3 乙女の秘密
校舎の裏手に回ると、人の気配がなくて、しんと静まり返っている。人気のある中庭のテラスではなく、私はあえて裏庭の奥に歩みを進めていた。リーファシュラード王国首都の、ナミエンテル学園に留学してまだひと月。王女である私は、エヴァンディエラ国内の貴族学園に通い卒業することを推奨されたけれど、周囲の反対を押し切って、あえてナミエンテル学園に編入することにした。表向きは、魔法大国であるリーファシュラード王国で学び、エヴァンディエラに魔法を還元するためであるけれど、それがあくまで表向きの言い訳であるのは皆が知ることだ。
王女として生まれた私は、なるべく我儘を言わないように努めていた。私の我儘は、命令になるからだ。王族こそ我儘は辞さねばならないと、幼少期から言われて育った。だから、今回の留学させてほしいという我儘は、私にとって初めての我儘なのだ。酷く周囲を戸惑わせたのも解っているけれど、引きさがることは出来なかった。
だって、リーファシュラード王国に行かなければ、エーベルハルト殿下には会えないのだから。
王女の私の周りには常に人がいることが当然ではあるけれど、留学中は側近中の側近であるマルセルしか連れてこなかったこともあって、いつもよりは自由だった。だけど、それでも人のいない空気を吸いたくて、こっそり裏庭に抜け出したのだ。
裏庭には小さな丸テーブルと椅子が二脚だけ置いてある。裏庭といっても学園内であるから、綺麗に草木は刈られ、整えられていた。ティーテーブルの真横にそびえ立つ大きな木は、手のひら程の濃いピンク色の花々をつけている。樹齢何百年も経ちそうなこの木の幹は、ところどころ裂けたような跡があり、裂け目から薄っすらと赤紫色の光が漏れ出ていた。魔力を灯した証を持つ、魔木で、名前をメラワという。私の国の木でもあり、魔法大国リーファシュラードには自生しない珍しい木だ。あまり魔法が普及していないエヴァンディエラでは、メラワは大きな庭園には植えられている程度の知名度の木でもある。逆に他の強力な魔木がよく自生するリーファシュラードではメラワはとても珍しく、実際この目の前にあるメラワも、何代も昔、エヴァンディエラから贈られたものらしかった。
メラワの花を見上げていると、背後でさくさくと芝生を踏みしめる音がした。ここに来る人を、自分以外に私は一人しか知らない。喜びを噛み締めて、でもなんともないふりをして、私は振り返る。やってきた彼の髪は、午後の日差しを受けてきらきらと光る。まるで光を振りまいているように、美しい。
「クラウディア王女殿下」
低くて優しい声は、私の耳をくすぐる。この人に呼ばれると、自分の名前が好きになる。はい、と返事をした私の声は、緊張のためか少し上ずる。
「エーベルハルト殿下」
「王女殿下もひなたぼっこですか?」
「ええ、良い天気だったから、誘われてしまいましたの。殿下も?」
「部屋の中でじっとしているには、勿体ない気候ですからね」
そう言いながら、エーベルハルト殿下は、椅子のひとつにハンカチを広げる。そして私に向かって、どうぞ、と席を勧めた。紳士的な人だなと思いながら、私は好意に甘えて、ハンカチのある椅子の方に腰かけた。
春の温かい風が、花の甘い香りを纏わせて頬を撫でる。もう一つの席に座ったエーベルハルト殿下では、目を細めて微笑んでいる。この人の傍にいると、胸の鼓動がうるさい。表情が取り繕えているのか、不安になる。王女らしい王女といわれて育った私の自信を、容易に取り払ってしまう。
「学園には慣れましたか?」
エーベルハルト殿下は、私の不安など知る由もなく、いつものように穏やかな声音で問いかける。だから私も必死で何でもない顔をして、ええ、と頷く。いつものような笑みを浮かべてみる。
「皆さまによくしていただいておりますわ。先生方にも気を配っていただいておりますし」
「それはようございました。王女殿下はとても優秀でいらっしゃると、伝え聞いております。魔法の習得もお早いだろうと、先生に伺いました」
「まぁ、ありがとう存じます」
まさか、エーベルハルト殿下が、私の進度を把握しているとは思わず、目を瞬いた。嬉しい気持ちが胸の底から浮かんでくる。きっと、側近のマルセルなんかにしてみれば、「同盟国の王女が編入してきたのだから、当然でしょう」とかなんとか言うのだろうけれど。幼馴染ということもあって、厳しいことも言うマルセルは、実のところ留学には反対していたくらいだったから、エーベルハルト殿下に対する評も少々厳しめだ。
遠くの方で楽器の音が聞こえる。茶会室で誰かが茶会をしていて、楽師に音楽を奏でさせているのだろう。さわさわと木々が揺れ、風に乗ってメラワの花弁が雪のように舞った。あまりの美しさに花を見上げていると、私の視線を追って、エーベルハルト殿下も同じように花を見つめた。
「メラワはとても美しいですね」
溜息と共にエーベルハルト殿下は、目を細めた。
「リーファシュラードにはほとんど植えられていないのが、残念でなりません。エヴァンディエラにはよく植えられているのでしょう?」
「ええ、注意が必要な花ですから、あちらこちらに、というわけにはいきませんが、管理がされた庭園などでは定番の木ですわ」
王都の庭園など、管理者がいるような場所にはよく植えられる、定番の魔木だ。管理が必要なのは、魔木だということもあるけれど、木自体の性質のこともある。
「管理が必要なのですか?」
有名な魔木でもないためか、エーベルハルト殿下も御存知なかったようだ。驚いたように目を見開いた。
メラワがそう広がっていない理由としては、その管理の大変さにある。私はそう切り出しながら苦笑した。
「このように美しいですが、花見の茶会などは容易にはできないのです。花弁には毒があり、誤って口に含んでしまえば、大変なことになるのです」
「そうなのか、知らなかった。美しい薔薇には棘があるようなものなのですね」
「そうですね。でも、その代わり、実には魔力過多を治療する効果があり、それを煎じた特効薬があるのですよ」
薬学に通じる研究者気質のエバンディエラでは、魔木に限らず、様々な薬の研究開発が盛んで、王家の人間にとっては薬学は必須科目でもある。私も将来国王を支える傍系王族としての立場で、薬学を発展させる義務があったから、幼少の頃から嗜んでいた。
そうした王家の世間話を話しながら、気が付いた。先ほどまで穏やかな笑みを浮かべて相槌を打っていたエーベルハルト殿下は、まるで想像もしていないことを聞かされたかのように、大きく目を見開いて硬直していた。
もしや常識外れの突拍子もないことでも言ってしまっただろうか、と血の気が引く。王位継承に関わらない立場の王女として育てられた私は、そうでなくても少々世間知らずなところがある。
「あの、殿下、どうかいたしまして?」
恐る恐る尋ねると、エーベルハルト殿下は、ハッと我に返った。そして、慌てて取り繕うように微笑む。
「ああ、いえ。我が国と違う王族教育の方針に驚いてしまっただけです。申し訳ない。実に薬学大国らしいですね」
「いいえ、お気になさらないで。やはり、エヴァンディエラは特殊なのでしょうか。私、お恥ずかしながら自国以外の文化にあまり見識がなく、驚かせてしまいましたのね」
「面白く聞き入りました。王族が薬学を学ぶ必要があるのですね。私は薬学に触れたことがなく、リーファシュラードでは、薬学は薬師が専門的に学ぶものですから」
「エヴァンディエラでは、王家こそ厳しく薬学の指導を受け、王族は個人の薬草園も所有しておりますの。そうした取り組みは、とても変わっているのでしょうね」
「個人の薬草園ですか」
「ええ、主に自分の得意な分野の薬学に通じる薬草を育てることが多いですが、私は薬草園にティールームも持っておりまして、目を楽しませる美しい花や、香りが良く落ち着く花なども育てておりますのよ」
私はそれから、自分の薬草園や、育てるのに苦労した薬草の話などをし、代わりにリーファシュラード王国の王族文化の話などを聞いた。エーベルハルト殿下は、とても話し上手で、恋心がなかったとしても、私はきっと話に夢中になっただろう。
だから私は、また話を聞かせて欲しいと、別れ際に言われたひとことに、胸を高鳴らせたのだ。エーベルハルト殿下の言葉に思惑があろうとは、微塵も感じていなかった。
◇
一度思い出してから、眠ると必ずと言っていいほど、前世のことを夢見るようになった。クラウディア王妃、まだクラウディア王女の頃の記憶だ。先日一気に見た時は思い出さなかった、補完のような他愛もない記憶だけど、お陰で最近の私は、起きると自分が一瞬誰なのか分からなくなっていた。前世の自分が実際に経験したせいか、妙にリアルな上、ひどく感情移入してしまうのだ。起きた時に泣いていることも多く、ばあやを仰天させることもあった。
伯爵令嬢として育った私と、クラウディアの考え方は少し違うところがあって、起きてよくよく考えてみると、温室育ちのクラウディアの思考回路に振り回されそうになってしまう。クラウディアと自分が別の人間だということを強く意識していなければ、壮絶な人生を歩んだクラウディアに引っ張られてしまうだろうことは、想像に難くなかった。そうでなくとも、アメリアとしての記憶の方が、二十年以上生きているクラウディアより短い。
放課後になると、私は夢の中で見たように、裏庭に足を進めた。入学して今まで、裏庭になんて行ったことはなかった。夢で見るまで存在すら知らなかったのだ。クラウディアの記憶通りであるなら、お茶をすることもできないのだから、人気があるわけも、知名度があるわけでもない上に、校舎から離れている庭に、好き好んで行く人も少ないだろう。広い敷地内にはいくつもお茶が出来る美しいガゼボもあるのだから、余計にそうだろう。
校舎の角を曲がって、真っ先に目を引いたのは、メラワの花だった。遠目で見ると、濃いピンク色の塊に見える。風に揺れてさわさわと音を立て、花びらを散らしていた。現世の私は薬学などに通じているわけもなく、これがメラワだというのは、クラウディアの記憶のお陰で知ったくらいだ。近づいて見上げてみると、確かに幹にいくつもの線が入り、魔力の光が漏れ出ている。魔木の証だった。
夢に見たばかりだからか、それとも自分の中のクラウディアが反応しているのか、心臓がどくどくと大きく音を立てる。目の前を濃いピンク色の花弁がふわりと舞い、甘い香りが鼻をくすぐった。
その時だった。さくさく、と芝生を踏みしめるような音がして、私は目を見開いた。一瞬で、クラウディアの記憶が甦る。まさかと思った私の背後で、間違いなく足音がする。
勇気を出し、一拍置いて振り返る。夕陽が眩しくて、一瞬だけ目が眩む。黒目黒髪の整った容姿の彼もまた、私の姿を認め驚いたように目を瞬かせた。
「ハムズガルド侯爵令息様…」
「マルシエ嬢か」
彼の低い声は、やはり動揺が滲んていた。彼もまた、この場に私がいるとは思わなかったのだろう。校舎本館から遠く、特別棟の奥の裏庭になんて、余程の物好きじゃないとやってこないのだろうから。同時に私は安堵した。夢の中のように、エーベルハルト殿下がやってきたような気持ちになっていた。
「マルシエ嬢、どうしてここに?」
夢の中のことを思い返してぼんやりしていた私とは違い、ハムズガルド侯爵令息は訝しげな顔をしている。彼は分厚い本と紙束を抱えている。それを見遣り、私も首を傾げた。
「私は裏庭があることを兄から聞き、ここに来てみたところでした。ハムズガルド侯爵令息様は?」
「私は殿下を待つ間、ここで写本をしようと思ったのだ」
「写本、ですか?」
裏庭で写本など、なぜ。そう思った後、そういえばこの方も、殿下ほどでないにしろ、とても人気があるのだと思い直した。教室だろうが、どこかのサロンであろうが、人目につくところでは、落ち着いて写本などできないのだろう。そう一定の理解をしてみたものの、まだ疑問は残る。
「殿下用の控室や、上位貴族専用サロン等でなくてよろしかったのでしょうか?」
殿下には個室が与えられている。側近であるハムズガルド侯爵令息は殿下を待つ間であれば使用できるであろう。また、その部屋が無理でも、上位貴族には専用サロンがあり、そちらなら衆目に晒されづらいはずだ。
ハムズガルド侯爵令息は僅かに眉を寄せた。まるで、思いもよらないことを訊かれたようだった。
「其方、なぜそのような部屋の存在を知っている?」
「それは…」
尋ねられて、ハッと我に返る。クラウディアの記憶が甦った私は、王族と側近がいくつもの手段を持っていることを知っている。でも、マルシエ伯爵令嬢としては知らないはずなのだ。王族控室の存在も、高位貴族専用サロンも、王族や高位貴族の側近であるならまだしも、貧乏伯爵家の娘が知るはずのない存在だ。
迂闊だったと思いながら、私は必死で考えを巡らせた。
「私の大叔父はかつて、当時の第三王子殿下に仕えておりましたので、その過程で知ったようでした。与太話として聞かされたことを口にしてしまいました。申し訳ございません」
咄嗟に、大叔父のことを持ち出した。マルシエ伯爵家自体は、取り立てて見るべきところない家系だが、成績優秀者だった大叔父は、我が家に珍しく王族の側近になった人だった。幼い頃、子どもに恵まれなかった彼に、私はとても可愛がってもらった。既に故人で、大叔父の妻も他界している。心の中で濡れ衣を着せてしまった大叔父に謝りながら、私は目の前のハムズガルド侯爵令息に頭を下げてみた。
「当時の第三王子というと…、ケイネス殿下か?故人ばかりだな。まぁ、いい。余所では迂闊に口にするな」
「はい、肝に銘じます。寛大な御配慮ありがとう存じます」
ハムズガルド侯爵令息があっさり引き下がってくれて、内心嘆息する。クラウディアとの記憶の境界が曖昧になりつつある。気を付けなければならないだろう。
少し離れたところから鶯の透き通った鳴き声がし、ふわっと春風が舞った。ハムズガルド侯爵令息はその黒い瞳を細め、少しだけ迷ったように視線を彷徨わせた。
「私がここで作業をするのは、殿下にあまり目立つところで写本をするなと、命じられているからだ」
そう言いながら彼は、ティーテーブルの上に紙束と本を置く。本は歴史書のようだった。革張りの表紙の見るからに高価で古い本だ。本だけでは、それが高級であることくらいしかわからなかったけれど、紙束が視界に入り、私は目を見張った。パッと目に入った部分に、『エーベルハルト』や『クラウディア』といった文言が並んでいたからだ。
視線を感じて顔を上げる。私は息を飲んだ。つい今しがた、迂闊なことを言われたばかりだったというのに。目の前の彼は、観察するように私をまじまじと見ていた。
「やはりか。マルシエ嬢、私が何をしているのか分かるな?」
「…エーベルハルト国王陛下の時代をお調べになられているのですか?」
窺うように彼を見遣ると、ハムズガルド侯爵令息は息を飲み、それから本に視線を落とす。俯いたその顔は、尋ねたのは彼の方であるというのに、虚を突かれたようにも見えた。
「エーベルハルト国王陛下の御世の歴史書は、そう多くないから、見る者が見ればすぐに分かるものだな」
「他の、戦があったり大改革があったような時代ではありませんものね」
「それできみは、何故この時代を調べているんだ?」
静かに問われて、私は彼を見つめ返した。彼の漆黒の瞳は、真っすぐ私を見据えている。吸い込まれるような瞳だった。目を逸らしたいのに逸らせなくて、私は代わりのようにそっと息を吐いた。
「乙女の秘密ですわ」
そう返すと、彼は少し眉を吊り上げ、それから左右に首を振った。
「そうか」
「何も訊かれませんのね」
「乙女の秘密なのだろう?」
「それは、そうですが」
まさか、冗談の一言で済ませてくれるなんて、と思った。ハムズガルド侯爵令息はとても真面目で律儀な人だと評判だ。問い詰められるかと思い、少し緊張した私に、彼は笑みを零した。
「私は、殿下を害しなければ、特段興味はない」
その言葉が真実であるというように、彼は椅子に腰かけた。長い指先で本の革の表紙を撫でると、それから立ったままの私を見上げる。
「きみの乙女の秘密とやらが、殿下の生死に関係しないのであれば、取引をしないか?」
「取引、でございますか」
「写本を手伝ってくれないか?」
「写本、ですか」
私は彼の手元を見る。紙束とペンと、いつの間にかどこから出したのかのインク壺。ハムズガルド侯爵令息は、とんとん、と机を叩く。
「きみはエーベルハルト国王陛下の時代の本が読みたい。私は写本を出来るだけ早く済ませたい。殿下は学園図書館にもない本を、王宮の図書室から持ち出すことも可能だ。取引にはもってこいだろう?」
「私に何か、利がございますの?」
「秘蔵の本が読める、で弱ければ、父君の取り立てや、学費の免除などもあるが」
ハッと私は彼を見遣る。提案された内容が、本の写本にあまりにも見合わないからだ。私の訝し気な顔を見たのだろう、彼は少し気まずそうに顔を顰める。やり過ぎたのは、彼自身も思ったのだろう。
「口止め料を含んでいる」
罰の悪そうな彼の顔を見て、私は何も気づかなかったことにした。そうするしかなかった。取引したい何かもないのであれば、危険は犯さないに越したことはない。
「王宮図書室への入館で手を打ちましょう」
「そうか」
よかった、と微笑んだ彼の顔が、思ったより幼くて可愛らしかったからだろう。私は苦笑して、写本について了承した。クラウディアのことを知りたいというのは、私の本心でもあった。




