ペティーサの夜
新章、開幕!
長らくお待たせしました。第二章:教皇の軍旗を掲載します。ぜひ、お楽しみください!
今日は一挙3話を昼12:00・夕18:10・夜21:10に投稿します。以降は、月・金の21:10に投稿です。
――夜、首都リウリスの城下町のある屋敷にて。
部屋の照明は下げられ、冬の冷気から逃れるように暖炉の火の側に座る男女がいた。いつもなら、この応接室は男が自らの財を誇示するかのように煌びやかな調度品に彩られている。だが、照明が落とされてしまえば、暖炉の火によって像は不気味な表情を浮かべ、立派な作りの椅子は朽ちる前を思わせる積み木になってしまう。
暖炉の穏やかな火によって、映えるもの。それは男の横に座る女だろう。艶やかな濃いダークブラウンの髪に、健康的なオリーブ色の肌。ヘーゼル色の瞳は暖炉に照らされて、どこか黄金を思わせる美しい色合いを出す。それなりの年を重ねた今でも洗練されている容姿は、慈愛の母を印象付ける。
彼女の名はエグレーネ・スリン。
大陸西部地域のひとつである、ウェールド地方南部のスリン村に生まれた。父は小さな商会に属する商人の一人だった。実直な性格で、良い取引を心がける珍しい商人であった。得られた財の一部は貧民の救済に渡り、時には彼らに仕事を与えて「善良な商人」と尊敬をされた。小さなエグレーネはそんな父を尊敬して仕事を学び、商人になる夢を抱いた。
しかし、人の欲望は底知れない。エグレーネは育ち、父の事業の一部を担い始めた頃の事件だった。貧者の一人がエグレーネの父の財を羨み、仲間を募って家を襲った。家族は殺され、財はことごとく奪われた。ただし、エグレーネは生き残った。
「エグレ。何があっても出てきてはダメよ」
エグレーネが聞いた母の最後の言葉だった。壁越しに聞こえる怒声と、苦痛の声。エグレーネは恐怖で体が硬直し、耳を塞ぎ、息を潜め続けた。それからどれほど経ったのか分からないまま、隠し戸から静かになった家へ出た。そこで見た光景を、エグレーネは今でも忘れない。忘れられない。敗者は全てを奪われる。
それから彼女は、自分と一緒に隠し戸へ詰められていた財産を手に、友人たちの助けを得て故郷スリン村から消えた。数十年後、彼女は莫大な財産を手にスリン村へ帰ってきた。エグレーネが生きていたことはほとんどの人が知らなかった。村の恩人の娘が帰ってきたことを喜び、彼女は村人たちによって作られた家族の墓を知った。
「ただいま、お父さん、お母さん。全部、終わったよ」
彼女の言葉が何を意味するのか、墓を案内した人には分からなかった。だけど、その晴れやかな顔に理由を聞くのも野暮に思えた。
帰ってきた彼女は、スリン村に産業を興した。さらには、スリン村周辺の商会や商人を呼び込み「スリン商人ギルド」を立ち上げた。ギルドは着実に大きくなり、彼女は女豪商として名声を高める。遂には、この応接室に座る権力者である男と見かけは対等に話せるくらいに。
懸命に働く彼女の姿に、村人たちは在りし日のエグレーネの父を思い浮かべた。 しかし、彼らは知らなかった。エグレーネとその父の大きな違いを。貧者に対する彼女の冷酷さを。スリン村に知られることのない土地で発揮された、彼女の残虐性を。貧者は男女子供を問わず踏みつけられ、搾取され、使い潰された。過酷な労働は筆舌に尽くし難い。例えば、危険な薬物として知られるリグラムの生産で察せられるだろう。
彼女の天秤の片方には見知らぬ誰かの命が載せられ、もう片方にはスリン村とスリン商人ギルドの繁栄。どちらが重く、天秤が傾くかは考えるまでもないだろう。
スリン村の繁栄は彼女の喜びだった。父と家族が大切にした故郷。愛する隣人たちと生きる幸せ。村の子供たちは彼女を見つけると駆け寄り、憧れの言葉を贈られる。仕事に余裕がある時は、農作業や収穫を手伝う。祭りの日には、ギルドマスターの権力を使って、村人を楽しませて酔わせる。彼女にとって、村人こそ家族なのだ。
スリン商人ギルドの繁栄は彼女の大切な責務だ。尊き方を喜ばせるために。スリン商人ギルドが繁栄した理由。当然、商売の結果で得られたもの。だが、その商売には何があるか。これは一部の者しか知らないことだ。全容を知る者となれば片手で収まる程度だろう。
スリン商人ギルドの本当の姿。それは、大陸中に根を張る「巨大犯罪組織ペティーサ」だ。エグレーネ・スリンはペティーサの棟梁。組織において彼女はこう呼ばれる――「エグラーデ」と。
だが、彼女の秘密はこれだけでは収まらない。
エグラーデは至上命題を任されている。試練を乗り越え、選ばれた者にしか与えられない使命。それは、世界のどこかにいる「勇者」と呼ばれる存在の抹殺。栄光なる戦いを勝ち抜き、勝利を持って神をこの地に招かなければならない。
契約と天秤の使徒ノートラスを。
彼女こそ、使徒ノートラスに選ばれた勇者だ。幾千年もおこなわれる、使徒たちの盤上遊戯「勇者戦争」の駒のひとつだ。
彼女は戦わなければならない。財と力と大切なスリン村を守るために。
敗者は全てを奪われる。若き日に彼女が学んだ一番の教訓だ。同時に、奪うことの悦びを教え、嗜虐的な欲求を目覚めさせる切っ掛けだった。
今、彼女は新たな敗者を生み出すべく策謀する。組織の重要な事業の邪魔をした男への報復。ついでに、すでに脱獄はさせたけど元夫を投獄した仕返し。男は幸せの絶頂の時を迎えた。この時をエグラーデは待っていた。
遠目に見た結婚式で、幸せそうに妻と手を振る男の笑顔。それが、苦痛で歪み命乞いをし、見せかけの希望を信じ断たれる。絶望とも違う、形容しがたい表情を浮かべ潰える男の命を想像するだけで、彼女の腹の奥が喜びを湧き上がらせる。
蕩けそうになる表情を制した。大切な密談にも関わらず、事前にリグラムを吸引して酔いが混じり始めた男に「醜悪な豚」と心中で罵りながら微笑み話す。
「閣下。ご友人が幾人も逮捕されていると伺いましたが、計画に問題はありませんわよね?」
「そう心配するな。トゥルスキアの陰の連中が走り回っておるが、計画は進んでおる。お前が次善策として言ってきたことも、エグラド猊下は承知して戦の準備は整えておられる。あとは、穢れの聖人が餌に食いつけばお前たちが好きに料理をすればいい」
その言葉にエグラーデは微笑む。屋敷の主であり、閣下と呼ばれた男ヘルドラク司教はその微笑みに見惚れて、ワインで満たされたグラスを運ぶ手が止まる。エグラーデはひじ掛けに置かれたヘルドラク司教の手に自身の手をソッと重ねた。
「閣下。私があなたに栄光を与えますわ。全てが終わった時、世界は……」
「あぁ、あぁ。もちろんだ! わしの物は全てお前に。ペティーサに。ノートラス様のために」
「そうよ。私の醜い豚さん。我が神に全てを捧げて」
「……はい。エグラーデ様」
エグラーデのヘーゼルの瞳は黄金色に変わる。ヘルドラク司教は宝石のように美しい瞳を見て、何かに憑かれたように呆然とした様子になる。そして、エグラーデから握らせられた小瓶の蓋を開け、大切に中身を吸い込んだ。
脱力した体は震え、顔には神を発見したかのような感動を浮かべていた。
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