てんしょう
神通解読録 4/5
正しく世を去ったものは、泉へと還る。
この理を不服とするなら、縛る器を水に捧げよ。
水は隔たれた世を繋ぐ。
真の名を刻み込んだ器に、赤き糸を標とすれば。
底に沈む魂を引き上げられるだろう。
しかし、決して水鏡に器の面を映してはならぬ。
己が器を欲するもの、その数計り知れぬ。
パシャリ、パシャリという音と共に小さな光が暗い室内を照らす。
男が手にしたスマートフォンから、何度も光が迸る。
ここは学生のために用意された様々な書籍が並ぶ図書室、男は腰ほどのテーブルに一冊の本を押し広げ、息を乱し興奮した様子で手にしたスマートフォンのシャッターを切る。
「‥取り‥戻せるっ‥戻ってくるっ‥」
消え入りそうな男の声は、喜びに震えていた。
‥
外から聞こえる喧しい虫の声と黒板に打ち付けられるチョークの音が響く教室。
生徒達は皆静かに黒板に書き出される文字を追いノートへと書き写す。
そんな見慣れた光景を後ろの席から眺め、佐藤京子は頬杖をつく。
咽せかえるような暑さにペンを持つ気にもなれず、早く授業が終わらないものかと教壇に立つ先生の汗ばんだ背中を眺めている。
ふと気づくと、開け放たれた窓、蒸し暑い風しか流れてこないほんの僅かなカーテンの隙間から、小さな虫が飛んできた。
虫の描く軌跡に釣られて目で追いかけていると、飛び回っていた虫はちょうど京子の前の机、今は誰も座っていない空席に留まった。
京子の脳裏にその席に居たはずの人物の顔が頭をよぎる。
苦い物が込み上げてくるような気持ちを抑えるため席から顔を背けると、今度は向かいの席の女生徒が視界に入る。
彼女はノートを開くことすらせず、髪の毛でワイヤレスイヤホンを隠し、立たせた教科書の影でスマートフォンを凝視している、何かの動画でも観ているのだろうか?そんな事を考えながら、半ば呆れるような気持ちで見ていると‥
「どうした?佐藤?」
不意に名前を呼ばれ、京子の意識が現実に引き戻された。
気が抜けたように動かない京子の姿がよほど目立ってしまったのだろう。
板書を終え、こちらを向いていた先生が、じっと京子に視線を向けている。
咄嗟の事に動揺して、しどろもどろな言葉を溢していると、悪い事に先生が京子の席に近付いてくる。
まずい‥向かいの席、山崎春陽は何も聴こえていないのか、相も変わらずスマートフォンに夢中なようだ。
そんなハルヒの姿をちらちらと見てしまったのが余計に状況を悪化させてしまったようで、京子の視線の先、春陽のスマートフォンが先生に見つかってしまった。
‥
「てかさぁ!没収とかあり得なくない?!
横暴じゃん!泥棒だよ泥棒!」
授業が終わり昼休みを迎えた教室に一際大きな声が響く。
「てか何でバレたわけ?!マジキモいんだけど!最悪!」
数人のクラスメイトに嗜められながら悪態をつく女生徒、山崎春陽は良くも悪くもクラスの中心的な存在だ。
その発言力は強く周りを惹きつけるのだが、その裏で横柄な態度も目立つ。
去年までは京子自身も彼女を嫌ってはおらず、普通のクラスメイトとして付き合っていたのだが。
今ではその関係も変化し、京子の方から積極的に話しかけることはなくなった。
むしろ、あまり関わり合いになりたくない相手になっていた。
「てか、佐藤!後でノート写させてくんない?」
だが、そんな気持ちなど気にも留めず春陽は京子に話しかけてくる。
「あ‥ごめん、私もノート取ってないから‥」
「なんだぁ、使えね〜」
春陽の口癖だ。
使えない、その言葉が京子の感情を逆撫でる。かつて京子の前の席に座り、何度もこの言葉を浴びせられ、何度も謝っていた小さな背中が脳裏に蘇る。
‥ここに居たくない、相変わらずノートの無心をしている春陽を横目に教室を後にした。
‥
あてどなく廊下を彷徨っていると、眼前に広がる制服の群れを割って、ゴロゴロと異音が響いてくる。だんだんと近づいてくる異音の正体を確認し、京子の気分は更に落ち込んでしまう。京子にとっては春陽とは違う意味で顔を合わせづらい人物、用務員の笠井健三だった。
廊下のゴミを回収していたのだろう、幾つもの袋を積み上げた台車を押してこちらに向かってきている。
踵を返し、この場から立ち去ろうとしたのだが、逃げるより先に健三に見つかってしまった。
「あぁ、京子ちゃん、これからお昼かい?」
「あ‥いえ、お弁当を持って来てるので、もう食べました。」
「そうかい?最近は酷い暑さだからね、しっかり食べて、水分も忘れずにね。」
「はい‥あの‥笠井さんも‥」
「ああ、ありがとう、僕もコレを片付けたらお昼だ。」
柔和に笑っている健三の顔に、笠井笑美の姿が重なり、咄嗟に目を逸らす。
「‥あの‥大丈夫、‥ですか?」
目の前にいる笠井健三は、京子の記憶にある姿とはまるで別人のようだ。
昔と変わらない優しい口調と笑顔を浮かべているが、幾分か頬が痩け、言葉の端々に生気が感じられない。
吹けば消えてしまいそうな健三の姿に思わず言葉が出てしまう。
「うん?ああ、僕は大丈夫だよ。」
「そう‥ですか」
京子の真意を知ってか知らずか、ただ曖昧な返事だけが返って来た。
「‥私、もう行きますね?お昼休み、終わっちゃう」
「ああ、引き留めて悪かったね、午後の授業も頑張ってね。」
「‥はい、笠井さんも、お仕事頑張ってください。」
軽く会釈を返し、その場を離れようと踏み出した矢先、思い出したように健三に呼び止められた。
「そうだ、京子ちゃん、笑美に花を上げてくれたんだって?」
不意に投げかけられた言葉に心臓が跳ねる。
「妻から聞いたよ、京子ちゃんが手を合わせに来てくれたって。」
返す言葉を必死に模索しながら顔色を伺う、健三は相変わらずの笑顔を京子に向けている。
「ああいうの‥初めてで、迷惑だったなら‥ごめんなさい。」
「そんな事ないよ?きっとあの子も喜んでる。」
居た堪れない感情が京子の胸中を襲う、何か言葉を発するべきなのだろうが、どんな言葉をかけて良いかがわからない。
この場から逃げ出したい衝動に駆られるが、逃げ出すことも出来ない。
板挟みのような状態を打ち破ったのは、休み時間の終了を告げるチャイムだった。
‥
太陽が猛威を振るう季節と言えど、夕刻を過ぎればその鳴りを潜め、幾分か過ごしやすくなる。昼間の汗をシャワーで洗い流し、火照った身体を夜風とアイスで冷ます瞬間はいつもならば至福とも言えるものだっただろう。
だが今日に限ってはそうとはいかない、今日起こった山崎春陽との小さな諍いや、笠井健三の言葉がトゲのように胸に引っかかり、どうにも気分が落ち込んでしまう。
ふと思い立ち、ベッドに放られていたスマートフォンを手に取る、幾度かの操作の後、目的の写真が画面に表示された。
映し出されているのは、メッセージアプリの画面。クラスメイトが全員でメッセージを共有できる、いわゆるグループチャットだ、その盤面には、「ワラ美使えね〜」と書かれたメッセージが何人ものクラスメイトから発信されている。悪ノリという奴だろうか、山崎春陽が送ったメッセージに端を発し、面白がって便乗した者たちが一斉にこのメッセージを送りつけた。
笠井笑美の遺体が自室で発見されたのは、その後すぐのことだった。
あの時、笑美に言葉をかけていれば。
何かメッセージを送っていれば。
もう何度目かもわからない自問を繰り返していると、手の中のスマートフォンが新しいメッセージの着信を告げた。
画面に表示された発信者の名を見て、京子の目が丸くなる。
発信者は山崎春陽‥普段から関わらないようにしてはいたが、そもそもグループチャットではなく個人のチャットで春陽から連絡が来たのは、お互いのID を登録した時以来初めてのことだ。
恐る恐るチャットを開くと、ポンと言う軽快な音と共に短い文章が表示された。
「学校に来て」
‥
毎日のように通る道を自転車で走る。
慣れ親しんだいつもの景色だが、人の姿もまばらになり、沈みかけた夕陽と街灯に照らされた光景は、まるで知らない場所にいるような、得体の知れない不安感を掻き立てる。
そんなざわつきを振り払うように速度を上げて学校への道を急ぐ。
校門が見えてくる頃には辺りはすっかり真っ暗になっていた。
「山崎さん?いないの?」
校門前に自転車を停め、薄暗い校舎に向かって声を上げてみるが、返ってくる返事はない。
「‥私、からかわれてる?‥とかじゃないよね‥?」
春陽にメッセージを送ろうと、カバンに手をかけた時、自分の足元で何かが動いていることに気がついた。
懐中電灯か何かだろうか、ライトの光が京子の足元で踊っている。
光の発生源を探して辺りを見回すと、目の前の校舎の二階、普段であれば京子たちが授業を受けている教室の窓で小さな光が揺れている。
「入って来い‥ってこと?」
光の玉が何かを主張するように左右に揺れる。
ライトを持った腕を大きく振っているのだろう。
「‥校門、入れるのかな‥?」
防犯の都合上、普通ならば校門は厳重に閉じられている時間のはずだが、軽く力をかけると門扉はあっけなく動いた。
「教室に、行けばいいんだよね?」
異様な状況に心臓が高鳴る。
強張る足を引き摺りながら玄関にたどり着くと、突然視界が白くなり、目が眩んだ。
「やぁ、こんばんは、京子ちゃん」
目の前に現れたのは、手にした懐中電灯を京子に向けた、笠井健三だった。
予想だにしない人物が目の前に現れ、京子は言葉を失う。
「‥何‥で?山崎さん‥は?」
「あぁ、驚かせちゃったよね?ごめんよ。」
状況を飲み込めず、口をぱくぱくさせている京子に、健三はいつもと変わらない笑顔を向けている。
「教室に行こうか、京子ちゃんを待ってたんだよ。」
健三に促されるままに、2人で暗い廊下を歩く。先を行く健三は、ご機嫌な様子で一人鼻歌を歌っている。
相変わらず困惑したままの京子は、この現状の答えを求めて健三の背中に質問を投げかけた。
「笠井さん?私、山崎さんに呼ばれてここに来たんだけど‥それにさっき、私を待ってたって、あれはどういう事ですか?」
「あぁ、ごめんよ。京子ちゃんを呼んだのは僕なんだ、山崎春陽の電話を借りてね。」
健三はポケットからスマートフォンを二台取り出して、派手な装飾がされた方をひらひらと揺らす。
「ほら、僕は京子ちゃんの個人の連絡先を知らなかったから。
佐藤さんの家に掛けても良かったんだけど、ちょうど山崎春陽の電話に京子ちゃんの連絡先が入っていてね。」
健三が手にしている派手なスマートフォンには京子も見覚えがある。
それは確かに山崎春陽の物だ。
「借りたって‥どうやって?
山崎さんもここに来てるんですか?」
山崎春陽のスマートフォンをポケットにしまい、残されたもう片方を操作しながら健三は話を続ける。
「昼間に電話を没収されていただろう?職員室でそのことを聞いたんだよ。
だからちょっと貸してもらってね?
あぁそれと、山崎春陽もここにいるよ、電話を返す代わりに協力してもらってね。
今は教室で待っててもらってる。」
健三の言葉は京子をますます混乱させる。
この場所で、今何が行われているのかまるで理解できない。
目の前の変わらぬ笑顔の男に恐怖さえ感じていた。
「それでね、京子ちゃんにこれを見てほしかったんだ。」
そう言うと、手にしたスマートフォンを京子に差し出す。
向けられた画面には、写真が表示されているようで。
京子はそのスマートフォンを恐る恐る受け取り、画面を覗き込む。
写真に写っていたのは、古めかしい本の1ページだった。テーブルに本を広げてそのページを撮影したもののようだ。達筆な字で何事かが記されているが、かろうじて「てんしょう」という文字が読み取れたものの、混乱した頭にはその内容がまるで入ってこない。
「あの子が戻って来て、京子ちゃんに会えたらきっと喜ぶだろう?だから京子ちゃんにも立ち会ってもらおうと思ったんだ。
都合良く、山崎春陽を連れて来られて良かったよ。」
意味不明な情報の洪水に頭が真っ白になっていた京子は山崎春陽という言葉ではっと我に返る。
「山崎さん!山崎さんは?!」
そう叫ぶやいなや、健三を振り切って駆け出す。
気持ち悪い。
まともな人に会いたい。
そんな恐怖心に支配された京子は、何度も転びそうになりながら走る。
階段を駆け上がり教室の前にたどり着くと、半開きになっていた扉を勢い任せに開け放ち、室内に飛び込んだ。
‥
教室内にくぐもった叫び声が響く。
教室に入った京子が目にした光景は異様な物だった。
勉強机や椅子が寄せられており、教室の中央に空間が出来ている。
その空間にはおよそ学校には似つかわしくないビニールプールが置いてあり、くるぶし程に水が張られている。
そして最も異様なのが、奇妙な仮面を被せられ、椅子に縛り付けられている女生徒の姿だ。口を何かで塞がれているような、言葉にならない声を上げ、半狂乱に叫んでいる。
「山‥崎‥さん?山崎さんなの?!」
縛られている女生徒、山崎春陽は聞こえて来た声の主が誰か気づいた様子で、必死のうめき声を上げる。
椅子に縛られている手足を強引に揺らし、声の聞こえた方へ近づこうともがいている。
「い‥今解くから!」
京子は春陽の身体に飛びつき、腕に巻き付いた紐に手をかけるが、結び目は硬く縛られておりどうにも解けない。
きつく締め上げられた春陽の腕からは血が滲む程だった。
「駄目だ、何かで切らないと‥」
背負ったカバンを下ろそうと手をかけた時、不意に京子の身体が強い力で跳ね飛ばされ、宙に浮いた。
「駄目だよ、京子ちゃん、紐を解いたら暴れちゃうだろう?」
遅れて教室にたどり着いた健三に、思い切り突き飛ばされた。
無防備に突き飛ばされた京子は、机の山に衝突し、全身を強く打ち付けてしまう。
「あぁ、頭から血が‥ごめんね京子ちゃん。
これが終わったらすぐに手当てするから。
少し待っててくれないかい?」
健三はそう言い残すと山崎春陽の身体を椅子ごと持ち上げ、ビニールプールの中央に置く。春陽が恐怖に怯え、耳元で喚き散らしている事などお構いなしで、スマートフォンの画面を確認しながら黙々と何かの準備を続けている。
「か‥さい‥さ‥」
朦朧とする意識と、強く打ち付けた痛みで身体が思うように動かせない。
床にうずくまり、身悶えていると、そのうちに京子の耳に届く春陽のうめき声が悲痛な叫び声へと変わっていった。
「お腹に‥糸‥はこれでよし、先を‥水に‥後は‥特に書いてないから、待てばいいのかな?」
そう淡々と呟き健三が立ち上がると、京子へと向き直り、柔和な笑顔を向けた。
「さぁ、これで良いはずだ。
笑美がこっちに戻って来れるんだ。
後はあの子が戻ってくるまでに京子ちゃんの手当てをしておかないとね?」
歩み寄ってくる健三から逃げるように。
這いつくばり、残る力を振り絞って叫ぶ。
「‥戻ってくるって!何を言ってるんですか?!どうしちゃったんですか?!」
健三は歩を止めず、近づいてくる。
「あの子がそう望んだんだ。
だから僕に方法を教えてくれた。
笑美は戻って来たいんだよ。」
京子は確信した。
笠井健三は笑美を失った事実に耐えきれなかったのだと。
京子自身も幾度となく経験してきた後悔の渦に、健三は飲み込まれてしまったのだ。
最早かけるべき言葉も見つけられず、身体もほとんど力が入らない。
己の無力に打ちのめされ、重い瞼を閉じると。
教室が異様な静寂に包まれていることに気がついた。
さっきまで悲痛なうめき声を上げていたはずの春陽の声が聞こえない。
同時に健三もそのことに気が付いた様子で、後ろを振り返り、春陽を凝視している。
春陽の身体は、小刻みに震えており、先ほどまでとはまるで違う雰囲気を纏っている。
「笑‥美‥?笑美‥なのか‥?」
春陽からの返事はない、ただ身体をカタカタと震わせるだけで、何かに反応する様子は見られない。
「笑美なんだろう?!戻って来たんだ!!」
健三は嬉々として春陽に駆け寄る。
「待ってろ!今紐を解いてやるからな!」
どこから取り出したのか、手にしたカッターナイフで、山崎春陽を拘束していた紐を次々と千切っていく。
支えを失った身体がぐらりと倒れ、それを支えようとした健三と2人でプールの水へとへたり込んだ。
「笑美!笑美!わかるかい?父さんだ!」
健三は春陽の両肩を掴み大きく揺するが、相変わらず反応はない。
ただされるがままに首をガクガクと揺らすだけだ。
「笑‥美?‥そうだ!口を塞いだ!山崎春陽がうるさいから!だから話せないんだな!」
健三の声色に明らかな焦りが混ざり、落ち着きがなくなり始める。
春陽の顔に被せられた仮面を乱暴に引き剥がし、口元を塞いでいた布も投げ捨てた。
解放され、晒された山崎春陽の顔は涎や化粧崩れでめちゃくちゃになってはいるが、放心したように無表情で感情が読み取れない。
「何故?‥なんで‥?本に書いてある通りにやったのに‥?」
背中を丸めすっかり消沈した健三は、うわごとのように呟く。
「‥こんな事したって、笑美が戻ってくるわけないですよ‥」
まだ痛む身体を庇いながら、京子は起き上がる。
「笠井さん‥もうやめましょう?山崎さんもなんか変です、病院に連れて行かないと‥」
健三の身体がぴくりと跳ねる。
火がついたような勢いで京子の方へと向き直ると、怒気を含んだ声で捲し立てる。
「どうして!京子ちゃんがそんな酷いことを言うんだ?!
笑美とは昔から仲が良かったじゃないか?!
君なら、一緒に笑美を迎えてくれると思ってたのに?!」
見たことのない健三の激情に気押され、京子は言葉を失う。
「結局、君も妻と同じだ!やめろとか目を覚ませとか!あの子を分かってやれるのは僕だけだ!だからあの子も僕を頼った!」
健三の手に力が込もり、握られた春陽の腕が痛々しく鬱血し始めている。
「‥決めたよ。
もう一度初めからやり直す。
思えば山崎春陽を使ったのが悪かったんだ。
あの子だって顔も見たくないはずだ。」
不意に見知った笑顔がこちらを向き、京子の背中に冷たいものが走る。
椅子に縛り付けられた自らの姿を想像し、血の気が引いていく。
健三が春陽の身体から手を離そうとしたその時。
くったりとした春陽の口から、消え入りそうな声が発せられた。
「‥え‥え‥み‥」
京子と健三、2人の思考が止まり、視線が山崎春陽に集まる。
健三は再び春陽の肩を掴み、歓喜の声を上げた。
「笑美!笑美なんだな!」
相変わらず生気が感じられない春陽は、重い動作で両手をゆっくりと上げる。
その手に添えるように健三が手を重ね、涙を流しながら笑った。
上げられた両手が健三の頬を撫でるように包み込む。
「大丈夫だ、父さんはここにいるよ?笑美!」
健三の頬にあてられていた春陽の両手は緩慢な動作で健三の頭を掴み徐々に指が頭に食い込んでいく。
不自然な春陽の行動に笑っていた健三の顔にもだんだんと困惑の色が混ざり始めた。
「笑‥美?何をしてるんだ?‥笑美?!」
春陽に掴まれた健三の頭がゆっくりと下に下げられていく。
「山崎‥さん?何を‥?」
健三の頭が運ばれる先はプールに張られた水だ。
異常な事態を察したのだろう、健三は頭を掴む春陽の両腕を剥がそうとかかるが、常人離れした万力のような力で頭を締め上げられ、抗うことも抜け出すことも出来ずにいる。
「やめろ!笑美!や‥!」
そのうちに健三の顔は完全に水面に押し付けられてしまう。
健三はゴボゴボと泡を吐き出しながら、春陽の腕を引っ掻いたり殴ったりと抵抗するが、やはり春陽はびくともしない。
「山崎さん!やめて!このままじゃ本当に‥」
京子は春陽の腕に掴み掛かり、持ち上げようとするのだが、ただでさえ朦朧とした状態ではとても太刀打ち出来ない。
「山崎さん!離‥!」
言いかけて言葉に詰まる。覗き込んだ春陽の顔。
先程まで無表情だった顔が笑っている。
目の焦点はあっておらず、口元だけが歪に広がった不気味な笑顔を向けて、京子を見ている。
「きょう‥ちゃん‥」
不意に聞こえた声を最後に、京子の意識は途切れた。
‥
外から聞こえる喧しい虫の声と黒板に打ち付けられるチョークの音が響く教室。
生徒達は皆静かに黒板に書き出される文字を追いノートへと書き写す。
そんな見慣れた光景を後ろの席から眺め、佐藤京子は頬杖をつく。
咽せかえるような暑さにペンを持つ気にもなれず、早く授業が終わらないものかと教壇に立つ先生の汗ばんだ背中を眺めている。
ふと気づくと、開け放たれた窓、蒸し暑い風しか流れてこないほんの僅かなカーテンの隙間から、小さな虫が飛んできた。
虫の描く軌跡に釣られて目で追いかけていると、飛び回っていた虫はちょうど京子の前の机、今は誰も座っていない空席に留まった。
京子の脳裏にあの夜のことが蘇り、頭のキズが痛む。
あの後、京子が意識を取り戻したのは病院だった。
警察が倒れている京子を見つけ、救急車で病院に運ばれたんだとか。
思いのほか状態は悪かったらしく、身体にいくつか痣が残り、頭には包帯が巻かれていた。
目覚めてすぐに警察による事情聴取が行われ、あれやこれや話をする内に、その後の顛末を知った。
この事態を引き起こした張本人。
笠井健三は発見当時、気絶してはいたもののとりあえずは無事であり、回復し次第逮捕、拘留になるそうだ。
山崎春陽も警察が到着した時点では大人しく椅子に座っていた‥らしいのだが、その後すぐに昏倒。
京子と同じく病院に運ばれた。
お腹の縫い跡や両腕の引っ掻き傷など目立つ傷は多いものの、どれも簡単な処置で済む軽症という話だったのだが。
あの日以来、山崎さんが目覚めることはなく、今も原因不明の昏睡状態が続いている。
そしてあの時、山崎春陽が最後に言った言葉が、今でも耳に残っている。
ペンを取り、まっさらなノートにあの時の言葉を書き殴る。
「京ちゃん」
京子のことをこの名で呼ぶ人物はたった1人しかいない。
いや、いなかった。
なら‥あの時目の前にいた山崎春陽は‥
「どうした?佐藤‥おまえ、またか?」
不意に名前を呼ばれ、意識が現実に引き戻される。
京子は慌てて消しゴムを取り、ノートに書いた文字を消した。
てんしょう 神通解読録 より




