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資本家  作者: ドライサーの小説の翻訳作品です
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第1章


 フランク・アルガーノン・クーパーウッドが生まれたフィラデルフィアは、人口二十五万を超える都市だった。そこには、きれいな公園や有名な建物があり、歴史を偲ばせるものがあふれていた。電報、電話、運送会社、遠洋汽船、手紙の市内配達など、後に我々や彼が知ることになる多くのものは、当時は存在しなかった。郵便切手も書留の手紙もなかった。路面鉄道は登場していなかったが、その代わりに、乗合馬車がたくさん走っていた。もっと長距離の、ゆっくりと発達を遂げている鉄道網は、まだほどんどが運河で結ばれていた。

 

 フランクが生まれたとき、クーパーウッドの父親は銀行員だった。しかし十年後、その少年がとても思慮深い活発な目をすでに世界に向け始めていた頃、ヘンリー・ワージントン・クーパーウッド氏は、銀行頭取の死去とそれに伴う他の役員たちの昇進で、出世した出納係が空けてくれた地位を引き継いだ。彼にとっては年俸三千五百ドルという破格の給料だった。嬉しそうに妻に打ち明けると、すぐにボタンウッド・ストリート二一番地から、ニューマーケット・ストリート一二四番地に引っ越しを決めた。そこには現在の二階建ての家とは対照的な三階建ての立派なレンガ造りの家があり、周囲の環境もぐんとよくなった。いつかもっといいところに住む日が来るかもしれないが、今はこれで十分だった。感謝の気持ちでいっぱいだった。

 

 ヘンリー・ワージントン・クーパーウッドは、自分が見たものしか信じない男で、今の自分――つまりは銀行家、もしくは将来の銀行家――に満足している男だった。このとき、彼は重要な人物だった――背が高く、痩せた、尋問人のような、いかにも事務員といった感じで――立派なきれいに短く刈り揃えた頬髯が耳たぶのあたりまで伸びていた。上唇は滑らかで、奇妙なくらい長く、鼻は長くまっすぐで、顎は尖り気味だった。眉毛はふさふさで、ぼんやりした灰緑色の目を引き立て、髪は短く、滑らかで、きれいに分けてあった。いつもフロックコート――当時の金融界で流行っていたもの――を着て、シルクハットをかぶっていた。手と爪はいつも清潔だった。彼の態度は厳格と言われたかもしれないが、実際のところ、禁欲的というよりは洗練されていた。

 

 出世して社会的地位と財産を築きたかったので、話す相手や話し仲間には非常に気を遣った。表明したい御大層な政治的意見を持ち合わせてはいなかったが、自分が悪人と見られるのと同じくらい、過激だとか人気のない政治的社会的発言をしてしまうことを恐れた。廃止と存続とに意見が割れて不穏な空気だったが、奴隷制には賛成でも反対でもなかった。資本金と、あの奇妙なもの、魅力的な人柄――他人の信頼を勝ち取る能力――さえあったら、鉄道から巨万の富が築けると彼は心から信じていた。当時の大きな問題の一つだったが、アンドリュー・ジャクソンがニコラス・ビドルと合衆国銀行に反対するのは間違っていると確信していた。そして、回り回って彼の銀行にも絶えずやって来て――当然、割引されて、利益を得て――待ちわびる借り手に再び渡されて出ていく山猫通貨の乱入にはやきもきしていた。彼の銀行はフィラデルフィア第三ナショナル銀行で、フィラデルフィアのど真ん中、当時の実質的な全米金融界の中心地――三番街――にあり、銀行のオーナーたちは副業に仲介業をしていた。当時、大小さまざまな州立銀行は、不安定な未知の資産をもとに事実上規制を受けずに銀行券を発行し、驚くほどの速さで破綻や営業停止に陥るという病気にかかっていた。現状をすべて把握することが、クーパーウッド氏の地位に要求されることだった。その結果、彼は警戒心の塊になってしまった。残念なことに、彼は、どんな分野でも大成功に必要な二つのもの――魅力と先見の明――が大きく欠けていた。ほどほどに成功する者にはなりえたが、すごい資本家になる運命ではなかった。

 

 クーパーウッド夫人は信心深い気質の、明るい茶色い髪と澄んだ茶色い目をした小柄な女性だった。昔はとても魅力的だったのに、やけにとりすました無味乾燥な人になってしまい、母親らしく三人の息子と一人の娘の世話をとても真剣にやくようになった。長男のフランクを頭とする兄弟は、夫人にとってかなりの悩みの種だった。いつも街のあちこちに遠征しては、おそらく悪ガキとつるみ、見たり聞いたりすべきでないことを見聞きしていた。

 

 齢十歳にしてフランク・クーパーウッドは天性のリーダーだった。デイ・スクールでもその後のセントラル・ハイ・スクールでも、どんな場合でも間違いなく信頼できる常識人だと思われた。勇敢で反抗的な、たくましい少年だった。人生が始まったばかりの頃から、経済や政治について知りたがり、書物には無関心だった。清潔で、ひょろっとした、かっこいい少年で、晴れやかな、輪郭のはっきりした、利発な顔をしていた。目は大きく澄んだ灰色で、額は広く、 髪は短く剛毛でこげ茶色だった。利発で、すばしっこく、自立心が旺盛で、知的な答えをひたすら求めていつまででも質問していた。痛みや苦しみとは無縁で、食事はおいしそうにとり、鉄の棒で弟たちを支配した。「来いよ、ジョー!」「急げ、エド!」こうした命令は荒っぽくはないが常に自信満々で発せられ、ジョーとエドがやって来た。弟たちは最初からフランクを主人と仰ぎ、兄の言うことに熱心に耳を傾けた。

 

 フランクはずっと考え込んできた――他の事実と同じように自分を驚かせてきたある事実――自分が入り込んだもの――この人生――が、どのように構成されているのか、彼にはわからなかった。すべての人々は、どうやってこの世界にやってきたのだろう? 人々はここで何をしているのだろう? いったい誰が始めたのだろう? 母親はアダムとイブの話をしてくれたが、彼は信じなかった。自宅からそう遠くないところに魚市場があった。銀行にいる父親に会いに行く途中や、放課後弟たちを遠征に連れ出すときに、店の前にあるある水槽を見るのが好きだった。そこにはデラウェア湾の漁師に持ち込まれた海の生き物の変わり種が飼われていた。そこで一度タツノオトシゴ――どこか馬に似た奇妙な小さな海生動物――を見た。また別の機会には、ベンジャミン・フランクリンの発見が説明していた電気ウナギを見た。ある日、水槽に入れられたイカとロブスターを見て、この両者に関係する悲劇を目撃した。この悲劇は生涯彼の心に残り、かなり理路整然と物事を解き明かしてくれた。暇な見物人の話によれば、どうせイカが餌食になるのだから、ロブスターには全然餌が与えられなかった。ロブスターは透明なガラスの水槽の底の、黄色い砂の上にいて、何も見ていないように見えた――ビーズのような黒い目が見ている方角はわからなかったが――明らかにイカの体から離れることはなかった。このイカは、まるで豚の脂身か翡翠によく似た白い(ろう)のような質感で、魚雷のように動き回った。しかしその動きは敵の目から決して逃れられないらしくて、追っ手の執拗なハサミに削り取られて体の一部が少しずつなくなり始めた。ロブスターはイカがぼんやり夢を見ていると見るやそこへ(いしゆみ)のように跳ぶが、警戒していたイカは逃げ出すと同時に墨を雲のように出して、相手の背後へと行方をくらました。しかし毎回無事に逃げおおせるわけではなかった。胴体か尾っぽの小さな部分が、底にいる怪物のハサミに残されることがよくあった。このドラマに魅せられて、クーパーウッド少年は毎日見物しに来た。

 

 ある朝などは、鼻をガラスに押し付けんばかりにして水槽の前に立っていた。イカは部分的に残っているだけで、墨袋は今まで以上に空っぽだった。明らかに攻撃態勢とってロブスターは水槽の片隅に陣取っていた。

 

 少年は死闘に魅せられながら、できる限り長くその場に留まった。この分ではおそらく一時間か一日もすればイカは死ぬかもしれない。ロブスターに殺されるかもしれない。ロブスターはイカを食べてしまうだろう。クーパーウッドは隅に潜む緑がかった銅色の始末屋をもう一度見て思った。いつになるのだろう。今夜かもしれないな。今夜また来よう。

 

 その夜、フランクは戻ってきた。ほおら! 予想通りのことが起きていた。水槽のまわりに小さな人だかりがあった。ロブスターは片隅にいた。彼の目の前でイカが真っ二つにされて、その一部が食べられた。

 

「ついにやったな」ある見物人が言った。「俺が一時間前にここに立っていたら、飛びあがって、つかまえたよ。イカはへとへとで、速く動けなかった。後ろへ下がったんだが、ロブスターはその動きを読んでたな。もうずっと前から相手の動きを把握してて今日仕留めたってわけだ」

 

 フランクはただ見ているしかなかった。これを見逃したとは失態もいいところだ。殺されたイカを見ているうちに、ほんのちょっぴりイカが気の毒になった。それから勝者を見詰めた。

 

「こうなるしかなかったんだろうな」彼は自分に言い聞かせた。「あのイカがすばしっこくなかったからだ」とこれを理解した。

 

「あのイカじゃあのロブスターを殺せっこなかったんだ――なにしろ武器がなかったからな。ロブスターはイカを殺せた――ちゃんと武器があったからだ。イカには餌が何もなかったが、ロブスターには餌になるイカがいた。結果はどうだった? 他にどんな結末がありえたんだ? イカに勝ち目はなかったんだ」早足で家路を急ぐ間に、とうとう結論を出した。

 

 この出来事は彼に強烈な印象を与えた。このことは、これまで彼を散々悩ませてきたあの謎「この世がどう構成されているのか?」に、大雑把な答えを出した。生き物は互いに食い合って生きている――ということだった。ロブスターはイカなどを食べて生きている。では、ロブスターを食べるのは何だろう? もちろん、人間だ! 確かに、そのとおりだ! では、人間を食べるものは何だろう? フランクは自分に問いかけた。他の人間か? 野生の動物だって人間を食べる。インディアンや人食い人種だっている。嵐や事故でやられてしまう人だっている。人間を食いものにする人間がピンと来なかった。 しかし人は殺し合いをする。戦争、路上の喧嘩、暴動などはどうだろう? 暴動なら一度見たことがあった。学校から帰る途中、暴徒がパブリック・レジャーのビルを襲撃したのだ。父親がその理由を説明してくれた。奴隷問題だった。そうだ! 確かに人間は人間を食いものにしている。奴隷を見てみろ。あれだって人間だ。最近の騒ぎはみんなそれが原因だった。他の人間――黒人――を殺す人間がいる。

 

 フランクは自分の解答にすっかり満足して家路についた。

 

「母さん!」家に入ると叫んだ「とうとう仕留めたんだよ!」

 

「仕留めたって誰がよ? 何が何をしたんだい?」母親は驚いて尋ねた。「手を洗っておいで」

 

「前に母さんと父さんに話したロブスターがイカを仕留めたのさ」

 

「おや、大変だこと、それのどこが面白いのさ? さっさと手を洗ってらっしゃい」

 

「だって、そういうのはめったに見られないんだよ。見たことないもん」フランクは裏庭に出て行った。そこには蛇口と物が置ける小さな台のついた柱があり その上にピカピカのブリキの鍋と水の入ったバケツが置いてあった。そこで、フランクは顔と両手を洗った。

 

「ねえ、お父さん」後で父親にも言った。「あのイカなんだけどさ?」

 

「ああ」

 

「死んじゃったんだ。ロブスターが仕留めたんだよ」

 

 父親は読みものをつづけた。「そりゃ残念だな」気のない返事だった。

 

 しかし、フランクは何日も何週間も、このことや自分が放り込まれた人生について考えた。彼はすでに、自分はこの世界で何になるべきだろうか、どうやって渡っていくべきだろうか、と熟慮を重ねていた。父親がお金を数えるのを見て、自分には銀行業が向いていると確信した。そして三番街、父親の会社があるところが、彼には世界で一番きれいで魅力的な通りであるように思えた。

 

 


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