60.さよならをあなたに
「さよならを言いに来たんだ」
当真は人の顔から血の気が引くところを初めて見た。
桜色に上気した頬は一瞬で色を失い、感動にうるんだ瞳がさっと乾く。ぱくぱくと動く唇から血の気が引いて紫色になった。
信じられない、といった様子の沙雪から手を放す。その手を沙雪の両肩に当てて自分の体からそっと離した。
「さよならって……どうして? ここは夢の世界だよ。ずっと一緒にいられる」
「窓の外を見たろ。この世界はもうじき崩れるんだ」
世界の崩壊はすでにエア城の敷地にまで迫っている。
「そうじゃなくても俺は高見を現実に戻す。もう決めてるんだ」
「――どうしてっ!?」
沙雪は当真の胸倉を掴んで引き寄せた。顔に頭突きをするくらいの勢いで詰め寄った。
「なんでそんなことするの!? いいじゃん、このままで! せっかく会えたのに! 現実なんか戻ったっていいことない!」
「俺が死んでるからだよ」
ぶわ、と沙雪の眦に涙が浮かぶ。
「でも岸辺はここにいるじゃん! 現実で死んでようがここは夢の中なんだから! 一緒にいられる。それじゃダメなの!? 夢も現実も大して変わらない!」
たとえば、高見徹也たちが生きた現実世界が本当の現実だと誰が証明できるだろうか。
たとえば、沙雪が生きていた現実が夢だったとして、誰がそれに気付けるだろうか。
今いる夢想世界のように、この世界が夢だと認識できないように設定されているだけかもしれない。誰かが都合が良いように作った世界かもしれない。
それを証明できるものは誰もいない。
そう考えれば夢の世界も現実世界もそう変わらない。資源も何も制限がない夢の世界が楽園に見えてくる。
「……嬉しいなあ、そう言ってくれるの。でもダメなんだ」
「嬉しいなら、このままでいいじゃん……」
「高見に死んでほしくないんだ」
要はそれだけのこと。
夢の世界に留まり続ければ沙雪は遠からず衰弱死する。
沙雪が当真に生きてほしかったように、当真だって沙雪に死んでほしくない。
「十五年……十四年かな? まあそれくらい生きててさ、誰かにこんなに好きになってもらったのって初めてだったんだよ。クラスの連中は仲良くなれるかなーってところでお別れだったし、親はあんなだったし」
父親は顔を合わせたことすらない。生きているかどうかも知らないし、興味もない。
母親は一生懸命に当真を育ててくれたが、最後は当真を置いて死のうとした。抱えきれないほどの罪悪感と義務感に押しつぶされてしまい会話すら出来なくなった。
「俺、高見のことが好きだ」
当真は沙雪の顔をまっすぐ見ながら笑って言った。
沙雪の体が硬直する。胸倉を掴んだ手を優しくほどき握りしめる。
「なんだろな、いざ言えるとなると何を言おうとしてたかトんじゃうな。うまく出てこないや。自分で決めたら頑固なくらい一直線なところが好きだし、物怖じしないくせに人の目は気になるところも可愛いと思う。映画の感想が違った時の唇をとがらせた顔が好きでわざと逆張りしてたって気付いてる?」
「……しらないよそんなの、ちゃんと言ってよ」
「ごめんな、遅くなって。もうちょいあの友達以上恋人未満みたいなの楽しんでいたかったんだよ」
「いいよ、私もだったから」
「ありがとう。そんな好きな人が自分のことにこだわって死んじゃったら悲しいと思わん?」
「……大好きな人が唐突に死んじゃったら生き返らせたいって思わない?」
「そうかも。でも、今の俺は自分の命と引き換えなら絶対やらないな」
蘇らせたいくらい自分を好きでいてくれる人は、自分が自分のために命を犠牲にしたら悲しむと分かるから。
びき、とエア城にヒビが入る。天井が砂のように崩れて消えていく。
沙雪の足元が崩れて体が空に向かって持ち上がる。
当真は沙雪の手を放す。慌てて沙雪が当真の手を握りしめた。
子供のように大粒の涙を流しながら泣きじゃくる沙雪を見ると罪悪感があった。
それでも当真が沙雪の手を掴むことはない。この状況を作り出したのはほかならぬ当真なのだ。
「――勝手だ! 私の意思はどこにあるの!? こんなの岸辺の自己満足だ!」
「そうだよ。これは高見を死なせたくない俺のエゴ。自分が死んでも俺と居たいっていう高見のエゴよりも俺のエゴが一枚上手だったな、残念」
「残念、じゃないよバカ! あたしがどれだけ岸辺のこと好きだったかもしらないくせに!」
「真っ暗な中でずっと俺を作ろうとしててくれたことは知ってるよ」
「それだけじゃぜんぜん足りない! 本当は一緒に学校から帰ったりしたかったこととか! 同じ学校に行けるように勉強頑張ってたこととか! け、結婚する妄想までしたことあるんだから!」
「は? 俺だってうまいこと言えないだけでもっといろいろあるが? 高見の登校路でうろつきかけてこれじゃ不審者だって逃げ帰ったことだってあるんだからな! それも三回!」
「私だって! ……足りない! ちっとも足りない! 十年あっても百年会っても言い足りない! ふざけんなばか!」
沙雪はひときわ強く当真の手を握りしめた。
じんわり手汗をかいてきた。夢ならそんな余計なものまでリアルじゃなくていいのに。
沙雪を持ちあげる力はどんどん強くなるのに当真の体は張り付いたように動かない。
当真は沙雪の手を振りほどこうとはしなかった。
こうして触れていられる時間もあとわずか。沙雪の気持ちは痛いほど分かるし手放したくない気持ちは当真も一緒だ。ほんのわずかな最後の名残を惜しんでいた。
沙雪の手が離れかけていく。当真の手首をつかんでいた両手は手の甲まで滑り、今は片手の指先でかろうじて当真の右手をつまんでいるだけとなった。
当真は奥歯を強くかみしめる。
この手を掴んではいけない。決していけない。そうしてしまえばすべては水の泡になる。最悪、夢の世界の崩壊に巻き込まれて沙雪が消滅してしまうことすら考えられる。
当真は視線を下に向けた。沙雪の顔を見ていればどうしても手を握りたくなってしまう。
それに今、沙雪がどんな絶望の表情で当真を見ているか、知りたくなかった。
好きな人が触れられない場所へ行ってしまうおそろしさは、人形を作り続ける沙雪を見て痛いほど理解していたから。
「……こっち見ろばか!」
その言葉に思いきり顔を引っ張られたような気持ちだった。
顔を上げると目じりに涙を溜めながらも当真を見つめる沙雪と目が合った。
沙雪は難しい顔をしていた。映画の話で意見が対立した時の表情によく似ている。
ぎゅっと目をつぶり、眉間にしわを寄せて、それからまた当真の顔を見た。
「分かったから! そんな顔しないで! そんな顔させたかったわけじゃない!」
当真ははっとして自分の顔に手をやった。
ひどくこわばっていた。口角はひきつり唇はへの字になっている。目は腫れぼったく、涙をこらえる顔がひどく不細工だと容易に想像できた。
沙雪は当真に岸辺当真としての記憶のほとんどを与えなかった。
それは意地悪でも独占欲でもない。辛い記憶を思い出して悲しんだり、過去のしがらみを未練に思ったりせず、当真が笑って生きていけるようにするためだ。
自分をフィオナという殻に閉じ込め、ただの傍観者となってまで沙雪が望んだのは当真の幸せただひとつ。
間違っても悲しませるためではない。
今の当真は笑っていない。悲しんでいる。つらいことを必死にこらえている。
それは沙雪の望むところではなかった。
「私が目覚めれば岸辺は嬉しい?」
「ああ」
「笑ってくれる?」
「……がんばる」
「頑張るくらいなら自分で記憶を消して一緒にいてくれればよかったのに」
「それは……そうかも」
「でもお別れするって決めたんだ」
「うん」
「そっか」
沙雪は静かに瞼を閉じる。
「じゃあ、笑って見送ってよ」
当真の目じりに熱い液体がこみ上げてきた。
ずーっと鼻水を吸い込んで涙に濡れた目をぬぐう。顔を掴むようにして両目のあたりをマッサージした。
大きく口から息を吸って、ぐっと息を止める。
しっかりと目を見開くと瞼を開けた沙雪と視線があった。
「さよなら、高見」
当真は笑って言った。
力いっぱい笑っているつもりだ。それでもうまく笑えているか自信はない。初めて映画館で会った時よりひどい顔をしているかもしれない。
言葉は思ったよりもずっとあっさりと出てきた。いつかこの瞬間が来ると分かっていたから心の準備は出来ているつもりだった。思ったより悲しくて顔は不細工になってしまったが。
けれど、それを見た沙雪が小さく噴き出して笑ってくれた。不細工になった甲斐があるというものだ。
「さよなら、岸辺」
沙雪もまた笑って言った。
頑張って笑顔を作ろうとしていたが、涙と鼻水でぐちゃぐちゃな当真の顔を見たら、初めて映画館で会った時のことを思い出して笑ってしまった。
さよならと口にした瞬間、全身からすっと力が抜けた。
当真の右手をつまんでいた手にも力が入らなくなる。
名残惜しかったが、沙雪は自ら手を離した。
ふわりと体が浮き上がる。
泣きながら笑う当真をじっと見つめていた。
自分の身が消えるまで、ずっと。
最終話まで書き終わりました。
完結保障です。




