいきですね。それはわかってるんです。ドレクセル商会とクック商会はハリスバーグにコネがあります。自分たちの利益を守る仲間がいるんです。司法長官と州財務官は彼らと結託しています。たとえ私が入札に参加してその公債を取り扱える能力を証明できても、それでは私が公債を引き受ける助けにはなりません。他の人たちが実証済みです。私も友人――影響力――をもたねばなりませんです。あなたなら、状況はおわかりですよね」


「そういうことは」バトラーは言った。「近づく相手がわかれば簡単だ。今ならジミー・オリバーがいるな――あいつならその辺のことは何か知っているはずだ」ジミー・オリバーはこの当時働いていた元地方検事で、ついでに言うと、いろんな方面で惜しみなくバトラーの相談にのっていた。彼もまた、偶然、州財務官の個人的に親しい友人だった。


「公債はどのくらい欲しいんだ?」


「五百万ほど」


「五百万だと!」バトラーは座り直した。「おい、どういうつもりなんだ? かなりの大金だぞ。それだけのものを、どこで売りさばくつもりなんだ?」


「五百万ドル分、落札したいんです」クーパーウッドはなだめる感じで穏やかに言った。「欲しいのは百万ドルだけなんですが、五百万ドルを確かに落札したという評判が欲しいんです。(ちまた)でいい影響が出るでしょう」


バトラーはいくらか安心したように深く座った。


「五百万か! 評判な! 欲しいのは百万。うーん、違う気がするが、満更悪い考えでもない。それを手に入れられるのなら、手に入れるべきだな」


バトラーはさらに顎をこすって、じっと火を見つめた。


その晩バトラー邸を離れるとき、クーパーウッドは確信した。バトラーは自分の期待を裏切るどころか、この車輪を動かしてくれる。数日後に、市財務官のジュリアン・ボーデに紹介されたとき、クーパーウッドは驚かなかったし、これが意味するものが何なのかを正確に知っていた。ボーデは、クーパーウッドを州財務官のヴァン・ノーストランドに紹介し、考慮してほしい彼の要求が検討されるようにすることを約束した。「もちろん、わかってるだろうが」ボーデはバトラーの前でクーパーウッドに言った。この話し合いが行われたのがバトラー邸だったからだ。「この銀行勢は非常に強力なんだ。顔ぶれは知ってるだろう。向こうはこの公債発行の仕事に干渉されることを望んでいない。向こう」――つまり州都ハリスバーグ――「の代表のテレンス・レイリハンと話したんだが、向こうは一切支持しないと言っている。落札後にフィラデルフィアのここでだって苦労するかもしれないぞ――向こうがかなり強力なのは、きみも知ってるだろう。さばける場所には自信があるんだろうな?」


「はい、大丈夫です」クーパーウッドは答えた。


「じゃあ、こっちとしては、何も言わないのが一番だな。ただ自分の入札をするだけのことだ。ヴァン・ノーストランドが知事の承認を得て落札者を決める。知事の方はこちらで話をつけられると思う。落札した後で、向こうが個人的な話を持ちかけてくるかもしれないが、それはそちらの仕事だ」


クーパーウッドは謎めいた笑みを浮かべた。金融の世界にはたくさんの表と裏がある。それは果てしない網の目のような地下洞で、道に沿ってあらゆる種類の影響力がうごめいている。ちょっとした機転、ちょっとした敏捷性、時機と機会にちょっと恵まれる――時にはこういうものが功を奏する。他の何ものでもなく、のしあがりたい野心から、クーパーウッドは州財務官と知事に接触しようとしていた。先方は彼の要求を直々に検討するつもりでいた。それが考慮されることを彼が要求したからだ――それだけのことだった。彼よりももっと影響力のある人たちは、その分に同じ権利があったのに、それを行使しなかった。人が運をつかむときに、度胸、アイデア、積極性、これらはどれほど重要だろうか! 


自分が競争相手として現場に現れるのを見たら、ドレクセル商会やクック商会はどんなに驚くだろうと思いながら、クーパーウッドは立ち去った。机と金庫と革張りの椅子を置いて事務所にした、自宅二階の寝室の隣の小部屋で、資料を検討した。考えることはたくさんあった。これまでに会ったことのある人たちと、申し込みを当てにできる人たちのリストをもう一度見直した。百万ドル分は大丈夫だった。取引総額の二パーセント、つまりは二万ドルを儲けようと目論んだ。うまくいったら、バトラー家の向こうにあるジラード・アベニューに家を買うつもりだった。いや、それよりも土地を買って建てよう。それを実行するために家と土地を抵当に入れるのだ。父親は順調に成功していた。父親が隣に家を建てたがれば、親子が隣同士で暮らせるのだ。この取引以外にも、本業が今年は一万ドルの収益をもたらすだろう。路面鉄道への投資は、総額五万ドルで、受け取れる利息は六パーセントだった。この家などがそうだが妻の財産、国債、西フィラデルフィアの不動産が、さらに四万ドルあった。二人とも裕福だったが、クーパーウッドはもっと裕福になるつもりだった。今必要なのは、冷静さを保つことだけだった。もしこの公債発行が成功すれば、もう一度、もっと大規模にできるはずだ。発行はこの先もあるだろう。しばらくして明かりを消し、妻が眠っている寝室に入った。子守りと子供たちは奥の部屋にいた。


「ああ、リリアン」妻が目を覚まして自分の方を向くとクーパーウッドは言った。「きみに話していた公債の件がようやくまとまったみたいだ。いずれにしても、百万ドル分は引き受けることになると思う。それで二万儲かるんだ。儲かったら、ジラード・アベニューに家を建てよう。あそこはいい通りになるよ。大学があの地域を発展させているからね」


「すてきになるんじゃない、フランク!」夫がベッドの横に座ると、リリアンはそう言って夫の腕をさすった。


リリアンの意見は漠然とした当てずっぽうだった。


「これからはバトラーさん一家に気遣いを見せていかないといけないね。私にとても親切にしてくれたんだよ。それに今後も力になってくれそうなんだ――それがわかるんだ。そのうち奥さんも連れてこいって言ってくれたしね。二人して行かなくちゃ。向こうの奥さんにもご挨拶しないと。バトラーさんはその気になれば、私のためにたくさんのことができるんだよ。娘さんも二人いる。うちへもお呼びしないとね」


「いつかディナーに招待するわ」リリアンは快諾してくれた。「もしいらっしゃるなら、私が立ち寄ってドライブにお連れしようかしら、それともあちらが私を連れていってくれるかしら」


リリアンはすでに学んでいた。バトラー家の者は――若い世代は――かなり派手である。彼らは自分たちの家柄に敏感である。彼らの判断では、お金はあらゆる面でどんな不足でも補うと思われている。「バトラーさん本人は人前でも立派な人なんだけど」クーパーウッドは一度リリアンに言ったことがあった。「奥さんがね――まあ、いい人なんだけど、少し凡庸でね。立派な女性だとは思うよ、気立てがよくて、心の優しい人だから」バトラー家では両親そろって子供たちをとても誇りにしているから、アイリーンとノラを見過ごすことがないようにクーパーウッドはリリアンに注意した。


この時、クーパーウッド夫人は三十二歳、クーパーウッドは二十七歳だった。二児の出産と育児は、夫人の容姿に多少の変化を与えていた。もう以前のような、穏やかな、感じのよさはなく、前よりも骨ばっていた。顔は頬がこけてしまい、ロセッティやバーン・ジョーンズが描く多くの女性たちのようだった。健康状態は以前ほど良好ではなかった――二児の世話と、診断されたわけではない最近の胃炎気味が彼女を変えつつあった。要するに、少し神経が衰弱し、抑鬱(よくうつ)の発作に悩まされた。クーパーウッドはこれに気づいていた。優しく思いやりをもとうと努めたが、あまりにも功利的で、現実的な考え方の観察者であったがために、自分が後々、病弱な妻を抱えることになりそうなことを理解できないはずがなかった。同情と愛情は大切なものだが、欲望と魅力は持続しなければならない。さもなければ、人はその喪失を悲しく思い知らされる。だからこの頃はよく、自分の気分に合致する若い女性たちや、極めて強健で楽しい若い女性たちに目がいった。当時の社会的語義で言う道徳を忠実に守ることは、立派であり、賢明であり、実践すべきことだったが、もし病気がちな妻を持ってしまったら――いずれにしても、男性はたったひとりの妻を持つ権利しかないのだろうか? 別の女性に目を向けてはいけないのだろうか? もし誰かを見つけたとしたら? クーパーウッドは何時間という労働の合間にこういうことを考え、これは大きな問題ではないという結論にいたった。成功して、バレなければ、それでいいのだ。しかし、気をつけなければならない。この夜、妻のベッドの脇に座っている間に、何となくそんなことを考えていた。応接間のドアを通り過ぎたときに、アイリーン・バトラーがまたピアノを弾いて歌っているのを見たからだった。アイリーンは健康と情熱を放出している明るい鳥のようだった――大雑把なとらえ方でいう若さを思い起こさせる存在だった。


「不思議な世界だ」とクーパーウッドは思ったが、自分の考えはあくまで自分のものであり、このことを誰にも話すつもりはなかった。


実現してみると、公債の発行は奇妙な妥協の産物だった。これはクーパーウッドに二万ドル以上儲けさせて、フィラデルフィアとペンシルベニア州の金融界に彼を売り出すのに役立ったが、彼が計画していたような購入申し込みの取り扱いまでは許さなかった。州財務官は、その市にいて働いていた時代に評判が高かった地元の弁護士の事務所で、彼に引き合わされた。そうせざるを得なかったので、相手はクーパーウッドに丁重だった。ハリスバーグでは物事がどういうふうに調整されるかをクーパーウッドに説明した。大手の金融機関は選挙資金をあてにされてるんです。州議会の上院と下院にいるのは、彼らを代表する子分たちでしてね。知事と財務官は自由な立場にいるんですが、他にも影響を及ぼすものがあるんです――名声、友情、社会的な勢力、政治的な野心なんてものがね。大物たちがひとつの閉鎖的な組織を構成しているのかもしれません。それ自体が不公平なんですが、結局のところ、そういう人たちがこの種の巨額公債の本物の提案者ですから。特にこういう時期ともなると、州は彼らと良好な関係を保たねばならないんです。獲得を見込んでいる百万ドルをクーパーウッドさんがうまく処理できることがわかれば、あなたにそれを与えるのは完全に正しいことですよ。しかし、ヴァン・ノーストランドには出さねばならない交換条件があった。現在この問題を扱っている金融機関がもし望んだら、クーパーウッドさんは報酬――この落札分があなたに渡された場合に、あなたが儲けることを期待している額と同額――と引き換えに、その落札分をこちらに引き渡してくれますか? ある金融筋がこれを望んでいるんですよ。彼らに逆らうのは危険です。あなたが五百万ドルで入札して、その評判を得ようが、先方はまったく問題にしませんよ。百万ドル分を落札して、その評判を得ても構いません。でもね、先方は二千三百万ドル分を欠けることなく一括して扱うことを望んでるんです。その方が見映えがいいものでね。あなたは撤退したと吹聴されないで済むんです。先方は甘んじて、あなたが始めたことをやり遂げたという栄光をあなたに勝ち取らせますよ。それでもやはり、これは悪い前例でしてね。他の者があなたの真似をしたがるかもしれないでしょ。あなたが報酬と引き換えにあきらめざるをえなかったことが密かに巷に知れ渡れば、今後、他の者は真似したりはせんでしょう。それに、もしあなたが断れば、先方はあなたを困らせるかもしれません。借入金が返済を求められるかもしれないし、いろいろな銀行がこの先あまりいい顔をしなくなるかもしれない。あなたの顧客たちが、ああだこうだとあなたに否定的な警告を受けるかもしれません。


クーパーウッドは要点を把握して、おとなしく従った。多くのお偉方や実力者を屈服させてきただけのことはある。向こうはこっちのことなど、お見通しなのだ! こっちにちゃんと気づいていたのだ! 仕方がない。落札して、二万ドルくらい手に入れて、撤退しよう。州財務官は喜んだ。彼にとっての微妙な問題がひとつ片付いたのだから。


「あなたにお会いできてよかった」州財務官は言った。「私は私たちが出会えたことを喜んでいるんです。今回の件が片付いたら、いつかうかがうのでお話でもしましょう。一緒に昼食を食べましょうか」


州財務官は、どういうわけか、クーパーウッド氏が自分を儲けさせてくれる人物だと感じた。彼の目はとても鋭かった。表情はとても警戒しているが、それでいてとても繊細だった。財務官は知事や他の仲間たちにクーパーウッドのことを話した。


こうして最終的に入札は成立した。クーパーウッドはドレクセル商会の幹部と私的な交渉をした末に、二万ドルを受け取って、自分が落札した分をドレクセル商会に引き渡した。新しい人たちが時々、彼の事務所に顔を見せた――その中に、ヴァン・ノーストランドや、ハリスバーグの他の政治勢力を代表するテレンス・レイリハンの顔があった。ある日の昼食の席で、彼は知事に紹介された。彼の名前は新聞で取り上げられ、名声は急速に高まった。


さっそくエルスワースと新居の設計に取りかかった。今度は特別なものを建てるからね、とリリアンに伝えた。やがて催し物をしなければならなくなるからだ――これまでにないほど大がかりな催し物を。ノースフロント・ストリートは、あまりにも平凡になりすぎていた。家を売りに出し、父親に相談したところ、父親も引っ越しに前向きなことがわかった。息子の成功は父親の信用まで高めていた。銀行の役員たちはこの老人に随分好意的になっていた。来年、キューゲル頭取は退任する予定だった。長年の努力と、息子の目覚ましい活躍のおかげで、父親は頭取に就任することになった。フランクは父親の銀行から多額の借り入れをしていた。そのうえ、多額の預金者だった。エドワード・バトラーとのつながりは重要だった。他では獲得できないほどの額を父親の銀行に送金した。市財務官や州財務官もこれに関係することになった。ヘンリー・クーパーウッドは頭取として年収二万ドルを得る立場になったが、その多くは息子のおかげだった。両家は今、最高にいい関係だった。今二十一歳のアンナと、エドワードと、ジョセフは、たびたびフランクの家で夜を過ごした。リリアンは毎日のようにフランクの母親のもとを訪れ、身内のゴシップが盛んに交わされた。並んで家を建てるのはいい考えだった。そして、ヘンリー・クーパーウッドが息子の三十五フィートの土地の隣に五十フィートの土地を購入して、親子は一緒に二つの魅力的で広々とした家を建て始めた。この二棟は、屋根付きの通路か、冬はガラスで囲えるパーゴラでつながる予定だった。


地元で最も人気のある石、緑の花崗岩が選ばれた。エルスワース氏は特にいい感じになるようにこれを仕上げることを約束した。ヘンリー・クーパーウッドは七万五千ドルはかけられると判断した――今の資産は二十五万ドルだった。そしてフランクは抵当権を設定すれば資金を調達できることがわかったので、リスクを負って五万ドル出せると判断した。同時に事務所を三番街のもっとずっと南に移転して、自分のビルを構える計画を立てた。高さ二十五フィートのビルのどこに手を加えればいいかはわかっていた。古いものでも、新しいブラウンストーンの玄関をつけたり、かなりの重厚感を出すことはできる。彼の心の目には、巨大な板ガラスの窓が取り付けられた立派なビルが見えた。中には硬材の備品が見え、扉の上だか横にクーパーウッド商会というブロンズの文字があった。漠然とだが確実に、地平線に浮かぶふわふわした薄い色の雲のように、目の前に自分の将来の成功が見え始めた。お金持ちになるのだ。もっと、もっとお金持ちに。


 

 

第十三章

 


クーパーウッドがこうして着実に自分を高めている間に、南北戦争はほぼ終結していた。一八六四年十月。モービル湾占領と荒野の戦いは記憶に新しかった。グラントは今やピータースバーグの目前にいて、南軍総司令官リーは、最後に輝かしく絶望的に、戦略家として軍人として、自分の能力を発揮していた。株が暴落して経済活動が全面的に悪化するときが何度かあった――たとえば国民がヴィクスバーグの陥落や、ポトマック軍の勝利を待っている長い陰鬱な時期に、ペンシルベニアがリーの侵攻を受けたときなど。こういう時には、クーパーウッドの相場操縦能力が最大限に発揮された。そして何かの予期せぬ破壊的なニュースに自分の財産が破壊されないように、常時目を光らせていなければならなかった。


しかし、合衆国は維持されるべきであると感じている愛国心とは違って、戦争に対する彼の個人的な態度は、戦争は破壊的で無駄であるというものだった。彼は決して愛国心や感情が欠けているわけではなかったので、大西洋から太平洋へと、カナダの雪原からメキシコ湾へと、今こうしてその版図を広げている合衆国には価値があると感じることができた。一八三七年に生まれてからずっと――今は国土であるアラスカを除いた――この国が物理的成長を遂げるのを目の当たりにしてきた。フロリダがスペインから買い取られて合衆国に編入されたのはまだ若い頃だった。一八四八年の不当な戦争後に、メキシコがテキサスとその領土を西部に割譲し、北西部かなたの米英国境問題には最終的な決着がつけられた。社会や経済に対する大きな想像力を持つ彼にとって、これらの事実は重要な意味を持たずにはいられなかった。そしてそれらはこれ以上何もしなくても、この広大な領域に潜んでいる無限の商業的可能性を彼に感じさせた。クーパーウッドは〝プロモーター〟として知られるタイプの、あらゆる未踏の細流や草原に利益を求める無限の可能性を見るような、投機的な投資の熱中者の類ではなかった。しかし、この国の広さそのものが、彼が望む可能性が乱されないまま後に残る可能性をうかがわせた。二つの海に挟まれた地域全体の長さにまで及ぶ領土は、南部諸州が失われたら維持しきれない可能性があるのではないかと彼には思えた。


同時に、黒人の解放は彼にとって重要な問題ではなかった。クーパーウッドは子供の頃からこの人種を興味深く観察してきて、その良い面と悪い面に思うところがあった。しかしこれらはもとから備わっていたようだったし、彼にすれば明らかに、彼らの経験を決定づけるものだった。


例えば、黒人が今よりももっと重要になるかもしれないという確信はまったくなかった。いずれにせよ、黒人にとっては長く苦しい闘いであり、この先の何世代も、この結論を見ることはないだろう。黒人を自由にしろという意見に彼は特に異論を持たなかったし、南部が自分たちの財産と制度の破壊に激しく抗議をしてはいけない理由も特に見出せなかった。黒人が奴隷としてやたらと虐待されるのはひどすぎた。これは何らかの形で是正されるべきだとはっきり感じた。しかしそれより、彼らの支援者の主張に立派な倫理的な根拠があるとは思えなかった。男にしろ女にしろその大多数は、たとえ奴隷制を禁じるために制定された憲法のあらゆる保証を手に入れても、奴隷化を本質的に免れるわけではなかった。精神的な奴隷の身分、弱い心と弱い体は隷属するからだ。クーパーウッドは、サムナー、ギャリソン、フィリップス、ビーチャーといった人たちの主張をかなり興味深く見守ったが、この問題が自分にとって重大な問題だとは全然思えなかった。彼は兵隊や将校にはなりたくなかったし、議論の才能はなかった。彼の頭脳は論争を好むタイプではなかった――たとえ金融が議題でも。自分にとって何が大きな利益になるかを見極めて、それに全注意力を注ぐことにしか関心がなかった。この内戦は彼の役には立たなかった。この戦争は実際にこの国の真の商業・金融面の調整を遅らせていると考え、すぐに終結すればいいと願った。重過ぎる戦争税が多くの人たちを苦しめていることは知っていたが、彼はそれを激しく非難する人たちには属さなかった。死や災害の話の中には彼を大きく揺さぶるものもあったが、残念ながら、そういうものは人生の不可解な運に属するものであり、彼の力では直せなかった。毎日、軍隊の到着と出発を見守り、汚くてだらしのない格好の痩せ細った病人の集団が戦場から戻るのや病院を見ながら、自分の道を歩んだ。彼にできたのは、ただ気の毒に思うことだけだった。この戦争は彼のためのものではなかったし、全く参加していなかった。しかし愛国者としてではなく資本家として戦争の終結を喜ぶことだけはできると確信した。戦争は無駄で、哀れで、不幸だった。


あっという間に数か月が過ぎた。その間に地方選挙があって、新しい財務官、新しい租税査定官、新しい市長が誕生したが、エドワード・マリア・バトラーは以前と同じ影響力を持ち続けた。バトラー家とクーパーウッド家はすっかり親密になっていた。信仰は違っていたが、バトラー夫人はリリアンのことが大好きだった。二人は一緒にドライブやショッピングに出かけたが、リリアンは、バトラー夫人のお粗末な文法、アイルランド訛り、庶民的な嗜好のせいで――まるでウィギン家は全然庶民的ではないとばかりに――彼女には少し批判的で、恥ずかしいと思っていた。それでもバトラー夫人は、リリアンも認めざるを得なかったように、気立てがよくて心の優しい人だった。裕福になってから贈り物が大好きになり、あっちこっちに、リリアンや子供たちなどにプレゼントを送った。「さあ、ああたがた(丶丶丶丶丶)、いらっしゃいな、私たちと一緒に夕食にしましょう」――バトラー家が夕食の時間に到着した――かと思えば「明日は私と一緒にドライブに行かなくちゃね」


「アイリーンったら、ほんに、いい子だこと」とか「ノラったら、まあ、今日、病気なんね」といった調子だった。


しかしアイリーンは、その気取った態度、攻撃的な性格、目立ちたがり屋、虚栄心の強さで、クーパーウッド夫人を苛立たせ、時にはうんざりさせた。今は十八歳で、微妙に刺激的な体をしていた。態度は男の子っぽく、時にはお転婆で、修道院で教育を受けたのに、どんな形であれ束縛を嫌う傾向があった。しかし、とても思いやりがあって人間味のある青い目には、優しさが潜んでいた。


ジャーマンタウンのセント・ティモシー修道院付属学校は、娘の教育――いわゆる立派なカトリックの教育――のために両親が選んだ学校だった。アイリーンはカトリックの儀式の理論や形式について多くを学びはしたが、それらを理解することはできなかった。薄暗く輝いている縦長の窓、高くて白い祭壇、片側にセント・ジョセフの像、もう片側に、金の星をつけた青いローブをまとい、光輪を背に、(しゃく)を持つ聖母マリアがいるその教会は、アイリーンに大きな感銘を与えていた。教会全体が――カトリック教会はどこもそうだが――見ていて美しく――心を癒やしてくれた。祭壇は大ミサの間中、五十本以上のキャンドルが灯され、司祭や従者の豪華なレースの祭服に威厳を与えられて印象的なものにされた。肩衣やガズラやコープやストールや腕帛の、印象的な刺繍と華やかな色彩は、アイリーンの創造力をつかんで、目を釘付けにした。色彩への愛と、愛情への愛とが結びついた壮大さを感じる力が、常にアイリーンの中に潜んでいたと言ってもいい。彼女は年端もいかない頃から何となく性を意識していた。彼女には正確さへの欲求、精密な情報への欲求がまったくなかった。生まれついての、感覚に敏感な性質が、それらを持つことはめったにないからだ。それは太陽の光を浴び、色彩に浸り、印象的なものや華麗なものを感じる感覚の中に宿ってそこに留まるのだ。把握したい欲求の中にそれがその姿を現しても、積極的で貪欲な性格である場合を除いて、正確さは必要ではない。本物の支配的な、感覚に敏感な性質というものは、最も活動的な気質にも、また最も正確な気質にも現れるはずはないのである。


この説をアイリーンに適用する場合は、定義しておく必要がある。この頃の彼女の性質を、はっきりと官能的であると表現するのは適切ではないだろう。あまりにも未発達だった。何を収穫するにしても、長い成育期間はある。告解室、教会がわずかばかりのランプで照らされる金曜日と土曜日の夕方の薄暗がり、神父の警告、許しの秘蹟、狭い格子越しにささやかれる神からの許し、は何か微妙に心地よいものとしてアイリーンを感動させた。アイリーンは自分の罪など恐れなかった。はっきり地獄行きが告げられても、彼女を怖がらせはしなかった。実は、そんなものが彼女の良心をとらえたことはなかった。おぼつかない足取りで教会に入って、お辞儀をして祈りをささげ、ロザリオにつぶやいている老いた男女の姿は、まるで十字架の道行きを強調している木のレリーフの独特な模様の彫り物のように、好奇心をそそる興味の対象だった。特に十四歳から十五歳の頃、アイリーンは告解して、司祭が「さあ、私の愛する子よ」と自分をさとす声を聞くのが好きだった。とりわけ、学校に告白を聞きに来るフランス人の老司祭は、親切で優しい人としてアイリーンの興味を引いた。彼の許しと祝福には心が込もっているように思えた――彼女がいいかげんにやっていたお祈りよりも立派だった。やがてセント・ティモシー教会に若い司祭が現れた。デイヴィッド神父は、健康で顔色がよく、カールした黒髪を額にたらし、司祭の帽子を気取った感じでかぶっていた。はっきりとした威厳のある手つきで聖水を撒きながら側廊をやって来る姿はアイリーンの心をとらえた。神父が告白を聞くときに、アイリーンは時々自分の変な考えをささやくのが好きで、そうしながら実際に神父が密かに考えているかもしれないことを推測した。努力しても彼を神聖な権威と結びつけることができなかった。あまりにも若すぎたし、あまりにも人間的だったからだ。彼女が喜んで自分のことを彼に話して、それからつつましく、後悔の気持ちを表わして退出する態度には、少し意地の悪いからかっている部分があった。セント・アガサで彼女はかなり扱いにくい人だった。学校の善良なシスターたちがすぐに気がついたように、アイリーンはあまりにも生命力に満ちあふれ、活発過ぎたので、そう簡単に言うことを聞かせられる相手ではなかった。修道院長のシスター・コンスタンティアはアイリーン直属の指導係のシスター・センプロニアに一度注意した。「あのミス・バトラーはとても元気な子よ。うまく立ち回らないと、大変なことになるかもしれません。ちょっとした贈り物で、おだてないといけないかもしれないわ。あなたならお手のものよね」そこでシスター・センプロニアはアイリーンが最も興味を持つものを探し出して、それで手なづけようとした。父親の力を強く意識し、自分の方が偉いとうぬぼれていたので、そう簡単にはいかなかった。しかし、アイリーンは折に触れて家に帰りたがり、黒檀のペンダントの十字架と銀のキリストがついているシスターの大きな数珠のロザリオをつける許しをほしがるものだから、これは大きな特権になった。授業中は静かにしている、穏やかに歩く、穏やかに話す――彼女にできる範囲で――消灯後は他の女子の部屋に忍び込まない、あれやこれやと同情的なシスターに恋心を抱かない、などを守れば、土曜日の午後に校庭を散歩するとか、欲しい花をすべてと、ドレスや宝石などを余分に持つことを許される、といったいろいろなご褒美が贈られた。アイリーンは音楽が好きだった。その方面の才能はまったくなかったが、絵を描いているという考えが好きだった。本や小説にも興味はあったが、手に入れることができなかった。それ以外――文法、字のつづり、裁縫、礼拝、歴史全般――は大嫌いだった。行儀作法――まあ、多少は大切だった。教わったかなり大げさなお辞儀を気に入ってしまい、家に帰ったらそれをどう使おうかとよく考えたものだった。


社会に出てからは、暗に示されたちょっとした社会的な格差が、その存在を彼女に痛感させ始めた。父親がもっといい家――豪邸――他の場所で見たようなもの――を建てて、自分をきちんと社交界に送り出してくれることを心から願った。それがかなわなかったので、服や宝石、乗馬用の馬、馬車、こういうもの用に自分に許された衣装をふさわしいものに着替えること以外は、何も考えられなかった。彼女の家族は、自分たちがいる場所で、気品に満ちた方法で、人をもてなすことができなかった。アイリーンはすでに十八歳にして、挫かれた野心の痛みを感じ始めていた。生きている実感が欲しくてたまらなかった。どうすればそれが手に入るのかしら? 


アイリーンの部屋は、熱心で野心的な心の弱さを研究するにはうってつけだった。部屋は、服、あらゆる場面に備えた美しいもの――宝石――身につける機会が少ないのに――靴、ストッキング、ランジェリー、レースでいっぱいだった。化粧品をまったく必要としなかったのに、未熟なりに、香水や化粧品の研究をしていて、しかも大量にあった。あまり全体のまとまりを考えず、派手に見せびらかすのが大好きだった。カーテンも掛け軸もテーブルの装飾品も絵も、豪華なものになりがちで、家の他の部分とうまく調和しなかった。


アイリーンはいつもクーパーウッドに、手綱のない足を高らかと上げている馬を連想させた。彼はいろいろな場面で、母親と一緒のショッピングや父親とドライブをしているアイリーンに出くわした。そしていつも彼女が彼の前でとる、気取った退屈そうな口調に釣りこまれて面白がった。「ねえ! ねえってば! 人生ってとても退屈よね、そうじゃない」と言いつつも、実際は、人生の一瞬一瞬が、彼女にとって刺激的な関心事だった。クーパーウッドはアイリーンの精神を正確に測定した。気高い人生観を内に秘めた、ロマンチックで、愛とその可能性ばかりを考えている少女。彼は彼女を見るとき、自然が完璧な肉体を作り出そうとするときにできる最高のもの、を見ている気がした。どうせすぐに幸運な若者が結婚して、彼女を連れ去ってしまうのだろう、という考えが浮かんだ。しかし、誰がものにするにせよ、彼女をつなぎとめるなら、そいつは愛情と気の利いたお世辞と気遣いとで、つなぎとめねばならないだろう。


「小生意気よね」――そんなことはない――「あの子ったら自分の父親のポケットの中で太陽が昇っては沈むと思ってるんだわ」ある日リリアンは夫に言った。「彼女の話を聞いてると、アイルランドの王族の子孫かと思っちゃうわよ。絵や音楽に興味があるふりをしてるんでしょうけど、おかしいったらないわ」


「まあ、彼女にあまり厳しく当たらないでくれよ」クーパーウッドは上手になだめすかした。すでにアイリーンのことが大好きだったからだ。「とても上手に演奏するし、いい声をしてるだろ」


「ええ、わかってるけど、彼女には本物の品ってものがないわ。果たして身につけられるものかしら? 両親を見てごらんなさいよ」


「彼女にそれほど大きな問題があるとは思わないがね」クーパーウッドは言った。「明るくてきれいだよ。もちもん、まだ子供で、少しうぬぼれ屋だけど、そのうち治るさ。分別や力がないわけじゃないんだからね」


クーパーウッドも知ってのとおり、アイリーンは彼にとてもなついていた。クーパーウッドのことが好きなのだ。クーパーウッドの家で必ずピアノを弾いて彼のために歌を歌った。彼がいるときしか歌わなかった。クーパーウッドの安定したなめらかな歩き方、がっしりした体、男性的で凛々しい顔にはアイリーンを惹きつける何かがあった。うぬぼれ屋で自己中心的だったにもかかわらず、彼を前にすると時々少し気圧されることがあった――緊張してしまった。彼がいるところでは一段と陽気になり、一段と輝きが増したように思えた。


この世で一番無駄なことは、おそらく性格を正確に定義しようとする試みである。すべての人間は矛盾の塊だ――最も有能な人間ほど矛盾が多い。


アイリーン・バトラーの場合は、正確に定義をするのは絶対に無理だろう。彼女が確かに持っていた未熟で優雅さを欠いた状態の知性――また、現在の社会通念と習慣に多少抑制された生まれつきの力は、自然なままの必ずしも魅力がないわけではないなりに、今でも時々はっきりとその姿を見せた。この時、アイリーンはまだ十八歳で、フランク・クーパーウッドのような気質の男性から見れば明らかに魅力的だった。彼女は、彼がそれまで知らなかった、あるいは意識的に欲しがらなかった何かを与えてくれた。活力と快活さを。彼がこれまでに出会った他の女性は誰もアイリーンほど多くの生まれながらの力を持っていなかった。彼女の赤みを帯びた金髪は、赤というよりは赤を連想させるものがあるれっきとした金色で、額のあたりで重い房が自然に丸まって、首の付け根に垂れていた。鼻は美しく、繊細さはないがまっすぐで、鼻孔は小さかった。目は大きくて、それでいてやたらと色っぽく、彼にとって感じのいい青みの強い青灰色という色合いだった。そして、身なりは、もちろん彼女の気質によるものだが、過剰といっていいほど豪華さを感じさせた。腕輪だとか足首かざり、イヤリング、女奴隷(オダリスク)の胸当て、といっても、もちろん、そんなものがあるわけではなかった。彼女は何年も後になってから彼に、爪を塗って、手のひらも茜色で染めたかったことを打ち明けた。健康で元気な彼女はいつも男性のことばかり気にしていた――男性は自分をどう思うだろう――自分は他の女性と比べてどうだろう。


馬車に乗れることや、ジラード・アベニューの立派な家に住めることや、クーパーウッド家のような家々を訪問できることは、とても大きな意味をもっていた。しかしまだこんな年なのにアイリーンは、人生にはこれ以上のものがあることに気づいていた。多くの人は、そういうものを持たずに生きていた。


しかし、アイリーンには富と恵まれた環境があった。彼女はピアノの前に座って演奏したり、馬車に乗ったり、歩いたり、鏡の前に立ったときに、自分の姿を、その魅力を、それが男性にとって何を意味するかを、女性たちが自分をどれほどうらやましがるかを、意識した。時々、貧相、漏斗胸、不器量な顔の女の子を見て、かわいそうに思うことがあった。また別の時には、自分たちを社会的にも肉体的にも図々しく押し通す美しい少女や女性に、説明のできない反感を燃やすこともあった。チェスナット・ストリートや高級店で、あるいはドライブ中や、馬や馬車に乗っているときに、ひょいと頭をあげて、自分たちの方が育ちが良くてしかもそれを心得ていることを、人にできる動きを存分に駆使して示す良家の娘たちがいた。こういうとき、両者は互いに挑発的に睨み合った。アイリーンは世の中の高い地位にのぼりたくてたまらなかった。かといって、自分より社会的地位がよくても甲斐性のない男性には全然魅力を感じなかった。男らしい男を求めていた。時々、〝それらしい〟男性はいたが、完全ではなかった。惹かれはしたが、そのほとんどが父親の知り合いの政治家か議員で、社交界とは無縁だった――だから、彼らはアイリーンをうんざりさせ、失望させた。彼女の父親は本物のエリートというものを知らなかった。しかし、クーパーウッドさんは――とても洗練されていて、とても力強くて、とても控えめに見えた。アイリーンはよくクーパーウッド夫人を見て、彼女は何て幸せなんだろうと思った。



 

 

第十四章

 



衆目を集めた公債入札後、クーパーウッド商会として成長を遂げたクーパーウッドはついに、倫理・金融・その他の面で、大きな役割を演じることになるある人物と関係を持つことになった。これが新たに選出された市財務官のジョージ・W・ステーネルだった。初めは他の連中の操り人形だったが、それでも、彼が弱いという単純な理由で、かなりの重要人物になった。市財務官になる前は細々と不動産と保険の仕事をしていた。どこの大きな社会にも何千人といる、広い視野のない、うまく立ち回れない、何の芸もない、何の取り柄もない人間のひとりだった。ステーネルの口から新しいアイデアが出てくるのを聞くことはないだろう。生まれてから一度も出したことがなかった。かといって、悪い奴ではなかった。面白みがなく、退屈な、自分から見ても平凡な顔をしているが、これは体というよりは心の問題だった。目はぼんやりした灰色がかった青で、髪は埃のような薄茶色で薄毛、口は――印象に残るものはなかった。背はかなり高く、六フィート近くあり、肩幅はそこそこ広かったが、外観は決して格好のいいものではなかった。少し猫背で、お腹がほんの少し出ていた。話題は平凡で――新聞や巷や仕事のゴシップを少し交わす程度だった。近所では人に好かれ、彼は正直で親切だと思われた。彼が知る限りでは、そのとおりだった。こういう男性の妻子がいつもそうであるように、彼の妻と四人の子供たちは普通の取るに足らない人たちだった。


この程度なのに、いや、おそらくは政治的に言えばこの程度だから、ジョージ・W・ステーネルは、フィラデルフィアで過去半世紀の間ほとんど変わることなく存在し続けたある政治手法によって、一時的に世間から注目されるようになった。第一に、彼は地元の多数派政党と同じ政治信条を持っていたため、地元の議員や自分の区の区長に忠実な人――票集めに役立つ人物――として知られていた。そして次に――思想がないので演説家としてはまったく価値はないが――食料雑貨商や鍛冶屋や肉屋に、相手が物事をどう感じているかを尋ねながら、戸別訪問をやらせることはできた。仲良くなって、長い時間をかけて得票をかなり正確に予測するようになるからだ。さらに、少し決まり文句を教えておけば、それを繰り返し言ってくれる。まだ発足したばかりですが、フィラデルフィアで圧倒的優勢な共和党は、みなさんの票を必要としています。たちの悪い民主党を排除する必要があります――彼はこの理由をろくに説明できなかった。彼らは奴隷制を支持してきて、自由貿易を支持しています。こういうことがフィラデルフィアの地方行政や財政政策に何の関係もないことには、一度も思い至らなかった。関係ないとしたら? それだとどうなのだろう? 


この頃、フィラデルフィアでは、マーク・シンプソンという合衆国上院議員が、エドワード・マリア・バトラーと、裕福な石炭商で投資家のヘンリー・A・モレンハウワーと一緒になって、市の政治的運命を共同で支配していると考えられており、実際に支配していた。彼らには議員、部下、スパイ、手先がいた――一大組織だった。その中にこのステーネルがいた――彼らの仕事を黙々とこなす機械の小さな歯車にすぎなかった。


平凡であるという点で住民が著しく平均的だったここ以外の他の都市なら、ステーネルのような人物が市の財務官に選ばれることは、到底あり得なかっただろう。ごく稀なケースを除いて、指導者でない者は政策綱領など作らなかった。こういう問題は中核の者が担当した。特定の地位が、これこれの功績に応じて、これこれの人物、あるいは党のこれこれの派閥に割り当てられた――しかし、その人物は政治を知らないのではないだろうか? 


やがてジョージ・W・ステーネルは元市議会議員のエドワード・ストロビクに受け入れられた。ストロビックは後に区長、その後に市議会議長になり、私生活は石材商でレンガ工場を持っていた。ストロビクは、三人の政治指導者の中で最も厳しくて冷たいヘンリー・A・モレンハウワーの部下だった。モレンハウワーには議会から手に入れたいものがあり、ストロビクは彼の道具だった。彼はステーネルを選んだ。彼は言われたとおり選挙で忠実に働いたため、交通局の副局長になった。


ここでエドワード・マリア・バトラーの目に留まり、少し彼の役に立った。そして、バトラーが統括する中央政治委員会が、市財務官には、優秀で従順であると同時に絶対に忠実な人物が必要であると判断し、ステーネルが候補になった。ステーネルは財政に関する知識は乏しかったが簿記は優秀だった。とにかく、この偉大な三人のもう一人の政治の道具である自治体法律顧問のリーガンが、常時彼に助言を与えるために、そこにいるのではないだろうか? そうなのだ。これはとても単純なことだった。候補になることは、当選することと同じだった。市は誠実に運営される必要があるという平凡な発表をどもりながら言った、極めてつらい壇上での経験の数週間後に、彼は就任して、今日にいたっている。


その地位に就くジョージ・W・ステーネルの行政や財政の知識がどんなものであれ、今さら、それほど大きな違いは生じないだろう。当時のフィラデルフィア市は、おそらくはどの都市よりもたちの悪い財政システムのもとで、あるいはそれがないせいで、ずっと大変な状況が続いていた。課税査定官と財務官は市のお金を市の専用金庫の外で集めて保管することが許されていた。さらに、彼らによって投資に使われるものは、市の利益のために利子をつけるべきだと誰からも要求されなかった。むしろ、彼らに期待されたのは、その元金を返すことと、就任時もしくは退任時の原状回復だけだった。集められたお金、あるいは何かの財源から引き出されたお金は、市の管理する金庫にそのまま保管しておくべきとは理解されなかった、もしくは公的に要求されなかった。元金さえ返せば、貸し出し、銀行に預ける、誰かの私利私欲のために使う、ことができ、誰も気づかなかった。もちろん、こんな財政理論は公式には認められなかったが、政界、報道、財界上層部では周知の事実だった。どうすればこれをとめられただろう? 


クーパーウッドはエドワード・マリア・バトラーに近づいていくうちに、この常軌を逸した理解を得られるはずのない投機の世界に、本当にそうとは知らずに無意識に入り込んでいた。七年前にティグ商会を辞めたときは、今後は永久に株式仲介業とはかかわるまいと考えていた。しかし今、これまでに見せたことがなかったほど活気に満ちた彼をその世界で再び目にしている。今は自分のために、クーパーウッド商会という会社のために働き、徐々に自分のところに流れ着いている新しい実力者たちの世界を満足させようと躍起になっていた。みんな多少のお金と内部情報を持っていた。みんなが彼に、自分たちのために株式の特定の銘柄を信用取引させたがった。彼なら他の政治家にも知られていたし、安全だったからだ。そしてこれは事実だった。少なくともこの時まで、彼は自分のお金で取引をする相場師やギャンブラーではなく、そうだったこともなかった。実際に、これまでもずっと自分のためにギャンブルをしたことは一度もなかったし、それどころか常に他人のために厳密に行動してきたと考えて、よく自分を慰めた。しかし今ここに、ジョージ・W・ステーネルがいて、株式ギャンブルと必ずしも同じではないが、それでもギャンブルである提案を抱えていた。


これはここで説明して記憶に留めておいてもらいたいが、南北戦争の何年も前から戦争中もずっと、フィラデルフィア市は、州の金庫に使える金がない場合、市債として知られるものを発行する習慣が自治体としてあった。これは六パーセントの利息がついた手形もしくは借用証書以外の何ものでもなく、三十日後、三か月後、六か月後に支払いが行われた――すべては金額と、どれくらいでそれを償還して清算するだけの資金が金庫にできると市財務官が考えるか、次第だった。小さな商人も大きな請負業者もよくこの方法で支払いを受けた。例えば、市の機関に物品を販売する小さな商人は、現金が必要になった場合、銀行で通常は一ドルに対し九十セントでその手形を割り引かざるを得なかった。一方、大手の請負業者は手形をかかえて待つ余裕があった。これは小さな取引や商売の人には不利かもしれないが、大きな請負業者や手形ブローカーには実にありがたいものだと簡単に理解できる。どうせ市はいつかは必ずその債券の支払いをするのだから金利の六パーセントは、絶対の安全性を考えれば魅力的な利率だった。待てるのであれば、小さな商人から一ドルあたり九十セントでこれを集めた銀行やブローカーはにいい儲けだった。


おそらく、もともと市財務官は誰かを不当に扱うつもりなどなく、当時は払うお金が本当になかったからだろう。それがどうだったにせよ、もっと経済的に簡単に市が運営できたかもしれないことがわかると、その後債券を発行する言い訳はなくなった。しかしすぐに想像できるように、これらの債券は、手形ブローカー、銀行、政治資金提供者、政界内部の工作員みんなの格好の財源になったので、市の財政政策の一部として生き残った。


これには一つだけ欠点があった。この条件を最大限に活かすには、債券を抱えている大物銀行家が〝身内の銀行家〟、市の政界実力者に近い銀行家でなければならなかった。もしそうでない銀行家がお金が必要になって、債券を市財務官のところに持ち込んでも、その債券では現金が手に入らないことを知ることになる。しかし、その人がその債券を市の政界実力者に近い銀行家か手形ブローカーに渡せば、話は全く違った。財務官は支払いの財源を見つけてしまうのだ。また、もしその手形ブローカーか銀行家――該当者――が望めば、三か月で支払い期日を迎えそのときに決済されるはずの手形が、支払いに十分な資金が市にあるときでさえ、六パーセントの利息をつけたまま何年も延長された。しかしこれはもちろん、市に違法な利息を負担させることになるが、それでもまかり通った。「資金がない」で済む話だった。一般市民は知らなかった。発覚するはずがなかった。新聞は政治寄りで監視機能を全然果たさなかった。政治に関して信用できる、粘り強い熱心な改革者はいなかった。戦時中、こうして発行済の未払い債券は二百万ドルをはるかに超え、すべてに六パーセントの利息がついていた。これはその後当然、ちょっとした物議を醸し始め、さらに、少なくとも一部の投資家が、お金の返済を求め始めた。


そこで、この未払い債務を精算し、すべてを再び正常化するために、二百万ドル規模の公債を発行することが決まった――額を正確に記す必要はない。この公債は額面百ドルの利付き証券の形をとらなければならず、償還期間はものによるが、六か月、十二か月、十八か月だった。それから、これらの公債の証書は、表向きは公開市場で売り出され、償還のための減債基金が用意され、そうして得た資金は、今世論を賑わしている長期未払い継続中の債券の償還に充てられることになった。


これは明らかに、ここの支払いに充てる金を他所で奪っただけだった。未払い債務の清算は実はされなかった。市の信用が低いから市場がないと主張し、問題の証券を九十パーセント以下で適切な相手に売らせ、投資をやっている中枢の政治家が昔と同じ収穫を得られるようにする、というのが立案者たちの目的だった。これはある程度事実だった。戦争は終わったばかりで、現金は貴重であり、公債が九十パーセントで売却されなくても、投資家は他所で六パーセント以上の利回りを得ることができた。しかし、政権の外には監視を怠らない政治家が少しいた。当時の愛国心の高まりに影響され、一部の新聞や政治と無縁の投資家は、公債は額面で売却すべきだと主張した。そのため、権限を与えている条令にこの条項が盛り込まれねばならなかった。


これがこの公債を九十パーセントの額で手に入れようとした政治家のささやかな計画を頓挫させたことは容易にわかるだろう。それでも、資金不足で目下償還不能の古い債券に拘束されたお金を返済したいとなれば、取れる唯一の手段は、株式市場の仕組みを知り尽くしたどこかブローカーを使い、この新しい市の公債に百ドルの価値があるように見せかけ、その額で外部の者に売れる方法で、取引所で扱わせるしかなかった。その後で、きっとそうなるだろうが、額面を下回ったら、政治家はそれを好きなだけ買って最終的に市に額面で償還してもらえばいいのだ。


この時の市財務官で、この計画に対する特別な金融の知識を全然持っていなかったジョージ・W・ステーネルは本当に困っていた。この古い市の債券を大量に集めた者の一人で、西部の大きな儲け話に投資する資金をすぐに欲しがっていたヘンリー・A・モレンハウワーが、ステーネルを訪問し、市長のところにも足を運んだ。モレンハウワーはシンプソン、バトラーとビッグスリーを構成していた。


「この未払い債券には何らかの措置が講じられるべきだと思います」彼は説明した。 「私は大量に保有してるし、そういう人は他にもいる。私たちはずっと何も言わずに市に協力してきました。でもそろそろ何か講じられるべきだと思います。バトラーさんもシンプソンさんも同じ気持ちでいます。この新しい市債証券を証券取引所に上場して、資金を調達することはできないでしょうか? 有能なブローカーなら額面で扱うことも可能でしょう」


ステーネルはモレンハウワーの訪問に感激した。彼が直々に出向くことはめったにないことだった。このときは、圧力をかけて結果を出したい一心で現れたのだろう。ステーネルを訪問したときと同じ高慢で近寄りがたい腹の底が読めない態度で、市長と市議会議長を訪ねた。モレンハウワーにとって彼らは事務所の使いっ走りだった。


モレンハウワーがステーネルに関心を持った動機と、この訪問とそれに対するステーネルのその後の行動の意味を正確に理解するには、少し遡って政界を見ておく必要がある。ジョージ・W・ステーネルは、ある意味でモレンハウワーの政治面の子分で任命されはしても、モレンハウワーの方では相手を漠然と知っているだけだった。以前に会ったことはあり、知ってはいた。しかしステーネルの名前が地元の候補者リストに載ることに同意したのは、身近な人物や彼の命令を実行する者たちから、ステーネルは「大丈夫」です、言われた通りに動き、誰にも迷惑をかけません、と保証されたのが大きな理由だった。実際、モレンハウワーはこれまでにいくつかの政権で、財務局と水面下でつながってはいたが、簡単にたどられる密接なつながりはなかった。その割に政財界で目立ちすぎる男だった。しかしモレンハウワーは、政界や実業界の代役を使ってスキャンダルを起こさずに市の予算をできるだけ多く搾取しようという、バトラーがからまなくてもシンプソンがからむ計画の蚊帳の外にはいなかった。実はその数年前から、さまざまな代理人が――市議会議長のエドワード・ストロビク、当時市長の座にあったアサ・コンクリン、市議会議員のトーマス・ウィクロフト、市議会議員のジェイコブ・ハーモンなどが――雇われ、市に必要な――木材、石、鉄、セメント――その他いろいろ――を扱うために、いろいろな名前でダミー会社を設立した。そして、もちろん常に、そうやって作られたダミー会社の陰にいる彼らに最終的に大きな利益がもたらされた。市はこれで正直で手頃な商人を幅広く探す手間を省けた。


このダミーのうちの少なくとも三名の行動が、クーパーウッドの物語の展開と関係があるので簡単に説明しておこう。エドワード・ストロビクはそのまとめ役だった。微力ながらモレンハウワーにとって使い勝手がいいこの人物は、この時三十五歳くらいでとても元気だった。痩せていて、そこそこ力は強く、黒髪に黒目で異常に大きな黒い口髭があった。粋で、目立つ服装が好みだった――縞模様のズボン、白いベスト、黒いモーニングコート、山高のシルクハット。やたらと装飾が目立つ靴はいつも完璧に磨かれ、汚れひとつない外見は一部の人から〝めかし屋〟と呼ばれた。それでも小さな仕事はちゃんとこなせるので、大勢に好かれた。


最も身近な仲間のトーマス・ウィクロフトとジェイコブ・ハーモンはそれほど魅力的でも聡明でもなかった。ジェイコブ・ハーモンは人付き合いは駄目だが、金融にかけては馬鹿にできなかった。大柄で、髪は砂茶色、目は茶色、見た目はかなり陰気だが、かなり知的で、過度に道を外れすぎず、法の網にかからない程度に守られるなら、何でも無条件で賛成した。実は狡猾というよりは鈍感で、うまくやろうと熱心だった。


この役には立つが小物である三人組の最後のひとり、トーマス・ウィクロフトは、背が高くて細く、蝋燭の蝋のような虚ろな目で、顔はやせ衰え、体は見るからに哀れだが、抜け目なかった。仕事は鋳造工で、ステーネルと同じように政界入りした――役に立ったからだ。彼はストロビクがまとめ役の、これから述べるいろいろな特定の事業に従事するこの三人組を通して何とか多少の儲けを出していた。


こういういろいろな子分たちが前政権下でモレンハウワーのために作った会社は、肉、建築資材、街灯、幹線道路の資材、市の各部署や関係機関の必需品を何でも扱った。いったん承認された市の契約は無効にできなかったが、一定の議員に事前工作が必要で、これをするにはお金がかかった。こうして作られた会社は、実際に牛を殺したり、街灯の柱を鋳造する必要はなかった。やるべきことは、その仕事をする会社を作って認可を受け、(ストロビク、ハーモン、ウィクロフトがいる)市議会から、市に物品を納入する契約を取りつけて、これをどこかの実在する牛の解体屋や鋳造工の下請けに回すだけだった。すると下請けは物品を供給して、三人が利益を手にできるようにし、今度はその利益が、会派や組織への政治献金の形でモレンハウワーとシンプソンに分配なり支払われるなりするのである。とても簡単で、一応は合法だった。こうして優遇された特定の牛の解体屋や鋳造工に、自力でこうやって契約を取れる見込みはなかった。ステーネルや当時の市の財務担当者は、契約の適切な履行のための保証だとか、場合によっては牛の解体屋や鋳造工の目的達成を援助すると称して、低金利で融資した計らいに対し、一、二パーセントどころか利益相応の割合をポケットに入れることもあった(他の財務担当者はやっていた )。自分の状態に満足で、信任の厚い、問題のない下っ端の束ね役は彼に推薦してもらえた。モレンハウワーのために活動しているストロビク、ハーモン、ウィクロフトが、貸付金の一部を指示された目的とは全く別のことに使う計画をたまたま立てていたのは、ステーネルとは関係なかった。それを貸すのが彼の仕事だった。


ともかく、つづけよう。ステーネルは指名される少し前に、財務官の保証人の一人であるストロビクから、この指名と当選を実現させた人たちは、決して合法でないことをやれとあなたに頼むことはないが、あなたは現状に満足し、大きな市政の役得を邪魔したり、育ててくれた人の手を噛んではいけない、と言い含められていた(この保証人関係は、ウィクロフト議員やハーモン議員の場合も同じで、政治家が別の政治家の保証人になってはならないと定めるペンシルベニアの法律に違反していた)。就任してしまえば自分で小遣い稼ぎができるともはっきり言われていた。前に述べたが、ステーネルはずっと貧乏だった。保険や不動産屋としてせっせと働く間に、これまで自分のまわりで政治に手を出した人がみんなとても金回りがよくなるのを見てきた。彼は政治家の下働きとして賢明に働いた。他の政治家たちは、市の新興地区に立派な家を建てていた。ニューヨークやハリスバーグやワシントンにみんなで繰り出していた。季節になると、街道沿いの宿や地方のホテルで、妻や他の好みの女性たちと幸せそうに談笑している姿が見受けられた。ステーネルはまだこの幸せなグループの一員ではなかった。何かを約束された今は当然、興味が出て、言いなりだった。自分が手に入れられないものだろうか? 


これはストロビクたちを通じてのモレンハウワーとステーネルの水面下のつながりとは明らかに関係がなかったが、モレンハウワーが市債を額面通りにする提案を持って訪れたとき、ステーネルは――主人の大きな声――自分の政治上の従属的立場をはっきり理解して、ストロビクのところに直行して情報を求めた。


「この件はどうするのですか?」ステーネルが尋ねるとストロビクは、ステーネルが話す前からモレンハウワーが訪問したことを知っていて、ステーネルが相談に来るのを待っていた。「モレンハウワーさんはこの新しい債券を取引所に上場して、額面まで吊り上げて百ドルで売ると言っている」


ストロビクもハーモンもウィクロフトも、公開市場で九十ドルの価値しかない市の債券証書がどうすれば取引所で百ドルで売れるのかわからなかった。しかしモレンハウワーの秘書のアブナー・セングスタックがストロビクに、バトラーがクーパーウッドという若者と取引があり、モレンハウワーはこれに関して自分の私的なブローカーを特に押さないから、クーパーウッドに当たった方がいいだろうと提案した。



こうしてクーパーウッドはステーネルの事務所に呼び出された。そして、来たものの、ここにいるのがモレンハウワーもしくはシンプソンの手先だとは気づかないまま、この妙によろよろ歩く、頬の厚い中流階級の男を、興味も共感もなしに見ただけで、金融の問題を持て余していることに気がついた。もしこの男の相談役を務められたらなあ――四年間、単独の顧問でいられたらなあ! 


「はじめまして、ステーネルさん」クーパーウッドは手を差し出し、穏やかな取り入るような声で言った。「お目にかかれて光栄です。もちろん、評判はかねがねうかがっています」


ステーネルは、自分が何に困っているかをクーパーウッドに延々説明した。自分が直面させられた状況の難しさをつっかえつっかえ話しながら、要領悪く切り出した。


「要するに、肝心なのはこの証書を額面で売らせるわけですね。私なら、あなたのご希望の量を、ご希望の回数で発行できます。とりあえず二十万ドル分の未払い債券を償還できる額を調達して、その後もできるだけ調達したいですね」


クーパーウッドは、本当はまったく病気ではないのに、安心させると高い報酬をくれる患者の脈を測っている医者の気分だった。証券取引所の難問など、彼にとっては初歩だった。もしステーネルがこの公債をすべて自分の手に委ねてくれたら、もし自分が市のために行動している事実を秘匿できたら、もしステーネルが減債基金のために自分が〝買い方〟として買い、その一方で上昇のために慎重に売ることを許せば、たとえ発行量が多くてもすばらしいことができることを知っていた。しかし、取り扱う者を傘下に収めるには、自分がすべてを掌握しなければならない。彼の頭に浮かんでいたのは、これはいろいろな人の手に自由にばらまかれる、ほしいだけいくらでも買うことができる、と思わせ、この株だか債券を、取引所の大勢の不注意な投機筋に空売りさせるという計画だった。やがて投機筋は目を覚まし、これを入手できない、買い占めている者がいる、ことに気づくのだ。ただそこまで自分の秘密を危険にさらすつもりはなかった。そんなことはやらないが、市債を額面まで吊り上げて売りさばくつもりだった。他の人たちに混じってこれをやれば、どれだけの稼ぎになるだろう。賢明にもクーパーウッドは、これは政治絡みだ――ステーネルの上にも背後にももっと狡猾でもっと大きな男たちがいる、と気がついた。しかし、これはどういうことだろう? それに、何と狡猾に抜け目なく、ステーネルを私のところに送り込んできたものだ。ここの政界で私の名前は大きな力を持ち始めているのかもしれない。そうでなかったら何だろう! 


「こちらの要望をお伝えします、ステーネルさん」説明を聞いた後で、今後一年間で売却したい市債の量を尋ねた。「喜んでお引き受けいたします。でも、考える時間を一日か二日ください」


「ええ、どうぞ、どうぞ、クーパーウッドさん」ステーネルは気さくに答えた。「構いませんよ。時間をかけてください。やり方がわかって、準備ができたら教えてください。ところで手数料はいかほどになりますか?」


「証券取引所には、私たちブローカーが守らなければならない一定の手数料体系があります。債券や公債は額面の一パーセントの四分の一です。もちろん、架空の売りもたくさんやらなくてはならないかもしれません――その辺のところは後で説明しますよ――ですが、それを私たちだけの秘密ということにしていただけるのなら、その分は一切請求いたしません。私にできる最高のサービスを提供しますよ、ステーネルさん。頼りにしてください。でも、一日か二日、考える時間をください」


クーパーウッドはステーネルと握手して二人は別れた。クーパーウッドは重要な提携ができそうなことに満足し、ステーネルは頼れる相手を見つけて満足した。


 

 

第十五章



クーパーウッドが数日かけて考えた計画は、商業や金融の操作について多少なりとも知る者には明白だが、そうでない人にはわかりにくい謎でしかなかった。まず、市財務官はクーパーウッドの会社を預金銀行として使う。財務官は、彼の指示に従って、市債の一定額――早急に調達したい額、まず二十万ドルを実際に彼に引き渡すか、市の帳簿の貸し方に記載する――それから彼は市場に行き、債券を額面にするには何ができるかを確認する。市財務官はすぐに証券取引所に、これを有価証券として上場するための承認申請を行う。次にクーパーウッドは影響力を駆使して、この申請が速やかに処理されるようにする。ステーネルはクーパーウッドだけを通して、すべての市債証券を処理する。ステーネルは、価格を額面で維持するために買わねばならない量を、クーパーウッドが減債基金向けに買うことを許可する。これをするにあたり、相当数の市債証券が一般向けに一旦売られるため、大量に買い戻す必要があるかもしれない。しかしこれは再び売却される。額面でしか売ってはならないという法律はある程度破らねばならないだろう――つまり、額面価格に達するまで、仮装売買と事前の売りは売却ではないと見なされなければならない。


ここにクーパーウッドがステーネルに指摘した巧妙なうまみがあった。そもそも、この債券は最終的には額面になるのだから、ステーネルや、最初の低い値段で買って値上がりを待って保有している他の誰からも異論は出なかった。クーパーウッドはいくらでも喜んで自分の帳簿に載せ、清算は毎月末にするつもりだった。この債券を即金で買えとは求められないからだ。ある程度の合理的な証拠金、たとえば十ポイントくらいとって帳簿に載せればいい話だった。もうステーネルは資金の調達が完了したも同然だった。次に、減債基金向けに買い付ける場合は、この債券をとても安く買うことができた。新規発行分も予備発行分もすべてが手中にあるため、クーパーウッドは買いたい時に買いたいだけ市場に投入することができ、結果として市場を下落させられるからだ。彼はそのときに買えばいい。後では値は上がるのだから。思い通りに市場を上げ下げできる、すべての発行分が自分の手中にあるので、市がすべての発行分に額面価格をつけられない理由はなかったし、同時にその作られた変動からかなりの利益をあげられた。クーパーウッドはそうやって自分の利益を最大にしていい思いをするつもりだった。市は、彼が市のためにこの債券を額面で販売した分すべてに対して通常の手数料を払うべきだった(証券取引所の決まりを守るにはそうしなければならないからだ)。 しかしそうはしなかった。大量になるはずの他に必要な相場操縦的な売却分は、株式市場に関する自分の知識を頼りにして賄うつもりだった。そして、もしステーネルが自分と一緒に投機をしたがったら――そのときは。


この取引は素人にはわからないかもしれないが、事情を知る者にはわかりきったことだった。一人の人間もしくはグループが完全に支配する株式は、常に巧妙に操作された。これはその後、エリー、スタンダード・オイル、銅、砂糖、小麦などで行われたことと何も違わなかった。クーパーウッドはその方法に気づいた最初の一人、最年少の一人だった。初めてステーネルと話したとき、彼は二十八歳、最後に取引したのは三十四歳だった。


クーパーウッド商会はビルも銀行の表向きもたちまち立派になった。銀行には初期のフィレンツェ風の装飾が施され、屋根に近づくほど窓が狭くなり、繊細な彫刻の柱と柱の間には錬鉄製の扉が設置され、ブラウンストーンのまっすぐなリンテルがあった。高さはないが外観は立派だった。中央のパネルで、精巧な細工のハンマートーンの手が赤々と燃える焼き印を高らかとかざしている。これは昔のベニスで使われていた両替商の看板で、その意味はとっくに忘れられてしまったとエルスワースが教えてくれた。


内装は磨き上げられた硬材で、木に生える灰色の地衣類を模した着色がされた。透明な面取り加工の大きな板ガラスが使われ、目の動きによって楕円、長方形、正方形、円に見えた。ガス灯の固定具は古代ローマのウォールランプを模したもので、事務所奥の大理石台に置かれた金庫は飾りで、シルバーグレーのラッカー塗装が施され、クーパーウッド商会と金の文字があった。ここには控えめで上品な雰囲気が漂っていた。それでいて計り知れないほど裕福で、堅実で、安心を与えてくれた。完成した姿を見たときクーパーウッドは大喜びでエルスワースを褒めそやした。「気に入ったよ。実に美しいね。ここで働くのが楽しくなりそうだ。自宅の方もこんな風にいけば、申し分ないんだがね」


「見てのお楽しみということで。喜んでいただけると思いますよ、クーパーウッドさん。あなたの自宅は特に苦心してますよ。小さいですからね。お父さんの方は実にやりやすい。でも、あなたの家は――」エルスワースは玄関ホール、応接室、客間の説明に入った。本来なら実物の大きさに合致しない広々感と威厳を効果的に出せる配置と装飾を彼は施していた。


完成すれば両方とも印象的で人目を引くだろう――通りにある従来の住宅とは全然違っていた。両家は緑地として設けられた二十フィートのスペースで隔てられた。建築家はチューダー様式をいくらか取り入れていたが、後にフィラデルフィアやその他の地域の多くの住宅で見られるような手の込んだものではなかった。最も印象的な特徴は、幅が広くて低い少し花をあしらったアーチの下にあるかなり奥まった玄関と、フランク邸の二階に一つ、父親邸の正面に二つある三つの豪華な張出し窓だった。二軒の正面には六つの切妻が見え、フランク邸に二つ、父親邸に四つあった。それぞれの家の一階正面には、建物の外側から内側の外壁を後退させて作った、奥まった玄関とはつながらない埋め込み窓があった。この窓はアーチ越しに道路が見えるので、小さな欄干だか手すりだかに保護されていた。そこには蔓草や花の鉢を置けた。後日そうしたところ、緑が通りから心地よく感じられ、椅子も少し置けた。そこへは重厚なフランス窓からたどり着けた。


それぞれの家は一階に花の温室が向き合うように設置され、共同で使える庭には直径八フィートの白い大理石のプールと、噴水の水がかかる大理石のキューピッド像があった。庭は、家の花崗岩と同じになるように特別に焼かれた緑灰色のレンガ造りの高い穴開き塀に囲まれ、塀の上に置かれた白い大理石の笠石には、芝生ができるように種がまかれて美しく滑らかなビロードに見えた。この二つの家は当初の計画どおり、冬はガラスで囲える低い緑色の柱のパーゴラでつなげられた。


今ゆっくりと時代を代表する様式で装飾がなされ、家具がそろいつつある各部屋は、フランク・クーパーウッドの芸術に対する世界観全体を広げて強化したという点でとても重要だった。エルスワースが、建築や家具の様式や種類、使われる木材や装飾品の性質、掛け物やカーテンや家具の化粧板やドア枠の品質や特性について延々と説明するのを聞くのは、啓発的で納得できるいい経験だった――芸術的で知的な成長を促す経験だった。エルスワースは建築だけでなく装飾の研究家でもあった。アメリカ人の芸術的嗜好に関心があって、いつかすばらしい結果を出すと考えていた。地方や郊外の住宅で流行っているロマネスク風の混成と結合の産物に、ほとほとうんざりしていた。何か新しいものを出す機は熟していた。それがどういうものになるかはわからなかったが、クーパーウッド親子のためにデザインしたこれは、彼も言ったように、少なくとも別物だった。それでも、控えめで、簡素で、感じがよかった。通りの他の建築物とは著しく違っていた。クーパーウッドは一階に、普通の玄関ホール、階段、階段下の来客用のクロークなどと一緒に、ダイニングルーム、応接室、温室、食器室を設置した。二階には、書斎、普通のリビング、客間、クーパーウッド用の小さな仕事部屋、化粧室と浴室つきのリリアンの私室を置いた。


三階は、すっきりした間取りで浴室と脱衣所があり、子供部屋、使用人の部屋、来客用の部屋が何室かあった。


エルスワースはクーパーウッドに、家具、掛け物、飾り棚、キャビネット、台座、とても美しいピアノの種類が載ったデザイン集を見せた。ローズウッド、マホガニー、ウォールナット、イングリッシュオーク、サトウカエデなどの木材と、オルモル、寄木、ブール、ビュールなどの工芸品の効果について議論した。エルスワースは、工芸品の作りづらさ、いくつかの点でここの気候に合わないこと、真鍮やべっ甲の象嵌は熱や湿気で膨張し、盛り上がったり割れたりすること、を説明した。完成品の問題点と欠点について説明し、最終的に、応接室にはオルモルの家具、客間には円形模様のタペストリー、ダイニングと書斎にはフランス・ルネッサンス様式、そしてその他の部屋には(ある部屋は青く染めた、ある部屋は自然の色のままの)サトウカエデ材や、割と簡単な構造で繊細な彫刻が施されたウォールナット材を推薦した。掛け物、壁紙、床材は――一致させるのではなく――調和させなければならない。フランクが費用をかけてもかまわなければ、客間のピアノと譜面台も、応接間の飾り棚やキャビネットや台座と同じように、ブールか寄木細工になるはずだった。


エルスワースは三角形のピアノを勧めた――四角いものはどういうわけか初心者を飽きさせてしまうのだ。クーパーウッドは強い関心を持って聞き入った。上品で、癒やされて、見ていて楽しい家になるだろうと思った。絵を飾るなら、大きくて奥行きのある金縁にするといい。ギャラリーがほしければ、書斎を転用できる。二階の書斎と客間との間にある普通のリビングは、書斎とリビングを兼ねた部屋に転用可能だった。最終的にはそうなったが、彼の絵の趣味がかなり高じてからのことだった。


キャビネットや台座やテーブルや飾り棚に置く、美術品、絵画、ブロンズ像、小さな彫刻や置物に強い関心を持ち始めたのはこの頃だった。フィラデルフィアにはこの分野の名品があまり出なかった――確かに公開市場にはなかった。外商で豊かになった個人の住宅は多かったが、彼の上流家庭とのつながりはまだ小規模だった。当時、パワーズとホスマーという二人の有名なアメリカ人彫刻家がいて、クーパーウッドは彼らの代表作の持っていた。しかしエルスワースは、彼らは彫刻界の頂点ではないので古典的な名作に目を向けるべきだと言った。彼は気に入ったトルバルセン作のダビデの頭像と、自分の新しい世界の精神に何だか合っているように思えるハント、サリー、ハートの風景画を最終的に手に入れた。


こういう特徴の家が持ち主に影響するのは間違いない。私たちは、自分が家や物質的なもの全般の上位にある、別個の、個体であると考えがちだが、そこには微妙なつながりがあって、私たちがそれらに影響を及ぼしているのと同じように、それらも私たちに影響を及ぼしている。両者は互いに、威厳、繊細さ、力強さを与え合っている。美しさは、もしくはその欠如は、機織(はたお)()()のように、渡されては端から端へ行き来し、織り合わせがつづくのである。その糸を切って、その人本来の姿、その人の特徴から切り離すと、その人は半分が良くて半分が悪い奇妙な姿になる。蜘蛛の巣のない蜘蛛のようなものだ。こういうものはすべての威厳と名誉が回復するまで決して完全な姿には戻らないだろう。


自分の新居が出来上がっていくのを見てクーパーウッドは世の中で重みが増したのを感じた。急に結ばれた市財務官との関係は、大きな扉が絶好のタイミングでエリュシオンの楽園に開け放たれたようなものだった。この頃彼は元気のいい鹿毛が引く馬車に乗って街を走りまわっていた。光沢のある皮と金属の馬具が、馬丁と御者の注意深い管理を物語った。エルスワースは家の裏の小さな脇道に、両家が共同で使うすてきな馬小屋を建てていた。クーパーウッドは妻に、新居に落ち着いたらすぐにヴィクトリア――当時の車高が低く屋根のない四輪馬車――を買うつもりだ、もっと外出しようと言った。催し物の重要性について――今はまだ面識のない特定の人たちにも社交の輪を広げなければならないという話があった。妹のアンナ、弟のジョセフとエドワードと一緒に、家族は二つの家を共同で使うことができた。アンナがすばらしい結婚をしないとも限らない。ジョーとエドは仕事で世界を沸かすような運命ではないから、いい結婚ができるかもしれない。少なくとも、やってみても損はないだろう。


「そういうのをやりたくはないかい?」クーパーウッドは催し物をする計画に触れながら妻に尋ねた。


妻はかすかに微笑んで「そうね」と言った。


 

 

第十六章

 



ステーネル財務官とクーパーウッドとの間で調整がつくと間もなく、政治と金が結びつく関係が動き始めた。十年満期の六パーセント利付債の二十一万ドルという金額が、彼の指示するままに、市の帳簿のクーパーウッド商会の貸し方に記入された。それから、彼はきちんと上場して、九十ドル以上で小口の売りを出し始め、同時にこれが順調な投資になる印象を与えつづけた。この債券は徐々に上昇し、値上がりしていく中で売られ、やがて百ドルになり、総額二十万ドル――全部で二千枚――が小口で売り払われた。ステーネルは満足だった。二百株が彼用に融通されて、百ドルで売られ、二千ドルの利益をもたらした。これは違法な利益で、倫理に反しているが、彼の良心はそんなことであまり悩まなかった。実は彼に良心などはなく、のどかな未来図を見ていた。


これが突然クーパーウッドの手にどんな得体の知れない大きな力を与えたのかを完全に解明することは難しい。彼はまだ二十八歳――もうすぐ二十九歳――であることを考えよう。自分が生まれつき金融の仕組みに精通していて、普通の人がチェッカーやチェスで遊ぶように、株、証券、債券、現金などの形で大金をおもちゃにする能力があると想像すればいい。いや、もっといいのは、自分を、チェスのもっと高度な奥義を巧みに操る名人のひとりと想像することだ。同時に十四人の対戦相手に背を向けて座り、順番にすべての指し手を叫び、すべての盤上のすべての人の局面を記憶して勝つ高名な歴史的チェスプレーヤーたちの例で説明がつく思考のタイプだ。もちろん、この当時のクーパーウッドの腕前をここまで言うのは言い過ぎだろうが、それでも完全に的外れとは言い切れないだろう。彼はある金額で何ができるか――それがどういう仕組みで、現金として一か所に預けることができて、信用取引や持ち主を変える小切手の原資として、一か所だけでなく同時に他の多くの場所で使えるか――を本能的に知っていた。適切に観察して理解すれば、使い方次第で元金の十倍、十数倍の有意義な購買力が自分のものなのだ。〝マルチ商法〟と〝カイティング〟の原理は本能的に知っていた。もし運良く市財務官を掌握し続けたら、どうすればこういう債券の価値を毎日でも毎年でも上げ下げできるかだけでなく、どうすればこれが想像を絶するほどの信用を銀行に与えることになるかも、正確に理解することができた。父親の銀行は、これによって利益をあげ、彼への融資を拡大した最初の一行だった。いろいろな地元の政治家や実力者たち――モレンハウワー、バトラー、シンプソンなど――は、この方面での彼の努力が実ったのを見て、市債の投機に乗り出した。クーパーウッドはこの市債の計画を成功に導いている人物として、個人的にはともかく評判が伝わり、モレンハウワーとシンプソンに知られることになった。ステーネルは彼を見つけたことで功績があったと思われた。証券取引所は、すべての取引がその日のうちに照合され、翌日の業務終了までに清算する決まりになっていた。しかしこの新しい市の財務官と交わした作業についての取り決めは、クーパーウッドにかなりの裁量を与えた。このとき彼は、債券発行に関する全取引についての会計処理をするのに、常に毎月一日までの、ときにはほぼ三十日の、猶予があった。


しかも、これは彼の手から何かを移動させるという意味では、本当は会計処理ではなかった。発行量が膨大なので、処理する金額はいつも大きくなる。それに、月末にいわゆる振り替えとか帳尻を合わせをするのなら、ただの簿記だろう。彼は、市場を操作するために預かったこの市債の証書を、自分のものも同然に融資の担保としてどこの銀行でもいいから預けて、実際の価値の七十パーセントで現金を調達することができたし、そうすることをためらわなかった。月末まで会計処理をする必要がないこの現金は、他の株取引の保証金に充てて、その株を元手にしてまた借り入れをすることができた。自分の行動力と工夫の総量と、働かなければならない時間の制限とを除けば、このとき自分が持っていると彼が気づいた資産に制限はなかった。政治家たちはまだ彼の思考の巧妙さに気づいていなかったので、彼がこのすべて使ってどれだけ私腹を肥やしているかを知らなかった。ステーネルが、市長やストロビクたちと話し合ってから、年内に市債二百万ドル分を正式に市の帳簿に計上すると告げたとき、クーパーウッドは黙っていた――しかし喜んでいた。二百万! これは自分の原資だ! 財政顧問として呼ばれ、助言をしたところ、それが採用されたのだ! 上々だ。彼はもともと良心の呵責に悩まされる人間ではなかった。 同時に、自分は財政に誠実に向き合っていると今でも信じていた。他の資本家と比べて彼の方が鋭いわけでも抜け目がないわけでもなかった――確かに、鋭さにかけては他の誰と比べても大差はなかった。


ここで注意しなければならないのは、市の資金に関するこのステーネルの提案は、路面鉄道支配に関する地元政界の主要指導者たちの思惑とはまったく関係がなかった。これは市の経済活動で新しい陰謀がうまれるひとつの局面だった。有力な資本家と経済通の政治家の多くはこれに関心を持っていた。例えば、モレンハウワー、バトラー、シンプソンはそれぞれが独自に路面鉄道に関心を持っていた。この点について三者の間には何の取り決めもなかった。もし彼らがこの問題を少しでも考えていたとしたら、部外者には干渉してほしくないと決めていただろう。実際フィラデルフィアの路面鉄道事業は、当時はまだ十分な発展を遂げておらず、後に実現する壮大な合併計画など誰にも連想させなかった。しかし、このステーネルとクーパーウッドの新しい取り決めにかこつけて、ステーネルに独自のアイデアを持ちかけたのはストロビクだった。クーパーウッドを使えばお金が稼げることを全員が確信した――ストロビクとステーネルは特にそうだった。ストロビクとステーネルの場合の不都合と、彼ら、というかステーネルの秘密の代理人クーパーウッドの場合の不都合は何か。ストロビクはこの件――どこか路線の路面鉄道を支配するためにそこの株式を十分に買い付けること――で表に出たくなかった。そうなったとき、もし彼、ストロビクが、自分の努力で路線の延長用に特定の通りを確保するために市議会を動かすことができたら、ほら、おわかりだろう――これは彼らのものになる。ただ後でできることなら、彼はステーネルを振り落とすつもりだった。しかし、この準備作業は誰かがやらされねばならず、ステーネルでもよかった。同時に、わかりきったことだが、この仕事はとても慎重に行われなければならない。当然、上の者が目を光らせている。もしこういう内職に手を出して私腹を肥やしていることがばれたら、自分の裁量でこれと同じことができる政治的立場にいつづけさせてもらえなくなるからだ。既存の鉄道会社のような外部の組織は、当然、自社と街の発展をさらに進める特権を市議会に訴える権利を持っていて、他の条件が同じであれば、これを拒否することはできない。しかし、彼が株主、市議会議長双方の立場で出るわけにはいかない。しかし、ステーネルのために個人的に行動しているクーパーウッドとなれば、話は違う。


ストロビクに代わってステーネルが最終的にクーパーウッドに提示したこの計画の面白いところは、そのつもりはないように見えても、クーパーウッドの市政に対する態度の問題全体を浮き彫りにした。彼はエドワード・バトラーの代理人として密かに取引を行い、自分でも同じ計画を抱え、モレンハウワーにもシンプソンにも会ったことはなかったが、それでも市債の市場操作に関する限り、自分は彼らのために行動していると感じていた。その一方で、ステーネルが今度新たに持ちかけてきたこの私的な路面鉄道買収の件で、クーパーウッドはステーネルの態度から、これはやばいことなんだ、ステーネルは自分がやるべきではないことをやっていると感じている、ことに最初から気づいていた。


「クーパーウッド」この問題を切り出した最初の朝、ステーネルは言った。場所は六番街とチェスナット・ストリートにある古い市庁舎のステーネルの事務所。ステーネルは近づいて来る繁栄を思い浮かべてとても上機嫌だった。「十分な資金があれば、買収して支配できる路面鉄道がこの街にあるんじゃないかな?」


クーパーウッドはそういうのに心当たりがあった。彼のとても油断のない頭脳は、ずっと前からここでいろいろなチャンスを感じ取っていた。乗合馬車は徐々に姿を消しつつあった。一番いいルートはすでに先取回りされていた。しかし、通りは他にもあって、街は発展を続けていた。増え続けている人口は将来大きなビジネスを生むだろう。待つことができ、後でもっと広くてもっといい地域に延長することができるのであれば、既存の短い路線にだっていくらでも払う価値はあった。そしてすでにクーパーウッドは後に〝無限連鎖〟とか〝容認できるやり方〟と呼ばれた理論を自分の頭に思い描いていた。それは、長い返済期間で物件を購入し、売主への支払いだけでなく、自分の手間賃を補い、言うまでもなく、他のもの――たとえばさらに債券を発行できる関連不動産など――に投資する余力を自分に与え、無限につづけるというものだ。後世からすれば古い話だが、当時は新鮮だった。そしてクーパーウッドはこの考えを温存していた。それでも路面鉄道には興味があったので、ステーネルがこの話を持ちかけてくれたのはうれしかった。やがて経営するチャンスを手に入れたら、路面鉄道の第一人者になる自信があった。


「そりゃ、あるでしょう、ジョージ」クーパーウッドは曖昧な返事をした。「十分な資金があれば、いいチャンスをくれる会社は二、三ありますよ。時々、取引所でまとまった株券があっちからこっちへと売りに出されているのを見かけますから。売り物が出たらひろっておいて、後は他の株主で売りたがっている人がいないかを見極めるのがいいでしょう。今だと、グリーン=コーツ鉄道が私にはよさそうに見えますね。もし私に三、四十万ドルあって、それをつぎ込めると思ったら、少しずつ実行しますよ。どの鉄道会社でも、株式を三十パーセント持つだけで支配できますから。株式の大半は広範囲に分散されてしまい、議決権は行使されません。あの鉄道だったら、二、三十万ドルで支配できると思います」クーパーウッドはやがて同じやり方で確保できるかもしれない別の他の鉄道会社について言及した。


ステーネルは考え込んだ。「かなりの大金だな」と考えながら言った。「この件はもう少ししてから話しますよ」そしてステーネルはストロビクに会いに出かけた。


何に投資するにせよステーネルが二、三十万ドルもの金を持っていないことをクーパーウッドは知っていた。彼がそれを手に入れる方法は一つしかなかった――市の金庫から借りて利息を取らないことだ。しかし、ステーネルは率先してそんなことはしないだろう。彼の背後に他の誰かがいるに違いない。それもモレンハウワー以外の他の誰かだが、シンプソンか、ひょっとしたらバトラー、しかし、三人が密かに協力しているのなら話は別だがこれは疑わしかった。しかしそれが何だ? 大物政治家はいつも公金を使っていた。クーパーウッドはこのとき、この金の使い方に関して自分の立場しか考えていなかった。もしステーネルの冒険が成功すれば自分に害は及ばない。しかも成功しない理由はなかった。仮に成功しなかったとしても、自分はただ代理人として行動していたに過ぎない。さらに、ステーネルのためにこの資金で市場操作をする中で、どうすれば最終的に特定の鉄道会社を自分の支配下に収められるかを考えた。


新居の数ブロック圏内に敷設されている路線があった――通称十七番街=十九番街鉄道――これはクーパーウッドに大きな関心を抱かせた。遅れたときや、乗り物で煩わされたくないときにたまに乗ることがあった。赤レンガの家が立ち並ぶ二つの活気のある通りを通るので、街が大きくなれば、すばらしい将来を迎える運命だった。それでも本当は長さが十分ではなかった。例えばもし自分がそれを手に入れて、バトラーの鉄道が確保され次第それと――あるいはモレンハウワーかシンプソンの鉄道と合併させられれば、それらに追加の営業権を与えるよう議会に働きかけることができるかもしれない。バトラー、モレンハウワー、シンプソン、そして自分との間の合併さえ夢見ていた。彼らの中にいれば政治的に何でも手に入れることができる。しかしバトラーは慈善家ではない。余程確かな手土産を持って近づかねばならないだろう。この合併は明らかに名案に違いない。しかし、自分はバトラーのために路面鉄道株の取引をしている。もし他でもないこの路線がそれほどいいものなら、どうしてそれを真っ先にこっちに持ってこなかったんだとバトラーは不思議に思うかもしれない。これを実際に自分のものにするまで待った方がいい、そうすれば話は変わってくるだろう、とフランクは考えた。そうなれば、一人の資本家として話をすることができる。クーパーウッドは、ひと握りの男たちに、いや、どうせなら自分一人に支配されて、市内全域を走る路面鉄道網の夢を見始めた。


 

 

第十七章



過ぎていく日々はクーパーウッドとアイリーン・バトラーを精神的にいくらか近づけた。大きくなっていく仕事の重圧のせいで、彼女にはこれまでほど多くの注意を払わなくなっていたが、この一年は頻繁に会っていた。アイリーンはこのとき十九歳、自分独特の多少微妙な考えを持つようになっていた。まず、家や家具の趣味の良し悪しがわかり始めていた。


「お父さん、どうしてあたしたちはこんな古い納屋にいるの?」ある日の夕食の席で、家族がいつものようにテーブルにつくとアイリーンは父親に尋ねた。


「この家がどうしたって、知りたいな?」テーブルに引き寄せられて、バトラーは尋ねた。胸もとにはゆったりとナプキンがねじ込まれていた。来客のいないときでも彼はこれにこだわった。「お父さんはこの家には何の問題も見当たらないんだがな。お母さんもお父さんも、ちゃんと暮らしてるだろ」


「まあ、ひどい、お父さんたら、わかってるくせに」ノーラが話に加わった。十七歳で少し経験は足らないが姉と同じくらい利口だった。「みんなそう言うもの。この辺りのあちこちに建てられているすてきな家を見てよ」


「みんな! みんな! 〝みんな〟って誰だい? 知りたいな」かんしゃくをほんのちょっぴりと、ユーモアをたっぷりにじませて、バトラーは言い返した。「お父さんは違うぞ。こういうのが好きなんだ。それが気に入らない人は住まなくてもいい。そういう子はいるかい? うちのどこが問題なんだ、知りたいな?」


こういう質問はこれまでに何度も繰り返されてきて、こんな風に処理されたか、あるいは健康的なアイルランド人の笑顔を向けられて完全に聞き流された。しかし今夜はもう少しじっくり考慮されることになった。


「お父さんだって、ひどいのはわかってるでしょ」アイリーンはきっぱり訂正した。「ねえ、それを怒っても仕方ないでしょ? 古いし安っぽいし薄汚いんだもの。家具はみんなボロボロだし、あっちにあるあんな古いピアノなんか捨てちゃうべきよ。もうあんなもの弾かないから。クーパーウッドさんの――」


「そりゃあ、古いさ!」バトラーは叫んだ。自ら招いた怒りで何だか訛りがきつくなっていった。「ふうるい」としか聞こえなかった。「薄汚いだと! あれはどこでいただいたものだ? お前の修道院だろ。そしてどこでボロボロになったんだ? どこでボロボロになったのか言ってごらん?」


娘がクーパーウッドに触れたことに話が及ぶところだったが、バトラー夫人が口を挟んだので言いそびれてしまった。夫人は太った、顔のでかい女で、いつも口元がニコニコしていた。ぼんやりした灰色のいかにもアイルランド人という目を持ち、髪はほんのりと赤かったが今は白髪に変わり、左の頬から口の下まである大きな腫れ物がかなり目についた。


「子供たち! 子供たち!」(バトラー氏は商売でも政治でも責任のある立場だったが、夫人にかかっては子供同然だった)。「ああたたち(丶丶丶丶丶)、もう喧嘩してはいけませんよ。さあ、お父さんにトマトを渡してね」


アイルランド人のメイドがテーブルで給仕をしていたが、それなのに皿が人から人へと手渡された。白磁の模造蝋燭が十六本もある重そうで派手なシャンデリアが、テーブルの上の低い位置まで垂れ下げられ、明るく灯されたが、これもアイリーンには不快だった。


「お母さん、『ああたたち(丶丶丶丶丶)』って言わないでって何回言ったらわかるのよ?」母親が言葉もまともに話せないのにすっかり落胆してノラが訴えた。「もう言わないって言ったじゃない」


「自分のお母さんの喋り方に指図するのは誰かな?」バトラーは、この突然の無礼な口答えに、これまで以上に激昂して叫んだ。「お母さんはお前が生まれる前から喋ってたんだぞ、覚えておきなさい。お母さんが身を粉にして働いてくれなかったら、そうやって並べたてる立派なマナーはお前に身につかなかっただろうな。それをわきまえてもらいたい。お母さんは立派なんだ。さもなきゃお前の今日などありゃしないんだぞ、このつまらんお荷物め!」


「お母さん、お父さんが私を何て呼んだか聞こえてる?」ノラは母親の腕にしがみついて、怯えて不満をぶちまけるふりをしながら訴えた。


「エディ! エディ!」バトラー夫人は夫に頼み込むように注意した。「お父さんは本気で言ったんじゃないのよ、ノラ。本気じゃないってわかんないの?」


夫人は赤ん坊にするように娘の頭をなでていた。まともな言葉遣いができないことに触れられても、バトラー夫人は全然気にしなかった。


バトラーは末娘をお荷物呼ばわりしたことをあやまった。しかしこの子供たちときたら――まったく――大きな悩みの種だった。それにしても、子供たちはこの家じゃ不足なのか? 


「食事の席で騒ぐのはやめたらどうです?」若者然としたカラムが言った。黒い髪は、左から右耳のすぐ近くまで届きそうな長い目立つ前髪となって滑らかに額を覆い、上唇に短い波打つ口髭を生やしていた。鼻は短く上向きで、耳はやや突き出ていたが、明るくて魅力的だった。カラムもオーエンも、自宅が古くて貧乏くさいことには気づいていたが、両親はここを気に入っていた。損得勘定が働いて家族の平和を大事に思い、この場は黙っていることにした。


「まあ、うちの四分の一ほどもない人たちが、もっといいところに住んでいるのに、こんな古いところに住まなければならないのは情けない、とは思いますがね。クーパーウッド家だって――クーパーウッド家でさえ――」


「そうだ、クーパーウッドだ! クーパーウッドがどうしたって?」バトラーはアイリーンを正面から見すえた――彼女は彼の横に座っていた――バトラーの大きな赤い顔は燃えているようだった。


「だって、あの人たちでさえ、うちよりも立派な家を持ってるのよ。あの人はお父さんのただの代理人でしょ」


「クーパーウッド! クーパーウッド! クーパーウッド家の話なんかするつもりはない。うちではクーパーウッド家のルールなど採用しないからな。あいつらが立派な家を建てたからといって、それが何なんだ? 我が家は我が家だ。私はここで暮らしたい。ここでずっと暮らしてきたんだから、荷物をまとめて出て行くなんてできん。もしそれが気に入らないんなら、他にどうすればいいかわかるな。出て行きたければ出て行けばいい。私は動かんからな」


こういう水たまりのように浅い家族の喧嘩に巻き込まれると、妻や子供たちの鼻先で反発をあおるように両手を振るのがバトラーの癖だった。


「じゃあ、近いうちに出て行くわ」アイリーンは答えた。「一生ここに住む必要がなくなってよかったわ」


クーパーウッド家の美しい応接室、書斎、客間、今はまだ準備の最中でアンナ・クーパーウッドが散々話してくれた婦人部屋――金にピンクとブルーで色付けされたおしゃれでかわいい三角形のグランドピアノ――が、アイリーンの脳裏をよぎった。うちはどうしてそういうものが持てないのかしら? うちの父親は紛れもなく十倍は裕福なのに。しかし残念ながら、アイリーンの愛してやまない父親は昔気質だった。世に言う、がさつなアイルランド人の請負業者だった。金持ちではあるかもしれないが。アイリーンは物事の不公平に腹が立った――どうして、うちの父も金持ちで洗練された人になれなかったのかしら? そうすれば、うちだって――でも、ああ、文句を言って何になるっていうの? あの父と母が仕切ってるんだから、うちはどうにもならないわ。あたしはただ待つしかない。結婚がこの答えだわ――正しい結婚をすればいいのよ。しかし誰と結婚すればいいのかしら? 


「今そんなことを争っても仕方ないでしょ」バトラー夫人は運命そのものと同じように、堅固で根気強く言い聞かせた。彼女はアイリーンの悩みがどこにあるかを知っていた。


「でも、うちがちゃんとした家を持ってもいいじゃない」アイリーンは譲らなかった。「さもなきゃ、ここを立て直すのよ」ノラが母親にささやいた。


「しっ! そのうちにね」バトラー夫人はノラに答えた。「待っててね。いつか、きっと全部解決しましょうね。あなたがた、そろそろお勉強よ。もう十分食べたでしょ」


ノラは立ち上がって行ってしまった。アイリーンは落ち着いた。父親はとにかく頑固で手に負えなかったが、それでいて優しいところもあった。アイリーンは口を尖らせて、父親に謝らせようとした。


「なあ」テーブルを離れてもなお、娘が自分に不満を持っていることに気づくとバトラーは言った。娘をなだめるためには何かをしなければならなかった。「ピアノで何か弾いとくれよ、すてきなやつを」バトラーは、娘の技量と筋力を見せつけて、どうやって弾くんだろうと彼を驚かせるような、派手で景気のいい曲が好きだった。これは教育のたまものだ――おかげで娘はこういうとても難しいものを、素早く、力強く弾けるようになったのだ。「そしたらいつでも新しいピアノを買ってあげるよ。見に行っておいで。お父さんにはこれがかなりいいものに見えるんだが、お前が気に入らないんじゃあ、仕方がない」アイリーンは父親の腕をぎゅっとつかんだ。父親と言い争って何になるだろう? 家全体と家族全体の雰囲気に問題があるのに、ピアノ一台が何の役に立つだろう? しかしアイリーンはシューマン、シューベルト、オッフェンバック、ショパンを弾いた。老紳士はにこにこして行ったり来たりして考え込んだ。アイリーンはとても力強くて活気に満ち溢れ、同時にとても反抗的だったが、感情がないわけではなかったので、この中のいくつかには本当の気持ちと考え抜いた解釈が加えられていた。しかし父親には全然伝わらなかった。バトラーは娘を見た。明るく健康でうっとりするほど美しい自分の娘を見て、この子はどうなるのだろうと思った。どこか金持ちの男がこの娘と結婚するのだろう――商才に恵まれたどこかの立派な金持ちの青年だ――そして父親である自分は娘に大金を残してやるのだろうな。


クーパーウッド家の二棟の落成を祝うパーティーとダンスが催されることになった。パーティーはフランク・クーパーウッドの邸宅、ダンスは父親の邸宅で行われることになった。ヘンリー・クーパーウッド邸は随分と見栄っ張りだった。こちらは応接室、客間、音楽室、温室がすべて一階にあって、かなり広かった。エルスワースは、これらの部屋が状況に応じて一つにまとめられ、遊歩道やホールやダンス会場――大勢の客が必要とするあらゆる用途――に格好の空間ができるように準備してくれていた。二人は最初からこの二棟を共同で使うつもりだった。最初は、執事、庭師、洗濯係、メイドなどのさまざまな使用人を共同で使った。フランク・クーパーウッドは子供たちのために女性の家庭教師を一名雇った。執事は本当の意味では執事でなく、ヘンリー・クーパーウッドの専用使用人だった。しかし、食卓での肉の切り分けから主人役までできたので、必要に応じてどちらの家でも使われた。また、共用厩舎には馬丁が一名と御者が一名いた。一度に馬車が二台必要になっても、両名とも馬車を走らせることができた。とても快適で満足できるように仕事が割り振られていた。


このパーティーの準備はかなり重要な問題だった。金融関係を重視するならできるだけ大規模にやる必要があるし、社交性を重視するなら排他的にする必要があったからだ。そこで、フランク邸での午後のパーティーは全員――ティグ家、ステーネル家、バトラー家、モレンハウワー家、さらに、たとえばアーサー・リバース、セネカ・デイビス夫人、トレナー・ドレイク夫妻、フランクと面識があるドレクセル商会やクラーク商会のもっと若手の数名を含むもっと選りすぐりのグループ――を招待し、自然に人があふれてヘンリー邸に流れて行く形にした。後者が来てくれるとは思えなかったが、カードを送らないわけにはいかなかった。たとえ、アンナやクーパーウッド夫人やエドワードやジョセフの友人と、フランクが個人的に考えているメンバーにまで範囲を広げなくてはならなくなったとしても、なるべくなら一般大衆でないグループは夜遅くなってからもてなされる手筈だった。これはかなりの数になるはずだ。若い社交界のエリートの中から、勧誘されたか、強制されたか、影響されたかした最高の人たちが、ここに招待されるからだ。


しかし、クーパーウッドは個人的にアイリーンに惹かれていたので、親たちの出席が不満この上ないにもかかわらず、バトラー家は午後も夜も両方とも両親と子供たちを、特に子供たちを招待しないわけにはいかなかった。どうやら、アイリーンでさえアンナとリリアンにとっては少し不満だった。この二人は一緒に招待者リストをチェックしていたときに、よくこれを話題にした。


「彼女はすごくお転婆でしょ」アイリーンの名前にたどり着いたとき、アンナは義理の姉に言った。「自分では結構物知りだと思ってるんでしょうけど、彼女はちっとも洗練されてないわ。あの父親もね! もしあんな父親をもったら、私ならあんな生意気な口はたたかないわ」


自分の新しい寝室の物書き机の前でクーパーウッド夫人は眉をひそめた。


「ねえ、アンナ、私、時々思うのよ、フランクの仕事だからって私まであの家族に関わらせないでよねって。バトラー夫人にはうんざりだもの。向こうは善意のつもりなんでしょうけど、何もわかってないのよね。アイリーンは不作法もいいところだし、出しゃばり過ぎだと思うわ。うちに来るとピアノに向かうじゃない、特にフランクがいると決まってね。私は大して気にならないけど、きっとフランクはイライラしてるわ。曲はうるさいものばかりだし、繊細で上品な曲は全然弾かないのよね」


「私はああいう着こなし方って好きじゃないわ」アンナは同情するように言った。「着飾るにしても目立ちすぎよ。この前、馬車で出かけるところを見たんだけど、それがね、いい見ものだったわ! 縁取りを黒でびっしり編み込んだ真紅のズアーブ・ジャケットに、大きな真紅の羽根のついたターバンなんか巻いちゃって、真紅のリボンが腰のあたりまで届いてるんだもの。ドライブにそんな被り物をするなんて、よく思いつくわよ。それに手だってさ! 必見よ、あの手の持ち方ときたら――ああ――まさに――自意識過剰ってやつね。ちょうどこんな感じに曲がってるのよ」――そしてアンナはその仕草をやって見せた。「黄色い長手袋をつけて、片手には手綱、もう片方の手に鞭を持って、とにかく馬車を操るとき、狂ったように走らせるのよ、使用人のウィリアムを後ろに従えてね。あれは必見だわ。やれやれよ! あれで自分は大したものだと思ってるんでしょうね!」そして、アンナは半分は非難、半分は面白がって、くすくす笑った。


「招待しないわけにはいかないでしょうね。回避する方法がわからないし。でも、その様子が目に浮かぶわ。歩き回って、ポーズをとって、鼻高々でいるのよ」


「本当に、どうしたらあんなまねができるのか私にはわからないわ」アンナは言った。「ノラは好きなんだけどね。はるかにいいわ。あの()はもったいぶらないもの」


「私もノラは好きよ」クーパーウッド夫人は言った。「本当にとても優しいし、私からすればあの子の方がかわいいわ」


「ええ、そうよね、私もそう思うわ」


しかし、二人の注意のほぼすべてを独占して、二人の思考を、彼女のいわゆる奇行に釘付けにしたのがアイリーンであるというのは不思議だった。二人が言ったことはすべて奇妙でありながら真実だった。しかし加えて、この少女は本当に美しくて、知性も力強さも並外れていた。野心が根深かかったために、彼女はかえって強く意識して、自分が内面で戦いつづけていた社交的な欠点を自分自身の意識に反映するあまり、ある意味で一部の人たちを苛立たせていた。世間が当然のように両親を不適格者と見なし、さらにそれを理由に自分までそう見なしかねないことに憤慨した。彼女は本質的に誰にも引けを取らない価値があった。とても有能で急速に頭角を現しつつあるクーパーウッドはそれを理解しているようだった。過ぎ去っていった日々は二人を精神的に多少近づけていた。クーパーウッドはアイリーンに親切で、彼女に話しかけるのが好きだった。この頃は、彼がアイリーンの家にいるとき、もしくはアイリーンが彼の家にいるときはいつも、何とかして言葉をかけた。すぐそばまで行って、温かく親しげな態度でアイリーンを見た。


「やあ、アイリーン」――彼女はクーパーウッドの優しい目を見ることができた――「どう、元気かい? お父さん、お母さんはいかがです? ドライブにでも出かけてましたか? それはいい。今日、あなたを見かけたんです。とても美しかったですよ」


「まあ、クーパーウッドさんたら!」


「本当ですよ。衝撃的でした。黒の乗馬服はあなたに似合いますね。あなたの金髪なら遠くからでもわかりますよ」


「まあ、そんなこと言わないでください。あなたのせいでうぬぼれちゃうわ。それじゃなくても、うちの父と母は、うぬぼれもほどほどにしろって言うんですから」


「お父さんやお母さんなんて気にしちゃいけません。衝撃的と言ったのは、そう見えたからです。あなたはいつもそうですから」


「まあ!」


アイリーンはうれしくてちょっぴり息をのんだ。頬とこめかみが赤くなった。もちろん、クーパーウッドにはわかっていた。彼はとても博学で、ものすごく力があった。すでにとても多くの人に、彼女の両親にも、聞くところによればモレンハウワー氏やシンプソン氏にも、高く評価されていた。それに、自宅と事務所はとても美しかった。さらに、彼の静かな激しさは、彼女の落ち着きのない力と相性がよかった。


従って、アイリーンと妹はパーティーに招待されたが、バトラー夫妻は、その後のダンスは主に若者向けのものであると言葉巧みに言いくるめられた。


パーティーには大勢の人が集まり、紹介ばかりしていた。エルスワース氏がかなり困難な状況下で達成したという、小さな効果の数々についての気の利いた説明を聞きながら、パーゴラの下を歩いて、両方の家を詳しく見て回った。ゲストの多くは古くからの友人で書斎やダイニングに集まって歓談した。たくさんの冗談が交わされ、肩を叩き、楽しい話が語られ、やがて午後が夕方になると、みんなは帰った。


アイリーンは、ダークブルーのシルクの外出着に、ベルベットのペリースを合わせ、同じ素材の精巧なプリーツとシャーリングとで縁を飾って、印象的にしていた。山の部分が高くて、大きな臙脂(えんじ)色の造花の蘭を一輪飾った、青いベルベットのトーク帽は、おしゃれで颯爽とした雰囲気を彼女に与えた。トーク帽の下の赤みを帯びたブロンドの髪は、大きく束ねられて、長いカールした髪が襟元を覆うようにはみ出していた。必ずしも見かけほど大胆ではないのだが、そういう印象を与えるのが大好きなのだ。


「すてきですよ」すれ違いざまにクーパーウッドは言った。


「夜は違う格好をするわ」アイリーンは答えた。


少し豪快な歩き方で体を揺らすように威勢よくダイニングルームに入っていき姿を消した。ノラと母親はクーパーウッド夫人とおしゃべりをするためにそこに残った。


「まあ、すてきになりましたね」バトラー夫人は息をついた。「きっとここなら幸せになりますわ、必ずね。エディが今の家に落ち着いたとき、私、言ったんです。『エディ、私たちには立派すぎるくらい――ほんと、そうだもの』って、するとあの人がね『ノラ、天国の向こうにもこっちにもお前に立派過ぎるものなんかない』って言って、私にキスしたの。図体のでかい若者が、そんなこと言ってきたら、あなたならどう思います?」


「すてきなお話だと思いますわ、バトラーさん」クーパーウッド夫人は少しまわりを気にしながら言った。


「母はこの話をするのが好きなんです。ねえ、お母さん。ダイニングを見に行きましょう」ノラが話しかけた。


「あなたがたがここでずっと幸せでいられるといいですね。そうなることを願ってます。私は我が家でずっと幸せでいました。あなたがたもずっと幸せでいられますように」そして、夫人は呑気によたよた歩いて行った。


クーパーウッド家の者は七時から八時の間に急いで食事を済ませた。九時になると、夜のゲストが到着し始めた。今度は装いも一変した――薄紫、クリームホワイト、サーモンピンク、シルバーグレーをまとった少女たちが、レースのショールやゆったりとしたドルマンを脱ぎ、滑らかな黒い服装の男性たちがそれを手伝っていた。寒い外で、馬車の扉がバタンと音をたて続け、ひっきりなしに新しいゲストが到着していた。クーパーウッド夫人は夫とアンナと一緒にパーティー会場に通じる正面入口に立ち、ジョセフとエドワードとヘンリー・W・クーパーウッド夫妻はその後ろにいた。リリアンはオールドローズのトレーンつきドレスを着て魅力的だった。四角の深い襟ぐりから、上質のレースの繊細なシュミゼットが見えた。クーパーウッドが初めて会った数年前のような滑らかな美しさは顔になかったが、顔も体も依然として注目を集めた。アンナ・クーパーウッドは不器量とは言えないが、美人ではなかった。小柄で色黒、鼻は上向きで、鋭い黒い目をしていて、快活で、詮索好き、聡明だが、残念なことにやや批判的な雰囲気があった。着こなしはかなり上手だった。スパンコールの輝いているビーズの黒は、彼女が色黒でも髪の赤いバラと同じように、アンナの外観をかなり引き立てた。滑らかな白いふくよかな腕と肩をしていた。明るい目、快活な態度、賢い物言い――こういうものは魅力の幻想を作るのには役立つが、本人がよく言ったように、ほとんど使い道がなかった。「男性はお人形みたい相手を求める」からだ。


夕方、若い男女のグループに混じってアイリーンとノラがやって来た。アイリーンが黒いレースの薄い網のヴェールと黒いシルクのドルマンを脱ぐと、兄のオーエンが受け取った。ノラはカラムと一緒だった。背筋を伸ばしてまっすぐに立って、にこにこしているアイルランド人の青年は、自力で目覚ましいキャリアを切り開きそうに見えた。ノラは靴の甲の少し下までくる、短い女の子らしいドレスを着ていた。淡い模様の入ったラベンダーと白いシルクのもので、ところどころにラベンダーの小さなリボンが目立つ、可憐なレースで縁取られたフリルがある、ふわふわのフープスカートをはいていた。ウエストにはラベンダーの大きな飾り帯、髪には同じ色のバラ飾りがついていた。ノラは愛嬌満点で――熱望する明るい目をしていた。


しかし、その後ろには、うっとりするような黒のサテンのドレスを着た姉がいた。キラキラしている真っ赤な銀のスパンコールが、魚の鱗のようについていて、丸みのある滑らかな腕を肩まで露出し、礼儀作法に関する本人の良識に照らして大胆さが許すぎりぎりの深さまで、コサージュの前後がカットされていた。アイリーンはもともと容姿端麗で、背筋がまっすぐ伸びていた。豊かな胸は緩やかに膨らんでいる腰よりやや大きいのに、それでもきれいに調和のとれているボディラインに溶け込んでいた。前後が深くVの字型にカットされた、襟ぐりの深いこのコサージュは、黒いチュールと銀色の薄絹の、短い優雅な(ひだ)のあるオーバースカートの上で、彼女を完璧に引き立てた。ふっくらと滑らかな丸みを帯びた首は、たくさんの黒い切子面(ファセット)が施された黒玉の一インチ幅のネックレスで、クリームピンクの白さが一段と強調された。健康なピンク色のおかげで自ずと色調が高かった顔色は、頬骨に貼られた極小の黒い絆創膏で強調され、ドレスで赤みを帯びた金色が強調された髪は、目のあたりでゆったりと、器用にふわふわに束ねられた。この宝物の髪の大部分が、二本のゆるい三つ編みにされて、首の後ろで黒いスパンコールのネットが被せられ、眉毛はペンシルで強調されて髪と同じくらい重要なものになった。こういう場面にしては少し強調しすぎかもしれないが、これは衣装というより、彼女の燃えるような生命力のせいだった。アイリーンにとって芸術は、肉体的、精神的に重要なものを抑制することを意味していたはずであり、人生は彼女にとってそれらを強調することを意味した。


「リリアン!」アンナは義理の姉を小突いた。アイリーンは黒を着ているのに、自分たちのどちらよりもはるかにすてきに見えると思うと悲しかった。


「わかってるわ」リリアンは抑えた口調で答えた。


「また来てくれたのね」彼女はアイリーンに向かって言った。「ねえ、寒くないの?」


「気にならないわ。部屋はすてきなんでしょ?」


彼女は柔らかい明かりのともる部屋と目の前の群衆を見つめていた。


ノラがアンナと雑談を始めた。「あのね、こんな古いもん着るもんかって思ったんだけど」ノラは自分のドレスのことを話していた。「アイリーンったら私を助けてくれないの――意地悪なんだから!」


アイリーンはクーパーウッドと彼の近くにいた母親の方に進んでいた。トレーンを留めていた黒いサテンのリボンを腕から外して、スカートを蹴り、自由に広がるにまかせた。傲慢な割に、目は懇願でもしているように輝いた。まるで元気なコリーだ。きれいに並んだ歯が美しく見えた。


すてきな活気のある動物を理解するように、クーパーウッドは彼女のことを正確に理解した。


「あなたがどんなにすてきか言葉にできません」まるで二人は昔から理解し合っているかのように、彼はアイリーンにささやいた。「まるで炎と歌のようだ」


なぜこんなことを言うのか、自分にもわからなかった。特に詩人というわけでもないのに。事前にこのセリフを考えていたわけでもなかったのに。ホールで彼女を初めて見てからずっと彼の感情と考えは元気な馬のように、飛び跳ねていた。この少女のせいで、クーパーウッドは歯を食いしばって目を細くした。彼女が近づくと、無意識のうちに顎を引き締めたので、一層反抗的で、力強く、手際がよさそうに見えた。


しかしアイリーンと妹はたちまち、紹介されたりダンスのカードに名前を記入するのがお目当ての若い男性たちに囲まれて、しばらく姿が見えなくなった。




 

 

第十八章



変化の種は――微妙にして、抽象的であり――深々と根を下ろしている。クーパーウッド夫人とアンナが最初にダンスの話をしたころからずっとアイリーンは、父親の金を使ってこれまでに成し遂げることができたものとは違う、もっと効果的な自己表現をしたいと意識していた。彼女も知っていたように、これから会う人たちは、これまで彼女が社交で知り合ったどの人たちよりも、はるかに印象的な有名人ばかりなのだ。このとき、クーパーウッドもこれまで以上にはっきりした存在として彼女の心に現れた。自分のためにも、彼女は彼を意識から締め出すことはできなかった。


ほんの一時間前、身支度をしているときに、クーパーウッドの幻影が彼女のところに現れた。ある意味、アイリーンは彼のために着飾っていた。彼が興味津々で自分を見たときのことを一度も忘れたことがなかった。一度、手のことで感想を述べてくれた。今日は「衝撃的でした」と言ってくれた。今夜ならいくらでも簡単にクーパーウッドに感銘を与えられる――自分が本当にどれほど美しいかを見せられる――と考えていた。


アイリーンは八時から九時までの間――実際に準備ができたのは九時十五分だったが――鏡の前に立って何を着るべきかをじっくりと考えた。アイリーンの衣装部屋には縦長の大きな鏡が二つあった――ずばぬけて大きな備品がひとつと――クローゼットの扉にひとつあった。アイリーンは後者の前に立ち、露出した腕と肩と、形のいい容姿を見て、左肩に窪みがあることや、ハート型の銀のバックルの飾りがあるガーネットの靴下留めを選んだことなどを考えていた。まず、コルセットがきちんときつく締められないものだから、メイドのキャサリン・ケリーを叱りつけた。髪型をどうしようか検討を重ね、最終的に整うまで、大騒ぎだった。眉毛を描き、額のあたりの髪を抜いて、ばらけさせ、存在感を薄くした。爪切で黒い絆創膏を切り、いろいろな大きさのものをいろいろな場所に貼ってみた。やっとの思いで自分に合うサイズと場所を見つけた。髪、アイブロウが施された眉、窪んだ肩、黒い付け黒子の相乗効果を確かめながら首を左右に向けた。今のあたしをどこかのある男性が見たら、いつかは! どの男性よ? この考えは、おびえたネズミのように慌てて穴に引っ込んだ。彼女はこんなに強いのに、ある男性を――ほかでもない――あの男性を恐れていた。


それから、トレーンのドレスの問題に移った。キャサリンは五着並べた。アイリーンは最近、こういうものを楽しむように、尊ぶようになっていて、両親の許しを得て存分に楽しんでいた。クリーム色のレースの肩紐がついていて、トレインのガーネットのビーズのガセットが数か所で目を楽しませるように輝く、山吹色のシルクを検討したが脇にのけた。白黒の縞模様のシルクが灰色に見える奇妙な効果を気に入って、どうしても着てみたい気がしたが、結局却下した。バスクを着て白いシルクの上にオーバースカートを重ね履きする栗色のドレス、豪華なクリーム色のサテン、そして最終的に選んだこの黒いスパンコールのドレスがあった。まず、クリーム色のサテンを試してかなり迷ったが、アイブロウが施された目と付け黒子が服に合わない気がした。その次に、キラキラしている真っ赤な銀のスパンコールがついた黒いシルクを着て、これだ、と感じた。腰のあたりの、チュールと銀の色っぽいゆったり感が気に入った。当時流行しつつあった〝オーバースカート〟は、保守的な人たちには避けられたが、アイリーンには盛んに受け入れられていた。この黒いドレスの衣擦れに少しゾクゾクして、顎と鼻を前に突き出して位置を整えた。それからキャサリンにコルセットをもう少し締めてもらい、トレーンバンドでトレーンを腕に抱え込んで、もう一度チェックした。何かが足らない。そうだ、首だ! 何を着けようか――赤いサンゴ? それじゃ合わない。真珠のネックレス? それも違う。母親が買ってくれた銀に小さなカメオを施したネックレスと、母親の持ち物であるダイヤのネックレスがあったが、それも違う。最後に、彼女はあまり高く評価しなかったが、黒玉のネックレスが頭に浮かんだ。ああ、あれならさぞかしすてきだろう! その上にくる顎は、さぞかし柔らかく滑らかに光り輝いて見えるだろう。首を優しく撫でて、黒いレースの|頭から肩を覆うスカーフ《マンティラ》と、赤い裏地のついた長くて黒いシルクのドルマンを持ってこさせた。これで支度が整った。


入ってみると、ダンスホールはなかなかすてきだった。彼女がそこで目にした若い男性と若い女性は興味津々であり、アイリーンは崇拝者に事欠かなかった。この若者の中の最も積極的な者――一番力強い者――は、この少女の中に、人生を活気づけるもの、生活への刺激、を見出した。彼女は、腹をすかせたハエにたかられる蜜壺のようなものだった。


ダンスのリストが一杯になっていくのはいいが、クーパーウッドが自分と踊りたがっても彼に残された枠があまりないことにアイリーンは気がついた。


クーパーウッドは最後の客を迎える頃、性に関する社会通念の微妙な問題を考えていた。二つの性。これを支配する法則が存在しているとはまったく信じなかった。アイリーン・バトラーと比べると、自分の妻はかなり見劣りするし、あまりにも老けて見える。自分が十歳年をとれば、もっともっと老けて見えるだろう。


「ええ、そうなんです、エルスワースがこの二つの家を実に魅力的な間取りで作ってくれたんです――期待していた以上ですよ」クーパーウッドは若手銀行家のヘンリー・ヘイル・サンダーソンと話をしていた。「二つをひとつにまとめてうまく活用したんです。スペースの限界を考えると、この大きな家よりも、私の小さな家の方が苦労が大きかったと思いますよ。父の家は大きさが取り柄ですから。私のために無駄を省いた家を建てただけだねと父には言ってるんですよ」


父親と彼の取り巻きは大きい方の家のダイニングにいた。人混みから脱出できたのを喜んでいた。自分もとどまらなければならないな。むしろ、とどまりたかった。アイリーンと踊ったほうがいいかな? 妻はあまりダンスをしたがらないが、せめて一度は一緒に踊らなければならないだろうな。セネカ・デイビス夫人がこっちに微笑みかけている。それにアイリーンもだ。いや、まったく、何て美しいんだ! 何てすてきな女の子なんだ! 


「あなたのダンスのリストはいっぱいで溢れかえっているんでしょうね。見せてください」クーパーウッドはアイリーンの前に立った。アイリーンは青い縁取りで金の刺繍の入った冊子を差し出した。オーケストラが音楽室で演奏していた。すぐにダンスが始まるだろう。壁際やヤシの木陰に、繊細な作りの金塗りの椅子が置いてあった。


クーパーウッドは彼女の目を見下ろした――あの興奮に満ちた、人生を愛している、血気盛んな目を。


「引く手あまたですね。ええと、九、十、十一。これだけ踊れば十分ですね。私はどうしても踊りたいってわけじゃないですから。人気があるのはいいことですよ」


「三番目が決まってないわ。多分、それ間違いだと思う。もし踊りたければ、そこで踊ればいいわ」


アイリーンは嘘をついていた。


「この方は構わないんですね?」


そう言うと、クーパーウッドの頬が少し赤くなった。


「ええ」


アイリーンの頬まで赤くなった。


「じゃあ、声がかかったら、あなたがどこにいるか探しますね。すてきですよ。怖いくらいです」クーパーウッドは冷静に相手の考えを読み取ろうと一瞥して立ち去った。アイリーンの胸は高鳴った。この暖かい空気の中にいると、時々息苦しくなることがあった。


最初はクーパーウッド夫人、次にセネカ・デイビス夫人、そしてマーティン・ウォーカー夫人と踊っている間に、クーパーウッドはしばしばアイリーンを見る機会があった。彼は見るたびに、偉大な活力を感じた。粗野でも美しいダイナミックなエネルギーが沸き起こるのを感じた。彼はこれを抑えられなかった、特に今夜は。アイリーンはとても若くて、美しかった。妻は繰り返し軽蔑的な意見を述べたが、クーパーウッドは、自分がこれまでに見た女性の誰よりも、彼女が自分の明快で、積極的で、動じない態度に近い存在だと感じた。アイリーンはある意味で洗練されていない。これは明らかだった。しかし別の意味では彼女に多くのことを理解させるにはほんの少しのことで事が足りる。クーパーウッドが彼女に感じたのは大きさだ――体ではない、背丈は彼とほとんど同じだった――感情面である。アイリーンはものすごく生き生きしているように見えた。何度も彼のすぐ近くを通り過ぎた。目を見開いて微笑みかけ、唇を開いて歯を輝かせた。クーパーウッドはそんな彼女に、これまで経験したことがなかった共感と仲間意識の高まりを感じた。アイリーンは愛らしかった。彼女のすべてが――楽しそうだった。


「あのダンスの件はもういいのかな」三曲目が始まる頃、クーパーウッドは近づいてきてアイリーンに言った。アイリーンは大きなリビングの片隅で、一番新しい崇拝者と一緒に座っていた。色つやのいい床はワックスがかけられ今は完璧な状態だった。ヤシの木があちこちにあって、緑で銃眼つきの手摺壁のようなものを構成していた。「失礼してもいいですか」クーパーウッドは彼女の連れの男性に挨拶した。


「どうぞ」相手は立ち上がりながら答えた。


「ええ、どうぞ」アイリーンは答えた。「あたしと一緒にここにいたほうがいいわね。もうじき始まるから。いいわよね?」アイリーンは連れに晴れやかな笑顔を向けて付け加えた。


「構いませんよ、すてきなワルツでした」相手は立ち去った。


クーパーウッドは腰かけた。「今の青年はルドゥーさんかな? そう思いましたが。あなたのダンスを拝見しましたよ。お好きなんですね?」


「ダンスに夢中なの」


「まあ、私はそこまで言えませんが、魅力的ですよね。あなたがパートナーならさぞかし違うでしょう。うちの妻は私ほどダンスが好きじゃないですから」


リリアンが話題にのぼると、アイリーンは少し見下して彼女のことを考えた。


「あなたはとても上手だと思います。あたしもあなたを見てました」アイリーンは言った後で、これは言うべきだっただろうかと考えた。随分と踏み込んだ発言に聞こえた――図々しいほどだった。


「ほお、見ていた?」


「はい」


クーパーウッドはアイリーンのせいで少し緊張していた――思考に少し雲がかかっていた――アイリーンは彼の人生に問題を引き起こしているというか、彼の出方次第では問題が起きるのだ。だからクーパーウッドの話は少しおとなしめだった。何か言うことを考えていた――二人の距離をもう少し縮めるような言葉を。しかし、すぐには言えなかった。本当はたくさんの話がしたかったのに。


「それは光栄ですね」しばらくしてクーパーウッドは付け加えた。「何があなたをそうさせたのでしょうね?」


からかうような態度で質問を振った。音楽が再開していた。踊りたい人たちが立ち上がり始め、クーパーウッドも立ち上がった。


彼は特にこの発言を真剣なものにするつもりはなかったが、すぐ近くに彼女がいるものだから、つい、じっと目を見つめてしまい、それでも穏やかな訴えかける態度のまま「さあ、どうしてですか?」と言った。


二人はヤシの陰から出てきていた。クーパーウッドは手を彼女の腰にあて、右腕は、彼女の伸ばした腕を腕に抱え込んで、手のひらと手のひらを合わせた。アイリーンは右手を彼の肩にのせて寄り添い、目をのぞき込んでいた。二人がワルツの楽しい波にのり始めると、アイリーンは顔をそむけ、それからうつむいたが、答えなかった。彼女の動きは蝶が舞うように軽やかだった。クーパーウッドは、目に見えない流れに乗せられかのように、突然体が軽くなったのを感じた。アイリーンの体のしなやかさに自分のを重ね合わせたくなって、実行に移した。彼女の腕、密着しているドレスの滑らかな黒のシルクに映える真っ赤なスパンコールのきらめき、首筋、燃えるようにきらめく髪、すべてが一体となって、ささやかな知的陶酔を引き起こした。彼女は元気がみなぎるほど若々しくて、クーパーウッドにとっては本当に美しかった。


「答えてはくれないんですね」クーパーウッドは続けた。


「この音楽はすてきじゃありませんか?」


クーパーウッドはアイリーンの指を握りしめた。


アイリーンはようやく恥ずかしそうに目をあげて彼を見た。陽気で積極的な強い力の持ち主であるにもかかわらず、彼女はクーパーウッドを恐れていた。彼の性格が明らかにその場を支配していた。彼がすぐ近くにいる今、アイリーンは彼をとてもすばらしい存在だと確信したが、それでも、不安な反動を経験した――一瞬逃げ出したくなった。


「言わなくったって構いませんよ」クーパーウッドはからかうように微笑んだ。


彼女はこうやって話しかけてもらいたがっている、彼の隠れた感情――強い好意――をにじませてからかってもらいたがっている、と考えた。いずれにせよ、これがわかったからといってどうなるっていうんだ? 


「ああ、あなたがどんな風に踊るのかを見たかっただけよ」アイリーンは気持ちを抑えて言った。最初の強気は、自分が何をしているのかを考えているうちに弱まった。クーパーウッドはその変化に気がついて微笑んだ。彼女と一緒に踊っていると楽しかった。ただ踊るだけのことにこれほどの魅力があるとは考えたことがなかった。


「私のこと、好きですか?」音楽が終わりに近づいたとき、彼は出し抜けに言った。


この質問を受けてアイリーンは頭のてっぺんからつま先までゾクゾクした。氷の欠片が背中に落ちても、彼女をこれ以上驚かすことはできなかっただろう。これは明らかに無粋だが、無粋とはほど遠かった。アイリーンは素早く顔を上げて直視したが、彼の力強い目にはかなわなかった。


「は、はい」音楽が終わると、アイリーンは声の調子を一定に保とうとしながら答えた。二人で椅子に向かって歩いていることが彼女にはうれしかった。


「私はあなたのことが大好きだから」彼は言った。「あなたが本当に私のことが好きなのか、ずっと気になっていたんです」穏やかで優しかったが、彼の声には訴える響きがあった。彼の態度はしょんぼりしていると言ってよかった。


「ええ、もちろんよ」アイリーンは彼に対する以前の気持ちに戻りながら、すぐ答えた。「あたしが好きなのは知ってるでしょ」


「私を好きになってくれるあなたのような人が私には必要なんです」クーパーウッドは同じ調子で話を続けた。「私にはあなたのような話し相手が必要なんです。以前はそう思わなかったが――今はそう思うんです。あなたは美しい――すばらしいですよ」


「だめよ、あたしたちじゃ」アイリーンは言った。「いけないことだわ。あたしったら自分が何をやってるのかわかってないんだわ」アイリーンは近づいてくる青年に目をやった。「あの人に説明しないとならないわ。あの人がこのダンスの相手だったのよ」


クーパーウッドは了解して立ち去った。すっかり体が温まり、今は緊張していた――不安になっていると言ってもよかった。おそらく自分はかなり危険なことをしてしまった、もしくは考えている、と自分でもはっきりとわかったからだ。当時の社会の慣例に従うなら、彼にそんなことをする権利はなかった。みんなが理解していたように、これはルール違反だった。例えば彼女の父親――彼の父親――まさにこの人生を歩むみんなである。水面下でどれだけたくさんのルールが破られていても、依然としてルールは存在した。学生時代に一度、ある少年が少女を堕落させて悲惨な結末に導いたという話が語られたとき、ある若者が「そういうやり方は駄目だね」と言うのをクーパーウッドは聞いたことがあった。


しかし、これを言ってしまった今は、彼女に対する強い思いが頭を占めた。そして、今になって思い出したが、自分の社会的、経済的な立場がかかっているのに、自分がどれほど計画的に、計算高く――さらに悪いのは熱心に――(ふいご)に風を送っているのを見るのは、我ながら興味深ことだ。そんなことをしたって、この少女への自分の欲望の炎を燃え上がらせることにしかならないのに、最終的には我が身を焼き尽くすかもしれない火に油を注ぐことにしかならないのに――しかも、計画的に、知略を駆使して! 


黒髪で細面の若い法学部の学生が話しかける間、アイリーンは漫然と扇子をおもちゃにしていたが、遠くでノラを見かけると、妹のところへ行ってもいいかしらと許しを請うた。


「ああ、アイリーン」ノラが声をかけた。「あっちこっち探しちゃったわよ。どこ行ってたの?」


「ダンスに決まってんじゃない。どこに行っていたと思うわけ? あなた、会場であたしのこと見なかったの?」


「ええ、見なかったわよ」まるでこれが最も肝心だと言わんばかりにノラは訴えた。「いつまでいる気よ?」


「終わるまでかしら。わからないけど」


「オーエンが十二時に帰るって言ってるわ」


「別にいいわよ。誰かが送ってくれるから。あなたこそ、楽しんでる?」


「ええ。ああ、それとね。さっきのダンスで、むこうで女の人のドレスふんじゃった。ものすごく怒ってたわ。こんな顔しちゃって」


「気にすることないわよ。向こうはあなたに危害を加えたりしないから。これからどこへ行くつもり?」


アイリーンはいつも妹に保護者みたいな態度をとっていた。


「カラムを見つけたいの。次は一緒に踊ってもらわないとね。向こうの腹は読めてんだから。私を避けてるのよ。そうはいかないけどね」


アイリーンは微笑んだ。ノラはとてもかわいらしく見えた。それにとても明るかった。もし知ったら、ノラはあたしをどう思うかしら? アイリーンが振り返ると四人目のダンスの相手が自分を探していた。平静を装わなければならないと感じたので、楽しそうに話し始めた。しかしその間もずっとアイリーンの耳ではクーパーウッドの「私のこと好きですよね?」というあの明確な問いかけと、その後の自分の不確かだが少なくとも正直な「ええ、もちろん好きよ」という答えが鳴り響いていた。



 

 

第十九章



情熱の成長はとても奇妙なものである。高度に頭の中が整理された知的な芸術家タイプの場合、それはしばしば特定の性質に対する鋭い評価から始まって、あまたの精神的な留保によって修正される。エゴイストや知的な人は、自分自身をほんの少ししか与えないが、たくさんのものを求める。しかし人生を愛する者は、男であれ女であれ、そのような性質に共感する自分自身を見つけながら、多くのものを得がちである。


クーパーウッドはもともと、何をさしおいても、エゴイストであり知的だった。かなり知的でありながら、人道的で民主的な精神の持ち主だった。私たちは、エゴイズムや知性主義を芸術だけに限定して考えてしまう。金融は一つの芸術である。そして、それは知的な人やエゴイストの最高の巧みな操作を見せてくれる。クーパーウッドは資本家だった。彼は自然の産物、その美しさや繊細さにこだわりを持って物質的不利益を被る代わりに、自分の知的な操作の迅速さで幸福になる手段を見つけ、それによって年がら年中、物質的金銭的な計算に邪魔されることなく、知的に感情的に人生の美しさを堪能することができた。そして、女性と道徳に関する限り、これこそ美と幸福と生き方の特異性や多様性に大きく関係することだが、少なくとも、一生かけて一人を愛するという考え方には、まとまった社会を今の形のまま維持していくこと以外に何も根拠がない、と彼は内心疑い始めていた。一人の女性と結婚して死ぬまでその女性と添い遂げることは良いことであり必要である、というこの一つの点にこれほど大勢の人たちが賛同したのはどういうわけだろう? クーパーウッドにはわからなかった。当時、海外で騒がれていた進化論の微妙な問題について悩んだり、この問題に関連する歴史の気になる箇所を探し出すのは彼の役目ではない。そんな暇はなかった。彼が直に接したさまざまな気質や状況が、この考え方に大きな不満が存在していることを証明していたので、それで十分だった。人は死ぬまで互いに固い絆で結ばれているわけではなかった。そうなっているたくさんの例でも、人は望んでそうしているわけではなかった。思考の速さ、発想の冴え、機会の恩恵で、結婚や社交の不運を是正できる者もいれば、機転が効かない、理解力が鈍い、貧困、魅力がないせいで、失意のどん底から抜け出せない者もいた。彼らは、生まれながらの不幸な偶然もしくは力や才覚がないために、自業自得で苦しむか、あるいは、他の状況下であれば輝かしい可能性を持っていたこの世の煩わしさを――縄やナイフや弾丸や毒入りのカップでも使って――なくすか、を強いられた。


ある日、病気と貧乏とで行動が制限され、老いておそらくはよぼよぼの家政婦に付き添われて、奥の病室で十二年間もひとり暮らしをしたという男性の話を読みながら、「自分も死のうとするだろうな」とクーパーウッドは密かに考えた。心臓に刺された一本のかがり針が、この男のこの世の苦悩を終わらせた。「こんな人生はご免だ! どうして十二年だったんだろう? 二、三年で終わりにしてもよかったんじゃないか?」


ここでもまた、いろいろな意味で、力が答えであることが明らかだった――偉大な精神的・肉体的な力である。商業と金を掌握する巨人たちは、この世で好きなように振る舞うことができ、実行していた。彼は複数の方面で個々の事例のその証拠を十分につかんでいた。さらにひどいのは――いわゆる法と道徳のけちな守護者たち、新聞、説教師、警察、低い地位の悪の弾劾にはとても大きな声を出す公衆道徳にいろいろと厳しい人たちは、高い地位の汚職になると臆病者だった。巨人が偶然倒れて、自分の身に危険が及ぶことなくそれができるようになるまで、彼らはあえて自分から非力な金切り声を発しようとはしなかった。そのときになって、ああ、大騒ぎをする! 太鼓をドンドコ打ち鳴らす! 何と偽善的な道徳を並べ立てるのだ――それも決まり文句を! さあ、行け、善人ども、悪が高い地位でどのように扱われるかをはっきりとその目で見るがいい! これは笑わせてくれる。大した偽善だ! 大した綺麗事だ! それでも、世界はそうやって構成されている。それにそれを正すのは彼の仕事ではない。なるようにさせておけばいい。彼がやるべきことは、金持ちになって、地位を守り、本物として通用するもっともらしい美徳と威厳を築き上げることだ。力があればそれができる。機転が利けば。そして、彼にはそれがあった。「自分を満足させる」はクーパーウッドのモットーだった。それに、知的で社会的に高い身分を要求するために、彼ならこれくらいのものを考案して、すべての紋章に派手に描いてもおかしくなかった。


しかしこのアイリーンの問題は、今この瞬間に検討と解決が求められた。彼は力強くて毅然とした性格だったので、これがもたらす問題にまったく動揺しなかった。これは毎日発生する厄介な金融の問題と同じで、解決不可能ではなかった。自分は何をしたいのだろう? 妻を残してアイリーンと駆け落ちすることはできない。これは確かだ。しがらみが多過ぎる。社会との付き合いも多かった。子供と両親のことを考えれば、金融関係と同じくらい感情的なものががんじがらめにした。そのうえ、本当にそうしたいという確信がまったくなかった。成長をつづけている権益を手放すつもりはなかったし、同時にすぐにアイリーンをあきらめるつもりはなかった。彼女側からの予告なしの関心の表明は、魅力的すぎた。クーパーウッド夫人はもはや肉体的にも精神的にも本来あるべき姿ではなかった。これだけで彼には、この少女に対する現在の自分の関心を正当化するのに十分だった。自分を傷つけずに、これをやり遂げる方法さえ見つけ出せるのなら、どうして何かを恐れる必要があるのだろう? 同時に、自分にとってもアイリーンにとっても実用的もしくは安全な段取りを思いつくことは絶対に無理かもしれないと思い、彼は黙って考え込んだ。すでにクーパーウッドは、自分でも感じることができたように、アイリーンに強烈に惹かれていた――化学的で、それだからこそ強力な何かが今彼の中で頂点に達し、表に出たくて騒いでいた。


同時に、このすべてのことに絡めて妻のことを考えているうちに、多くの不安が芽生えた。感情的なものもあれば経済的なものもあった。夫の死後リリアンは自分に好意を寄せる若者の情熱に屈したが、そのとき初めてクーパーウッドは、リリアンが生まれながらの公衆道徳の信奉者である――世間的な見方をすれば、雪の吹き溜まりの冷たい純粋さが時々浮気する女の後ろめたい気分を兼ね備える――ことを学んだ。クーパーウッドも学んだように、リリアンは時々自分を押し流して支配する情熱を恥ずかしがった。これは常に強く、貪欲で、直観的な気質を苛立たせるが、クーパーウッドのことも苛立たせた。一方で彼は自分の気持ちを全世界に知らせたいとは思わなかった。どうして両者の間で隠すということが必須なのだろう。あるいは、少なくとも彼女が肉体的に同意している事柄を、精神的にごまかさねばならないのだろう? どうしてやることと考えることが違うのだろう? 確かに、リリアンは静かなやり方で、情熱的にではなく知的に彼を愛していた。(振り返ってみると、彼女がこれまで情熱的だったとは言えなかった)。リリアンの理解では、これには義務が大きな役割を果たしていた。リリアンは従順だった。そして、人がどう思うか、その時代の精神が何を求めているか――これが大事なことだった。反対に、アイリーンはおそらく従順ではなかった。当時幅を利かせていた慣習に気質的に通じるものがないのは明らかった。他の多くの女の子と同じように、彼女がきちんと指導を受けてきたことは間違いないが、アイリーンを見るといい。彼女は指導に従っていなかった。


それから三か月のうちに、この関係は一層目に余るものになった。アイリーンは、両親がどう考えるかも、自分の考えていることが今の世の中ではどれほど口はばかることかも、よくわかっていたが、それでもなお、思いはつづき、憧れ続けた。たとえ行動は伴わなくても、彼女がそこまで踏み出し、評判に傷をつける覚悟で臨む今、クーパーウッドは彼女に独特の魅力を持つようになった。といっても彼の体のことではない――はっきり言って、偉大な情熱とは決してそういうものではない。彼の精神の持ち味は、蛾にとっての炎の輝きのような、引きつけるものであり、行動を強いるものだった。彼の目にはロマンスの光が宿っていた。しかし、どれほど抑制的で支配的であったにせよ――これは命令も同然であり、アイリーンに対してほぼ全能だった。


別れ際に彼が彼女の手に触れるとき、アイリーンはまるで電気ショックを受けた気がした。彼の目を直視するのがとても難しかったことを思い出した。そこから破壊力に似たものが出て来るように時々思えたからだ。他の人たち、特に男性は、クーパーウッドのガラスのような目を直視するのは難しいことに気づいた。まるで目の奥に別の目があって、薄ぼんやりしたカーテン越しに見ているかのようだったからだ。相手は、彼が何を考えているのかわからなかった。


そして、次の数か月のうちに、アイリーンは自分がどんどんクーパーウッドに近づいていくのがわかった。ある晩、彼の家でピアノの椅子に座っていたとき、他に誰もいない一瞬を見計らって、クーパーウッドは体を乗り出して、アイリーンにキスをした。窓のカーテンの隙間から、冷たい雪の積もった通りが見えた。外ではガス灯がチラチラしていた。早めに帰ってきてアイリーンの声を聞きつけると、ピアノの椅子に座っている彼女のところに行った。アイリーンは生地の粗いグレーのウールのドレスを着ていた。青と焦げ茶色で(ふち)に東洋風の刺繍が施された、飾り立てた帯をしめていた。彼女の美しさは、ドレスに合うように計算された、薄暗いオレンジと青の羽飾りのついたグレーの帽子でさらに引き立てられた。指には四つも五つも多すぎるほど指輪があった――オパール、エメラルド、ルビー、ダイヤモンド――演奏する間もキラキラ輝いていた。


アイリーンは振り向かなくても、それが彼だとわかった。クーパーウッドがそばに来ると、彼女は微笑みながら顔を上げた。シューベルトに 引き起こされた空想は一部が消えたか、別の気分の中に溶け込んでいった。突然、クーパーウッドは体をかがめて、唇をアイリーンの唇にしっかり押しあてた。口髭が絹のような感触で彼女をゾクゾクさせた。アイリーンは演奏をやめて呼吸を整えようとした。彼女に力があっても、これは呼吸に影響した。心臓がトリップハンマーのように鼓動していた。「ああ」とも「いけないわ」とも言わなかったが、立ち上がって窓際に行き、カーテンを持ち上げて外を見るふりをした。気を失うかもしれないと感じるほど、ものすごく幸せだった。


クーパーウッドはすぐにその後を追いかけ、彼女のウエストに滑るように腕をまわし、紅潮した頬、澄んで潤んだ目、真っ赤な口を見た。


「私のこと愛している?」ささやきは欲望のせいで厳しい強引なものになった。


「ええ! もちろん! わかってるでしょ」


クーパーウッドが彼女の顔を自分の顔に押しつけると、アイリーンは両手を上げて彼の髪をなでた。


所有、支配、幸福、理解などのゾクゾクする感覚と、彼女と彼女の体への愛が、突然彼を圧倒した。


「愛してる」彼はまるで自分がそう言ったのを聞いて驚いたかのように言った。「自分ではそう思ってなかったけどそうなんだ。きみは美しい。私はきみに夢中なんだ」


「あたしだって愛してるわ」アイリーンは答えた。「どうしようもないのよ。いけないってわかってるんだけど、でも――ああ――」アイリーンの両手はクーパーウッドの耳とこめかみをしっかりとふさいだ。唇を重ねて、夢を見るように彼の目を見つめた。そして、彼女は通りを眺めながらすばやく後ずさりした。クーパーウッドはリビングに戻っていった。二人は完全に二人きりだった。これ以上危険を冒すべきかどうかを迷っているところへ、隣の部屋のアンナに会いに来ていたノラが現れ、それから間もなくクーパーウッド夫人が現れた。やがてアイリーンとノラは帰った。


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