2.〝最悪〟の日々
「いつまで這いつくばってんのよ、このブタ女っ! そんなに太ってるから動きがトロいのよ!」
フレイシルが雑巾で床磨きをしていると、突然太腿を蹴られ、その衝撃で彼女の身体が床へと倒れ込んだ。
「うわっ、ブタが床に寝そべってるー。これからソテーにでもされちゃうのかしら?」
「こんなの食べても美味しくないって! ひと噛じりしただけでも吐き出す不味さだわー」
他の使用人達の嘲笑を浴びながら、フレイシルは唇を噛んで俯く。
「ブタと言えば、奥様もすっごいブタよね? いえ、アレはブタどころじゃないわ。巨大なゴリラよ!」
「あははっ! ゴリラがドスドス歩く度地響きがするじゃない? このままじゃこの屋敷がゴリラの地震で壊れちゃうかも! 心配だわー」
「キャハハッ!」
使用人達はフレイシルだけでは飽き足らず、デッセルバ夫人の陰口まで叩いている。
フレイシルは辺りを見回し、夫人がいないことを確認するとホッと息をついた。
「いいこと? ここの床磨きが終わったら、次は窓拭き全部ね! さ、私達は休憩しましょ? 美味しいお菓子が手に入ったのよ。皆で食べましょうよ」
「いいわね、賛成! ちょうど小腹が空いていたのよー」
「口も聞けない不気味な誰かさんのお陰で気分悪いし、美味しいお菓子を食べて気分転換しましょ! こんな女がボラード様に優しくされているなんて、ホンットムカつくわー!」
「ボラード様、こんなブタ女にも声をかけるなんて、すごくできたお方よねぇ。あぁ、ますます惚れちゃうわ!」
「あっ、抜け駆けは駄目よー?」
使用人達は笑いながら、フレイシルを残して去って行った。
「…………」
フレイシルが俯いたままでいると、誰かの手が自分に向かって差し出された。
「大丈夫かい? 全く、酷いことをするね」
ボラードだった。
フレイシルと同じ薄茶色の髪を結んで肩に下ろし、柔和な笑みを彼女に向ける。
フレイシルは彼を見るとホッとしたように笑みを浮かべ、その手を取った。
ボラードはフレイシルを立ち上がらせると、彼女の服に付いた埃を払う。
「このこと、僕が後で父さんに伝えておくね。少し休む?」
ボラードの気遣いに、フレイシルは微笑むと首を左右に振った。
「そっか、頑張るね。けど無理せずにね?」
ボラードは優しい笑みをフレイシルに見せると、手を振って自分の部屋へと戻って行った。
彼はフレイシルが使用人になった頃から、こうして彼女をいつも気にかけてくれた。
ボラードの両親は、フレイシルに衣食住を提供してくれてはいるが、それだけだ。
ゴーンは彼女とすれ違っても無視をし、夫人に関しては、毎回「今日も醜いブタがいるわ。ブーブー鳴いて汚らわしい」と鋭い目つきで睨みつけてくる。
他の使用人達に馬鹿にされ、理不尽な暴力を振るわれる中、唯一ボラードだけは自分に優しく接してくれた。
そんな彼にフレイシルが〝特別な感情〟を抱くようになるのは、そう時間はかからなかった――
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「フレイシル、お願いがあるんだ。僕のパートナーとして、今度開催される舞踏会に一緒に出てほしいんだ」
ボラードの部屋に呼ばれたフレイシルは、彼からそう告げられ、思わず目が点になった。
「ははっ、そんなに驚くことじゃないよ。僕は君のことが気に入ってるから、是非パートナーになってほしいんだ。うちの商会の宣伝の為に行くようなものだから、皆に挨拶だけして踊らない予定だよ。だから安心していいからね。一緒に来てくれるかい?」
微笑みながらそう言うボラードに、フレイシルは頬を赤らめながら首を縦に振った。
「あぁ、良かった。ドレスは母が用意してくれるから、当日はよろしくね」
頷くボラードに、フレイシルは嬉しそうに頷き返したのだった。
他の使用人達からの苛めや暴力は変わらず続いており、舞踏会にフレイシルがパートナーとしてボラードと参加することが分かると、さらに苛めと暴力が加速した。
痣が身体中にでき辛かったが、フレイシルはボラードのかけてくる優しい言葉と、彼の隣に立てる舞踏会のことを思うと、なんとか耐えることができた。
――そして、舞踏会当日。
フレイシルは、ボラードの母が用意したドレスを怪訝と戸惑いが混じった目で見つめていた。
「…………」
しばらく悩んだ末にドレスを自分で着たフレイシルは、彼と一緒に馬車に乗って会場に向かった。
到着して会場に入った早々ボラードは、
「ちょっと貴族の方達に挨拶に行って来るよ。君は料理を楽しんでて」
と言い、フレイシルから離れていった。
何もすることがないので、端の方にいようと足を動かした刹那、突然何かがぶつかってきてフレイシルは床に倒れ込んでしまった。
それと同時に、濃い色の付いた飲み物がフレイシルの頭から被せられる。
髪とドレスが、その飲み物の色に染まっていった。
「あーらごめんなさい? 存在感薄くて気付かなかったわー。図体はそんなに大きいのにねぇ?」
頭上から女性の声が降ってきて、その周りでクスクスと笑い声が聞こえてきた。
「なんでアンタみたいなデブがボラード様のパートナーやってんのよ。ムカつくったらないわ」
髪の毛からポタポタと雫を落としながら、フレイシルは顔を上げると、どこかの貴族の令嬢が憎々しげにフレイシルを睨みつけていた。
焦げ茶色のソバージュの髪に、吊り目の同じ色の瞳で、鼻の周りのソバカスが特徴的な令嬢だ。
ボラードは、急発展した今注目のデッセルバ商会の子息として、人気が高まっていた。
いつも柔和な微笑みを浮かべていて、誰にでも優しく、令嬢達の間で一目置かれる存在となっていたのだ。
「それに、一昔前に流行ったドレスなんか着ちゃってさぁ。そんな格好でよく外が歩けたわね? ホンット恥ずかしいったらないわ。そんなんでボラード様の隣に立とうだなんて、身の程を知りなさいよ、このブスッ!」
どこかの貴族の令嬢の一喝に、周りにいた取巻きらしき令嬢達がうんうんと同調し、扇で口を隠しながらフレイシルの悪口を次々と言い始める。
フレイシルはそれに、俯いて耐えていた。
「……どうしたのですか?」
そこへ、挨拶が終わったボラードが戻って来た。
どこかの令嬢が、これ見よがしに彼にもたれかかる。
「この娘が突然ぶつかってきたので、手に持っていた飲み物を零してしまったんです。それが運悪く彼女に……。ボラード様のパートナーに申し訳ないことをしてしまいましたわ……」
その言葉に、フレイシルは瞳を見開いて令嬢とボラードを見上げた。
彼が静かにこちらに目を向けたので、フレイシルは必死になって首を左右に振り続ける。
自分は何もしていないと、視線で必死に彼に訴えた。
それを見たボラードは、ニコリとフレイシルに微笑みかける。
「……!」
分かってくれたと、フレイシルも思わず笑顔を作った。
ボラードはどこかの令嬢に視線を戻すと、紳士的に頭を下げた。
「謝らないでください。レディ。彼女が大変失礼なことをしてしまい、申し訳ありません。あなたに飲み物はかかりませんでしたか? ぶつかった際、お怪我はなかったでしょうか?」
「あ……はい、大丈夫ですわ」
「あぁ、良かった。しかし念の為、休憩室で確認いたしましょう。もし少しでも汚れていたのなら弁償いたします。あぁ、彼女のことは全くお気になさらず。ぶつかってきた彼女が悪いのですから」
ボラードは笑ってそう言うと、どこかの令嬢をエスコートして会場を出て行った。
「まぁ、なんてお優しいお方なの……」
「なかなかいないわよね、あんな殿方は。今度からデッセルバ商会でお買い物しようかしら」
「えぇ、そうしましょう。きっと素敵な商品が揃っているに違いありませんわ」
ボラードのことを褒め称える言葉が行き交う中、フレイシルは俯きながら会場を飛び出した。
溜め息をつきながらとぼとぼと廊下を歩いていると、休憩室からボラードらしき声が聞こえてきた。
扉が少しだけ開いているようだ。
フレイシルはボラードの様子を見ようと、休憩室の中をそっと覗き込むと――
「ウフフッ、ボラード様ったら。ドレスの汚れを確認するだけじゃなかったんですの?」
「君が魅力的なのがいけないんだ。この休憩室は貸し切りにしたから、誰も入って来ないよ」
「嬉しい、ボラード様……。けれど、あなたのパートナーはよろしいんですの?」
「あんなブタ女、放っておけばいいよ。僕は嫌だったのに、彼女が無理矢理パートナーを頼み込んできたらさ」
「まぁ、やっぱりそうだったのですね。本当にお優しいですわ。あんなデブ、美しいボラード様のパートナーに相応しくないと思っていましたもの」
「ははっ、ありがとう。君をパートナーにすれば良かったと心から悔やんでいるよ」
「まぁ、ボラード様ったら」
嗤い声とともに、抱き合うボラードとどこかの令嬢が目に飛び込んできて、フレイシルは両手で口を抑え、その場から急いで離れた。
外に駆け出し帰宅者を待っていた馬車に乗り込んだフレイシルは、心臓が早鐘を打つ中、真っ青な顔でデッセルバ邸へと戻ったのだった……




