4 蕾の芽生え
エーベルハルト王太子殿下との婚約が調ったと、その手紙には書かれていた。兄からの手紙だった。私のことを案じた文章の最後に、ついでのように書かれていたその一文を見て、私は心から歓喜した。
王女である私の婚姻に関しては、国外の王族に嫁ぐものとされていて、周辺国のどこになるのか私にも分からなかった。その時の時勢等を加味して決められるため、私が希望を出せるものでもなかった。幼い頃から私は、王女としての唯一の仕事として、政略結婚について言い含められていた。だから婚姻については、過度な期待などしないようにしていた。
でも、エーベルハルト殿下に出会ってからは、彼の王妃になりたいと切に願っていた。隣国の王太子殿下で、年齢も釣り合いの取れ、国益も見込まれる彼は、私の婚姻相手として最適といっても良かったけれど、自分のことではあるけれど、私自身に選択権がないから、エーベルハルト殿下が相手になるのかは本当に分からなかった。父王や兄王子の判断次第では、他の国の王子に嫁いだり、場合によっては国内の有力貴族に降嫁する、なんていう判断もあるくらいだったからだ。
私がエーベルハルト殿下をお慕いしている姿勢を、これでもかと見せつけたのは、他の選択肢を失くすためでもあった。王女として褒められた行動ではないけれど、なりふり構ってはいられなかった。私は、エーベルハルト殿下が良かったのだ。
お前には負けたよ、と、兄は一言添えていた。兄の苦笑が思い浮かぶようだ。
学園から帰宅後、寮の自室に戻っていた私は、そのままの足取りで校舎の方へ向かう。王女である私は、寮といっても、別館のような王族専用の別棟に住んでいる。学園とはほとんど敷地が同じだ。マルセルに頼み、馬車を出して貰った後、すぐに学園に向かった。馬車を降りると、マルセルを残し、メラワの木が植えられた裏庭を目指す。
さくさくと芝生を踏みしめ、メラワの木に近づいていく。濃いピンク色の大ぶりの花から、ふわりと甘い匂いがする。メラワの木の下に、金色の美しい髪をした人が立っている。太陽の寵愛を受けたような、細く艶やかな髪は、夕陽を反射して橙色に光る。一拍置いて振り返った彼の青い瞳は、真っすぐ私を見据えた。
「クラウディア王女殿下」
「エーベルハルト王太子殿下」
驚いた彼に対して、私は弾んだ声音で名を呼ぶ。この人の名前を呼ぶことすら愛しい。ああ、嬉しい。こんなに素敵な人と結婚できるなんて。私はなんて幸せなのだろう。
「こちらにいらっしゃったのですね」
私が弾んだ気持ちそのままに話しかけると、エーベルハルト殿下はふと、意外なことを言われたように目を見開いた。でも、もしかしたら気のせいだったのでは、というほどの早業で、彼はいつものように穏やかな笑みを浮かべた。
「あなたの方こそ、もうお帰りになられたと思っていましたよ」
「ええ、おっしゃる通り一度帰宅したのですけれど、朗報を聞き、居ても立っても居られなくなったのですのよ」
「朗報、ですか?」
「エーベルハルト殿下と私の婚約ですわ」
言葉と共に、笑みが零れた。エーベルハルト王太子殿下は微笑みを崩し、目を瞬かせた。
「私とあなたの、ですか」
「…あら?お聞き及びでございませんでしたの?」
驚いた様子のエーベルハルト殿下に、今度は私の方が眉を顰める。私とエーベルハルト殿下では、情報の伝達に時間差があるはずではあるけれど、それは私が国外にいるからなのだ。自国にいるエーベルハルト殿下の方が早めに情報を入手している可能性が高いから、彼の反応は私にとって意外だったのだ。
まだリーファシュラード王国では情報統制中なのかしら、と思いつつ彼を見上げると、いつの間にかエーベルハルト殿下は、先ほどまでの笑顔に戻っていた。
「ああ、いえ。私の方も先ほど知りました。クラウディア王女殿下が御存知で驚いたのですよ。エヴァンディエラは、良い早馬をお持ちなのですね」
そう言って微笑む彼は、あまりにもいつも通りだったから、私は納得した。情報の入手がほぼ同時に行われるとは思わなかったのだろう、と。
「リーファシュラード程ではありませんが、エヴァンディエラも多少は魔法を使いますのよ。情報伝達は国家運営の要ですからね」
「なるほど、そうだったのですね。…クラウディア王女殿下」
彼は、とても優しい声音で私の名を呼ぶ。惚けたように固まったままの私の目の前に彼は跪き、私の手を取った。
「あなたのことを守り、幸せにすると誓います。私と共に、国のために人生を捧げてください」
きらきらと夕日が彼を橙色に照らす。視界の端をメラワの大輪の花びらがふわりと舞い、甘い香りを漂わせた。私の視界には、彼しか映らなかった。彼の言葉が胸を打つ。私の心をざわつかせる。はい、と頷くことで精一杯だった。緊張のせいで、声が掠れた。それしか言えなかった。
そんな私の手の甲に唇を寄せ、彼はまるで私の手が神聖なものかのように、優しく丁寧に触れる。
「ありがとう、クラウディア王女殿下。大事にいたします」
そう言って落とすように笑ったエーベルハルト殿下は、いつもに増して綺麗な顔をしていた。夕日が差していて良かった。そうでなければきっと、私が真っ赤になってしまったことが、目の前のこの人に伝わってしまっただろう。
私は、エヴァンディエラの末の王女で、それは大事に育てられた。皆に愛されて大切に育てられてきた。だから知らなかったのだ。私の想いと彼の想いが違うことがあるなんて、疑ったことすらなかった。
◇
写本を手伝う過程で、クラウディアの当時の生活が垣間見えてきた。マルシエ伯爵家では調べることなど不可能な域まで、見えてきた。例えば、当時の侍女の日記のようなものは、きっと手に入らなかっただろう。ベルナール王太子殿下がどうしてここまでの記録を写本させているかわからないけれど、正直、私にとっては有難いの一言だった。
私が思い出すクラウディアの記憶と、第三者からの目線は違っていて面白いけれど、だいたいの流れは同じの様だった。それは、私の記憶が思い込み等ではなく、真実である証左のようでもあった。
間違いなく、クラウディアはエーベルハルトのことを愛していた。けれど、エーベルハルトは違ったようで、他の女性のことを構う様子を見せている。エーベルハルトには幼馴染の公爵令嬢がいて、どうやらこの人が本命とされていたようだ。
クラウディアの記憶では、まだその該当の公爵令嬢のことを、そんなには思い出せていない。でも、エーベルハルトがその人の傍にいることを、諦めに近い気持ちで見ていたのは知っている。この、写本元の日記を書いた侍女は、王妃付きの侍女だったらしく、エーベルハルトの訪れがないことを嘆くクラウディアを哀れに思い、慰めているような表現がある。
元クラウディアとしては、とても複雑な気持ちだった。唯一救われるのは、この侍女は王妃付きではあるけれど、クラウディア専属というより、クラウディアの公務をサポートするような立場だったらしく、私生活の方にはあまり深く携わっていないようだった。輿入れに際して、クラウディアは自国からも同性の侍女も連れていたらしく、内向きの細やかな仕事は、エヴァンディエラからきた侍女たちが支えていたようだった。
クラウディアは毎日そんなに忙しくなかった。最低限、王妃として前に出なければならない業務以外は、何も任されていなかったようだった。皇太子妃時代は元より、公爵令嬢が側妃として入内して以来、優秀な公爵令嬢が仕事をしていたようだ。
「アメリア嬢、休憩をしないか」
写本に没頭していると、不意に声を掛けられ、現実に戻される。ハッと顔を上げた先に、私を案ずる漆黒の瞳があった。
毎日、写本のために顔を合わせるうち、ハムズガルド侯爵令息との仲は縮まったようで、互いに名で呼び合うようになった。友人関係になったと言えるだろう。
「リュカ様、あと少しだけ書き写しても構いませんか?あと数文で区切り良いのです」
「ああ、構わない。準備をしているから、終わったら来るといい」
「ありがとう存じます」
許可を貰い、私は机に向かう。その間、ハムズガルド侯爵令息リュカは、少し離れた場所に広げられた敷物の方へ足を延ばすのだろう。私が忠告するまでもなく、リュカは当たり前のように別の場所に敷物を準備させていた。毎日のように私と写本を行い、従者に毎日のように休憩のために、敷物と軽食やお茶等のバスケットを準備させている。
私は残りの数文を書き写すと、ふうと息を吐いて空を見上げた。メラワの花が花びらを散らしながら咲き誇っている。甘い香りが鼻腔を抜ける。リュカはメラワの毒のことを知っているのか、最初から敷物を持参し、メラワから離れた場所にお茶と軽食の準備をさせていた。クラウディアの時代から随分経っているから、高位貴族の間でメラワのことは常識になっているのかも知れない。
ふかふかの毛皮の敷物の上に、背が低いローテーブルと、クッション等が置かれている。バスケットから取り出されたのだろう、チョコレートチップをまぶしたマフィンが皿の上に載っていた。あとはカップが二脚。ティーポットから仄かに湯気が出ている。私はティーポットを持ち上げると、中の紅茶を慎重に私とリュカのカップに注いだ。琥珀色の紅茶を見つめながら、リュカは表情を和らげる。笑うと少し幼い印象になる。
「ありがとう」
「いいえ、リュカ様。私の方こそありがとう存じます。これらの準備も、紅茶のことも」
「大したことではない」
ふ、と零すようにリュカは微笑んだ。紅茶は、リュカが火魔法と水魔法を使って淹れてくれているから、従者もなしに私たちだけで楽しめる。そんなに高度な魔法を使うことのできない私からすれば、とても羨ましい。
風が通るのと同時に、仄かなメラワの香りと、新緑の爽やかな匂いが駆け抜けていく。リュカは一口紅茶を飲んだ後、私の方を見つめた。
「侍女日記ももうすぐ佳境だろう。知りたいことは、分かったか?」
「はい、面白く拝見させていただいております。知ることのない世界を追体験できるのは、本の醍醐味でしょうね」
「そうか。あの日記には、あまりエーベルハルト国王陛下が出てこないから、不足だろうかと思っていたところだった」
「あまりエーベルハルト国王陛下は出てきませんが、クラウディア王妃陛下の御様子は窺えますから」
「クラウディア王妃陛下?きみは、彼女の方が興味あるのか?」
意外なものを見つけたように、リュカは私を見て目を見開く。私は何となく会話をしながら、しまったなと思った。私はクラウディア目当てだったので、あまり頓着しなかったが、リュカから見れば、エーベルハルトを調べていると思われていたのだろう。特に大きな功績もない、謎の多いクラウディアは、歴史的に人気があるかと言われれば、限りなく無いに等しいからだ。
私は薄く息を吸うと、そのままティーカップを持ち上げ、一口だけ唇を濡らした。
「エヴァンディエラにも少し興味がありまして、クラウディア王妃陛下の日常は面白く拝見させていただきました」
「エヴァンディエラに興味が?」
「当時は、歴史的緊張が起きる前で、今よりも近しい関係の国だったと聞いておりました。留学制度等があれば、検討してみたいと思っていたのです。…私は母を、魔力過多症で亡くしましたので、薬学大国であるエヴァンディエラには興味があるのです」
これは、本当だった。私の母は、幼い頃に魔力過多症で亡くなった。大気や土地、水などありとあらゆるところに魔力が満ちたリーファシュラードでは、魔力過多症はそこまで珍しい病ではない。基本的に魔力吸出しの対処療法しかなく、伝手やお金のある高位貴族であっても、魔力過多症で亡くなるケースは多い。
だから正直、クラウディアの記憶を思い出した今、魔力過多症の効果薬の作り方も分かって、もう少し早ければと思ってしまった。思ったはいいが、メラワの実が必要だから、やはり母が生きていた頃の、幼少期の私には無理だっただろう。メラワは学園以外に咲いているところを、クラウディアも知らない。ほぼ国交が無くなったエヴァンディエラを頼れないとしたら、作り方だけ知っていても材料を揃えられず、あまり意味のないものだ。
リュカは私の話を聞いて、眉を顰め、すまなかったと言った。一緒に過ごしていて感じるが、意外と人に気を遣う人だ。我が家の事情も知っているのかもしれない。私の方こそ暗い話を持ち出して申し訳なかった。そう思いながら、気になさらないでください、と言った。
そんな私に、彼は気遣うような視線を向ける。
「アメリア嬢、明後日は空いているか?」
「明後日、と言いますと、休息日ですね。空いていますが…」
「王宮図書館の入館許可が出た。急ではあるが、いかがか?」
先ほどまでの重い空気を打ち破るような提案に、私は自然と顔色を明るくした。ちょうど明日には侍女の日記の写本も終わるだろうから、頃合いも良かった。
「嬉しく思いますわ。是非、お伺いしたいです」
「良かった。では、三の鐘にお迎えに上がろう」
「迎え、でございますか?」
てっきり自分で向かうのだと思っていて眉を寄せた私に、リュカは少し呆れたように笑みを零した。
「登城とあまり変わらないから、侯爵家である我が家の馬車の方が都合が良い。私がいれば、あなたも不快な思いもせずに済むだろう」
そう言われ、私は気遣われているのだと、ようやく思い至った。私は勿論だが、我がマルシエ家自体も、王宮から見てそこまでの重要度の家とは思われていない。呼び止められて色々検査されることのないよう、ハムズガルド侯爵家のリュカが付き添ってくれるのだろう。
本当にこの人は、クールな見かけによらず、手が行き届く人だ。流石は殿下の側近といったところだろうか。私は目の前の人の優しさに、嬉しくなって微笑んだ。
「ありがとう存じます。楽しみにしております」
「ああ、私も楽しみにしている」
リュカもようやく綺麗に笑った。その美しい笑みを見た瞬間、ことりと、胸の中で何かが開いたような、そんな気がした。




