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58.岸辺当真⑤

2022/2/20 1話目の投稿です

 沙雪と話すようになってから当真の人生は変わった。

 中学二年に上がる前には映画よりも沙雪と会うことが目当てになっていた。映画は映画で楽しみではあったし楽しんでいたが、天秤は沙雪との会話に傾いていた。

 映画そのものと沙雪との会話、当真の人生におけるたったふたつの楽しみが映画館で重なった。月に一度の映画は何を置いても必ず行くと決めた。それとなく沙雪が好みそうな映画をリサーチして、映画館に行くたびに沙雪がいないか見回した。

 沙雪がいれば精一杯自然を装って声をかけた。いなければ肩を落としながらも気持ちを切り替えて映画を楽しんだ。

 本当は学校でも話しかけたかったが自粛した。当真は『哀れな弱者』としての立場にいることで自分の身を守っている。女にがつがつ話しかけてイヤらしく笑っている男は断じて『哀れな弱者』ではない。沙雪にまで累が及ぶ可能性を考慮すれば話しかけるという選択肢はなかった。


「ねえ岸辺」


 と思っていたらこっそり沙雪が話しかけてくれるのだからたまらない。

 そんな日は決まって顔が緩んでしまう。


「岸辺、なんか雰囲気変わったよな」


 緩んだ顔を見た男子の一人が言った。周囲のグループメンバーもうんうん頷いている。


「そうか?」

「変わった変わった。間違いない」

「だな。前はもっとこう……思い詰めた? 張り詰めた? 感じだった」

「顔は笑ってるけど目が笑ってないって言葉の意味を理解した」

「それな。考えて笑ってる感じだった」

「今と比べるとめっちゃピリピリしてた」


 当真は自分の身を守るためだけにクラス内の男子グループに入った。うわべだけの付き合いである。

 一方、同じグループの彼らは彼らなりの真剣さで当真と付き合っていた。

 話し始めた当初は同情だけだった。しばらく付き合うと違和感を覚えるようになった。

他の友達とは何かが違う。当真の笑顔を見ると不安になった。

 それがなぜか分からず気味が悪かった。だから二人になることを避けていた。


 しばらく前から当真の雰囲気が変わってきた。最初は気のせいかと思っていたが、最近では明確に違うと自信を持って言える。

 雰囲気が柔らかくなった。普通の同級生のような態度になってきた。

 彼らは自然と気が付いた。

 当真はずっと気を張っていたのだ。


 なぜ、と思ったのは一瞬だけだった。

 答えは決まっている。自分を守るためだ。

 岸辺当真というのは悪名だ。殺人犯の息子というレッテルがついて回る。彼らの中にも親に当真と関わらない方が良いと言われた者がいる。

 親への反抗心で跳ねのけたが、クラスが違って当真の性格や立場を知らなかったら関わろうとしなかっただろう。

 当真が小学校でどう扱われていたか、調べるまでもなく想像ができた

 小学校時代の当真の悪い噂は集めようとしなくても聞こえてくるほどだった。そのほとんどは不良マンガの焼き直しのような、鼻で笑ってしまうような内容だった。

 そんな噂がまことしやかに流される少年にまともな小学校生活が送れたとは思えない。


 強さを見せたら必要以上に恐れられ、弱いだけでは踏みつけられる。

 だからクラスに馴染もうとした。馴染むことに必死だった。

 そう考えれば気を張っていたことも納得がいく。当真も必死だったことに思い至れば反感はなかった。


「アレか、もしかして好きなコでもできたのか」

「バカっ!」


 にんまりと笑って詰め寄って来た同級生をもうひとりの同級生がひっぱたいた。


「いって、何すんだよ」

「何すんだじゃねーよ、そんなの見れば分かるだろ!」

「デリケートなオトシゴロなんだから突っついてやるな!」

「……聞こえてるんだけど」


 庇ってくれるのはいいが、当真はとってもいたたまれなかった。

 好きな女の子がいるとバレているのは思春期的自意識を持っている身としては照れ臭いものがある。デリケートなお年頃と同い年の相手に庇われれば恥ずかしさもひとしおだ。


「悪い悪い。でもアレだ。前よりずっと話しやすいわ」

「だな、ぶっちゃけ最近あのレッテルのことも忘れてた感ある」

「……そりゃどうも」


 言って、当真は顔を逸らした。

 今、自分がどんな顔をしているか想像できた。見られるのはあまりにも恥ずかしい。

 同級生たちは顔をのぞき込んだりしなかったが、彼らも当真がどんな顔をしているか想像できていた。


―――


 中学二年、春めいてきた冬の朝。

 当真はそわそわしながら通学路を歩いていた。



 昨日、屋上手前の踊り場で沙雪と映画の話をした。二人とも気に入っていたドラマの劇場版が公開された。

 ドラマはべたべたに甘い恋愛もので、映画館のそばを通りかかった時にもカップルばかりだった。観たいが一人では行きづらい、という話をしていた。

 普段なら、行きづらいから残念だけど配信されたら見よう、と話が終わる。

 その日は違った。沙雪は「岸辺は一緒に行きたい人とかいないの」と尋ねてきた。

 ふと、目の前に大きなY字路が現れた気がした。

 片方の道を行けばこれまで通りの穏やかで少しじれったい、救われるような日々が続くだろう。

 もう片方の道の先には何があるか分からない。この幸せな時間の破綻に続いているかもしれない真っ暗な道だ。

 けれど、真っ暗なだけでは断じてない。このままでは決して手に入らない輝く宝物があるかもしれない。

 当真は言った。


「一緒に行きたいのは……隣の人くらいだよ」


 それが精いっぱいだった。素直に一緒に行きたいと言え馬鹿、と内心で自分を罵倒していた。

 当真はこれまでの人生でまともに好意を向けたことも向けられたこともなかった。素直に好意を表現するにはどうすればいいのか分からない。

 いや、素直に口にすればいいと分かっているのだが、保身のための自己防衛ラインがそれを許してくれない。迂遠な言い方をしてなお耐え切れないくらい恥ずかしくて立ち上がってしまった。

 逃げるように歩を進めながらも沙雪を傷付けてしまっていないか気がかりで背後を盗み見た。

 沙雪は笑っていた。微笑むとも満面の笑みとも言い難い、心を鷲掴みにするような笑顔だった。

 当真は慌てて階段を下りて逃げ去った。顔が熱いのが分かる。この顔を他の誰にも見られるわけにはいかない。恥ずかしくて死んでしまうからだ。


 その夜、当真はなかなか眠れなかった。さっさと寝ようと思っても沙雪の笑顔がまぶたの裏に焼き付いているのだ。目を閉じると鮮明に笑顔が蘇ってくる。すると心臓がバクバクいって眠るどころじゃない。

 深夜と言っていい時間にスマホが鳴った。気を紛らわすくらいできるかと思いスマホを手に取った。

 沙雪からのメッセージだった。


『明日の放課後、時間もらえる?』


 脊髄反射的にOKと返した。具体的な時間と場所だけ尋ねた。要件はなんとなく想像できたが、自意識過剰ではないかと思うと聞きだすことはできなかった。

 あれだけかわいい沙雪がまさか自分のことなんて、と想像が外れていた時の予防線を張ってしまっていた。

 期待と不安が心の中でぐるぐる渦を巻く。

 中学校に入る前も似たような気持ちだった。環境が変わることで小学校から何か変わるのではないかという期待と、結局無駄なのではないかという不安があった。

 似たような気持ちのはずなのに、実際にはまるで違った気分だった。中学校入学前夜はげえげえ吐きそうになるほど不快な緊張感だったのに、今は足元がふわふわするような高揚感がある。

 一歩踏み出した暗闇の先に、輝かしい何かが見えた気がした。



 そして気付けば微睡みに沈み一夜が過ぎた。さんざん夜更かししたのにいつも通りの時間に起きることが出来たのは習慣がなせる技だ。

 自分が興奮しているという自覚がある。落ち着け、と深く呼吸しながら歩く通学路はいつもとまるで違った風景に見えた。これまで木々のざわめきも陰口のように聞こえていたのが、今日は気持ちが良いように聞こえる。


 心持ちひとつで世界は違って見える。


 青春映画のキャッチフレーズのような言葉が脳裏をよぎる。

 これまで似たようなフレーズを聞いてもフィクションだと捉えていた。心持ちひとつで世界が変わるならそれほど簡単なことはない。

 それが今はどうだ。うわべだけの付き合いだったはずのクラスメイトたちは当真に歩み寄ってくれて、それを照れ臭くも不快に思っていない自分がいる。


 彼らは当真の雰囲気が変わったと言っていた。

 心当たりはあった。

 沙雪だ。

 沙雪は「同情すべき弱者」とか「殺人犯の息子」とか、そんなレッテルの先にいる当真と話してくれた。親近感があると話してくれた。

 たったそれだけのことにどれほど救われただろう。

 一年半ほど前、こんなに無理をしてまで生きていなくてもいいんじゃないかと思っていたことが遥か遠い昔に思える。そう考えていたのが自分なのかと疑いたくなるほどだ。

 沙雪の前ではがちがちに固まった体から肩の力を抜くことができた。


 クラスメイトのことは良い意味でどうでもよくなった。何が何でも取り入ろうという考えはなくなった。無理なく付き合って、気が合わなかったらそれまででいいやと思えた。

 きっと余裕ができたのだ。

 入学直後の当真にとって、クラスでうまくやることが世界の全てだった。

 今では沙雪のことを考えて、余ったところで映画のことを考えて、さらに余った端数でクラスのことを考えている。

 それほど重要じゃないからクラスで力を抜けるようになった。だからクラスメイトたちも話しやすくなったのだろう。

 考えてみれば当たり前のことだ。クラスメイトは授業の合間の暇つぶしとか、楽しいコミュニケーションくらいのつもりで話をしているのに、当真は真剣で斬り合うくらいの心持ちで挑んでいた。遊びに殺し合いの気迫で挑んでくる相手がいたら怖いに決まっている。


 予感があった。これからの人生はこれまでとは全く違ったものになると。

 辛いことも苦しいこともあるだろう。殺人犯の息子というレッテルに邪魔されることもあるだろう。

 けれど今ならそんなレッテルを笑い飛ばせる気がした。

 それでも駄目なら語学を勉強して海外にでも行けばいい。

 世界は広いのだ。探せば父とは無関係な岸辺当真個人として挑める場所は間違いなくある。

 一歩一歩踏み出した先には輝かしい未知が無限に広がっているのだと信じられた。


 晴れ晴れした気持ちで歩いていると赤信号だった。もっとずっと歩いていたかったが足を止める。

 ま、そういうこともあるさ。

 学校で沙雪と会ったらどんな顔をしようか、なんて考えて信号が変わるのを待つ。




 どかん、と何か大きく重い物同士がぶつかる音。

 爆発のような轟音と悲鳴のようなブレーキ音が響き渡る。

 反射的に音がした方を向く。

 巨大なトラックが目前に迫っていた。


 あ、無理だこれ。


 トラックは異様にスローに見えた。これが走馬灯か、なんて考える余裕があるくらい体感時間が延びていた。

 一説によると走馬灯は脳が生き残る道を必死に探しているのだという。

 猛スピードで迫るトラックは横幅が広い。当真が全力で走ってもかわしきれない。頑丈なバンパーは当真を撥ね飛ばすだろう。車高は高めだが下に潜り込む余裕はない。

 運転手が必死の形相でハンドルを切っているのが見える。どうにか当真がいない方へトラックを向かわせようとしてくれているようだが無意味だ。よしんばトラックの正面との衝突を免れたとしても、側面にぶつかるか、横転したトラックに押しつぶされて死ぬ。


 人は突然死ぬってホントだな。


 『明日も生きているとは限らない』とはドラマや映画でよく聞くセリフだ。

 まさか自分の身に降りかかるとは思っていなかった。のんきに沙雪と会ったらどうしようか考えていた。明日も明後日も自分は生きているという前提あっての思考だった。

 自分の父は何の恨みもない相手を唐突に殴り殺した。そんな実例を知っているのだから、人生はいつ終わるか分からないと肝に銘じておくべきだったかもしれない。


 まあでも、悪くない人生だったよな。


 小学校までは最悪の人生だった。中学でもうっかり自殺を考えることがあった。

 最近は違った。うわべだけの付き合いだったクラスメイトとは本当に友達になれるかもしれないと思えたし、どんな主義主張よりも大切に思える人にも出会えた。

 二年前の自分に話しても到底信じられないくらい幸せだった。

 できればもう少し先までこの人生を楽しみたかったが、これで幕引きならそれはそれで仕方ない。むしろ、上げて落とされる可能性が無くなってよかったかもしれない。

 巨大な障害を乗り越えて、仲良くしたい人たちが出来たところで不慮の事故に巻き込まれ死んでしまう。まるで悲劇のヒーローだと浸りそうになった。


 ——まて、じゃあ高見はどうなる?


 死を受け入れ目をつぶろうとしたところで気付いた。

 今日、当真は沙雪と話す約束をしている。

 約束は守らなければならない。

 もっと沙雪と一緒にいたい。

 今日はどんな話をするつもりだったのか知りたい。

 これからどんな関係になるのか知りたい。

 約束した同級生が約束を果たさずに死んでしまう。そんなくそったれ悲劇のヒロインに沙雪をしたくない。


 ――ざけんな死なねえ死んでたまるか!!!


 渾身の力を込めて地面を蹴る。トラックの進行方向とは真逆に進む。

 無理でも無駄でも無謀でも一兆分の一パーセントでも可能性があるなら、仮にゼロパーセントだったとしてもどうにか生き延びてやる。


 ――殺されたって死んでなん


 これが岸辺当真の人生最後の思考。

 超加速した思考とは裏腹に肉体の動きは緩慢だった。どれほど懸命でも当真がかわすにはトラックは大きく、速過ぎた。

 運転手の努力もむなしくトラックは当真を物言わぬ肉塊に変えた。


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