怒る猫 ②
忌々しげに睨み付けていたが、どうやら視線で殺せないと悟ったらしい。もろい紙でできているような慎重さで床を移動すると、悔しげに顔をゆがめて、一秒たりとも俺から目を離さず、反対側のソファに大きな尻を落とした。予想より沈んだからか、あわわと意味不明な声を出しながらも睨み付けた目は離さない。今の咲恵を見れば、ネズミを狙う猫も恥じ入るだろう。
今すぐにでもわしを叩き出したいに違いないが、幸か不幸か、咲恵は猫に触れない。だから憎悪に燃える目で睨みながら、恐怖で身体を緊張させるという珍しい芸を披露している。
里子が珈琲を運んでくると、わざとらしくついてもいない毛をソファから払いながらしゃべりだす。
「里子さん、猫なんか、早く捨てた方がいいわ。猫ってホント汚いのよ。可愛がっても恩知らずで、芸もできないし。またよりによって黒猫、縁起悪いったらありゃしない。見て、あの目つき。なんてふてぶてしい!」
「でも、清さんも可愛がってますし」
そうだ、毎晩、清の愚痴を聞いてやっているのはこのわしだ。
「清はね、優しいのよ、昔から。嫌と言えないの。そこは、あなたが気を利かせてくれないと。清も苦労するわよ。まったく。病気にでもなったらどうするの? あの子は小さい頃、喘息気味で死んだ母さんも私も本当に苦労したの。里子さんは知らないでしょうけど。喘息は年をとってからぶり返す……ひっ!」
咲恵があんまりうるさいので、ちょっと背伸びをしてみた。珈琲を取ろうとしていた手を宙に浮かせたまま、咲恵はマスクをずらした頬にゴム跡をくっきりと食い込ませたまま、恐怖に目を見開いて厚い唇を振るわせている。
咲恵は、せわしなく、目を泳がせて、やがて止まった視線の先に珈琲カップがある。いざとなったら、投げつけるつもりか。背伸びをしたら、あくびも出た。そんなわしから注意をそらすように里子が声をかける。
「あの、咲恵さん、今日は、何かご用ですか? 清さんは、あいにく少し遅いらしいんですけど」
「そ、そうなの? あの子そんなに忙しいの? まったく、いつもつかまらないわね。でも、いいわ、とりあえず、電話してくれるように言っておいて。留守電に入れてもちっともかけてこないのよ」
「そうですか。すいません。清さんに必ず電話するように伝えておきます」
「まあ、今日は一応あなたにも言っておこうと思って、実家のこと」
「はぁ。でも、私では」
「何言ってるの、本当ならあなたから言うべきよ。まったく親が亡くなってもう何年経つと思ってるの。来年は七回忌よ。いつまで空き屋のまま置いておくつもりかしら。庭の雑草も伸び放題でしょ。ご近所に何て言われているか。もう、いい加減売ってしまえばいいのよ」
「はぁ」
「はぁ、じゃないでしょ? 考えてもみて。今時は物騒で、不審火も多いのよ。空き屋から火事でも出したらどうするの? 更地にして処分したら安心だし、わずかでも分けられるでしょ? 何も私はね、お金が欲しくて言ってるんじゃないのよ。あなたと清のことを思って言ってるのよ」
「はい、ありがとうございます」
「本当に二人とも暢気よね、だいたい、清は定年後に住みたいなんて言ってるけど、そんなの無理に決まってるでしょ。あんな田舎。里子さんだって嫌でしょ。買い物だって困るでしょ」
「私は、別に……」
「何言ってるの。不便に決まってるわ。少しは先のことも考えてもご覧なさい。あんな田舎で年をとったら、一体誰が面倒を見るの? 子どももいないのに」
里子の顔が微妙に引きつる。
「そうそう、子どもと言えばうちの子、やっと大学が終わったと思ったら、今度は大学院に行きたいんですって。本当に勉強が好きなのよねぇ。子どもってお金がかかるのよ。親の苦労も知らないで。ああ、清に進学祝いは気持ちだけでいいって言っておいてね。ほら、あの子、義理堅いから。それに昔から子ども好きで、息子のこともよく可愛がってくれ……」
立ち上がって伸びをした。途端に咲恵が息を呑む。
「里子さん!! やだあれ! ほら! 動いてる!」
かまわず近づいていくと、里子が珈琲カップをさりげなく遠ざけるのを眼の隅で確認する。
「しっ! あっち行け! バカ! デブ!」
咲恵が幼稚園児並の罵声を浴びせるが、すっかり腰がひけてる。
わしは、最後の一歩にはずみをつけて、咲恵に向かって身を躍らせた。




