第12話:副会長、公務でお疲れでしょう?
母親譲りの聖母教育と、幼い弟を寝かしつけていた日課という納得の元凶によって放たれた、神前綾乃の至高の膝枕アプローチ!
下心ゼロの純度100%の善意だからこそ、健康な男子高校生である湊の理性はかつてない激震に見舞われました。
第12話は、迫り来る聖母の甘やかしに対し、湊が放つ短くキレのある「日常ヘリクツツッコミ」と「無自覚な紳士の気遣い」による完全撃退エピソードです!
最愛の許嫁・凛花への操を守るため、内心で冷汗を流しながら理性の盾を構える湊。
鼻の下を伸ばすどころか、大真面目に「人の頭はボウリングの球と同じ重さがあるから足が痺れる」と健康被害を説き、さらに相手が背負い込んだ疲れをフッと軽くしてあげる湊の塩対応をお届けします。
欲望に靡かない鉄壁の理性に、思わず心を揺さぶられてしまう綾乃のリアクションをぜひじっくりとお楽しみください!
すらりと伸びた、白く滑らかな指先が、俺のブレザーの右肩へと吸い寄せられるように迫っていた。
距離にして、わずか数センチ。
神前綾乃の身にまとう白百合と、降り注ぐ陽光に干されたばかりのリネンの清らかな香りが、まるで柔らかな毛布のように給湯室の空気を満たしている。
間近で見上げる彼女の栗色の瞳は、少しの濁りもない澄み切った泉のようだった。
そこには愛莉のような悪戯っぽいからかいも、打算的な計算の影も存在しない。
ただひたすらに、過酷な男子校舎からやってきた同級生を労わり、包み込んであげたいという、純度百パーセントの慈悲の色だけが満ちていた。
「少しだけでも、力を抜いてくださいな。私が……解して差し上げますから」
吐息が、鎖骨のあたりをふわりと撫でる。
百七十一センチの優美な立ち姿から放たれる、高校一年生のものとはとても思えない圧倒的な包容力。
もしここで目を閉じ、彼女の言う通りにその柔らかな手のひらを受け入れ、あの黒革張りのローソファーで差し出されている太ももへと頭を預けてしまったら――。
どれほど心地よいだろうか。
男子校の殺伐とした空気、汗と筋肉と規律に縛られた日々のなかで、ずっと張り詰め続けていた神経が、一瞬で溶け落ちてしまうのではないか。
健康な男子高校生としての本能が、喉の奥をゴクリと鳴らした。
心臓が肋骨の内側を激しく叩き、背筋を熱い悪寒が駆け抜けていく。
だが――その甘美な濁流に押し流されそうになった瞬間、俺の脳裏に、凛と涼やかな銀髪を揺らす一人の少女の姿が鮮烈に閃いた。
(……っ! あ、危ない……ッ!!)
俺の背筋を、冷水を浴びせられたような戦慄が貫いた。
脳内で、けたたましい非常警報が火花を散らして鳴り響く。
『我が純愛倫理規定――俺が生涯において心身を預け、甘え、最愛を誓う対象は、許嫁・月城凛花ただ一人である』
条文番号など必要ない。幼少のあの日から俺の魂に刻み込まれている、絶対不変の鉄の掟だ。
ここで他の女子の甘やかしに屈するなど、凛花への裏切り以外の何物でもない。
ましてや、壁一枚隔てた大会議室で、西校舎三千人の重責を背負って毅然と生徒会長を務めている最愛の許嫁を差し置いて、給湯室で別の女子の膝枕に沈むなど、男として万死に値する愚行だ。
(耐えろ、如月湊……! ここで踏み止まれなければ、男が廃る……ッ!)
俺は奥歯をギリリと噛み締め、指先がブレザーの生地に触れる寸前――スッと、右足を半歩だけ横へ滑らせた。
シュッ、と微かな衣擦れの音が響く。
綾乃の柔らかそうな指先が、俺の肩があったはずの空間を虚しく撫でた。
「あら……?」
空を切った自らの手を見つめ、綾乃が小首をふんわりと傾けた。
驚きというよりは、差し出した掌からふわりと飛び去っていった小鳥を見るような、無垢で不思議そうな表情だった。
俺はその隙に、給湯カウンターの角を使ってさらに三十センチほどの間合いを確保した。
背中にびっしりと冷汗が滲んでいるのを自分でも痛いほど自覚していたが、表情筋だけは意地でも平坦に固定し、極めて真面目なポーカーフェイスを取り繕う。
そして、動揺を悟られぬよう、努めて落ち着いた、だが早口なトーンで反撃の口火を切った。
「神前さん。落ち着いて聞いてください」
「え……? はい、何かしら?」
「人間の頭って、ボウリングの球と同じ重さがあるんですよ」
「ボウリングの……球……?」
聖母の口から、およそ似つかわしくない単語がオウム返しにこぼれ落ちる。
栗色の瞳が、パチパチと瞬いた。
俺は人差し指をスッと立て、一切の笑みを浮かべずに至極真面目に畳み掛けた。
「成人の頭部は、およそ五キロ前後あります。日常で言えば、ボウリング場で投げるあの重い球体とほぼ同じです」
「ご、キロ……」
「そうです。そんな重いものを太ももに乗せたら、数分で足が痺れて立てなくなりますよ」
俺は淡々と、誰でもパッと情景が浮かぶ身近な現実を突きつけた。
「ソファーに座った状態で、五キロの重量物を太ももに載せ続ければ、あっという間に血行が悪くなって感覚を失います。小休憩が終わる頃には、あなたの足は完全に痺れて、会議室まで自力で歩けなくなるのがオチです」
「えっ……足が、動かなくなってしまうのですか……?」
綾乃は自らのスカートに包まれた太ももへと視線を落とし、心底困惑したように眉を寄せた。
「それだけではありません。首の角度がおかしくなって、酷い肩こりの原因にもなります」
俺はさらに間髪を入れず、身近な生活被害を並べ立てた。
「あのローソファーの高さに対して、人の太ももの位置は不自然に高すぎます。そこに頭を乗せて横になれば、首が急角度で折れ曲がり、筋を痛めて双方にとって何のメリットもありません。健康に悪いので、お膝枕はお勧めできません」
給湯室に、しんとした静寂が落ちた。
シンクの蛇口からポタリと落ちた水滴の音だけが、やけに明瞭に響く。
東校舎の全男子が憧れ、一度でいいから甘やかされたいと夢見るであろう神前綾乃の至高のお膝枕。
それを「ボウリングの球」「数分で足が痺れる」「首が曲がって酷い肩こりになる」という、極めて身も蓋もない現実的ツッコミでバッサリと切り捨てたのだ。
普通の女子生徒であれば、あまりの無粋さに呆れ果てるか、恥をかかされたと怒って背を向けてもおかしくない場面だった。
だが、俺はそこで言葉を打ち切ることはしなかった。
息を整えた俺は、ふっと肩の力を抜き、視線をわずかに和らげた。
ただヘリクツで跳ね除けるだけでは、相手の心遣いそのものを踏みにじることになってしまう。彼女が打算や色仕掛けではなく、純粋な善意から俺を休ませようとしてくれたことだけは、疑いようのない事実だったからだ。
俺はまっすぐに、綾乃の穏やかな瞳を見つめ直した。
「神前さんの健康と、この後控えている公務効率の観点から、お膝枕はお勧めできません」
俺の声から、早口の硬さが消え、年相応の落ち着いたトーンが戻っていた。
「……それに。西校舎の副会長として常に微笑み、気を配り続けているあなた自身が、今一番疲れているんじゃないですか」
「……え?」
綾乃の動きが、ぴたりと止まった。
「各校舎の生徒たちの想いを背負うプレッシャーは、あなた方にとっても同じはずです。入室された瞬間から見ていましたが、あなたの指先は微かに強張っていましたし、呼吸も普段より少しだけ浅くなっています。他人の心配ばかりして、無理をして誰かを甘やかす必要はありません」
俺は給湯カウンターに置かれていた、ガラスのティーポットをトンと指先で軽く示した。
「誰かを甘やかす前に、まずはご自分を休ませてください。――立派な聖母である前に、あなたも俺たちと同じ、ただの一年生なんですから。普通にソファーへ腰掛けて、温かいお茶を飲んでください」
「…………っ」
綾乃の唇が、微かに開いたまま固まった。
その切れ長の美しい瞳が、今度こそ信じられないものを見るように見開かれていた。
ただの一年生。
その言葉が、彼女の胸の奥底にどれほどの衝撃をもたらしたか、俺には知る由もなかった。
神前綾乃という少女は、物心ついた頃から「神前家の令嬢」であり、「聖母のような母の娘」であり、「しっかり者の姉」であり続けた。
名門財団の後継者として、誰に対しても分け隔てなく慈愛を注ぎ、幼い弟の面倒を見、学校でも周囲から頼られ、相談を受け、包み込む側であり続けることを求められてきた。
誰かに甘えることなど許されず、ましてや同年代の男子から「あなたが一番疲れている」「あなた自身が休むように」などと正面から指摘されたことなど、彼女のこれまでの人生で、ただの一度たりとも存在しなかったのだ。
「ボウリングの……球……。ふふ……それに、ただの一年生、ですか……」
ぽつりと、綾乃の口から言葉が零れた。
次の瞬間。
綾乃の白磁のような両頬が、ぽっと、淡い桜色に染まった。
それは愛莉のような羞恥による真っ赤な爆発ではなく、心の奥の一番柔らかい部分を不意打ちで触れられてしまった少女の、隠しようのない動揺と熱だった。
「……ふふっ」
綾乃は白い手のひらを口元に当て、喉を小さく鳴らした。
「あらあら……ふふふっ……!」
堪えきれなくなったように、鈴を転がすような笑い声が給湯室に響き渡った。
それはこれまでの完璧で優雅な微笑みとはまるで違う、年相応の少女が心の底から面白がっている、飾らない笑顔だった。
「本当に……ふふ、本当に真面目で、おかしな方ですね、湊くんは」
綾乃は目尻に微かに浮かんだ涙を指先でぬぐい、熱の残る瞳で俺をじっと見つめた。
「お膝枕をボウリングの球に例えて断られたのも初めてですし……殿方から、私自身が休むようにと労わられてしまいましたのも、生まれて初めてですわ」
「叱ったつもりも、説教をしたつもりもありません。客観的な事実と健康管理上の提案を申し上げただけです」
俺が少しだけバツが悪そうに視線を逸らすと、綾乃はますます愛おしそうに目を細めた。
「ええ、よくわかりました。私の足の痺れまで真剣に心配してくださって、ありがとうございます。――ふふっ、湊くんのおっしゃる通り、お膝枕はまたの機会にして、普通にお茶をいただくことにいたしますね」
(……あはは、心臓に悪いのでご遠慮したいです)
内心で冷汗を拭いながら即座にツッコミを入れたが、ひとまず目の前の危機は完全に脱したようだった。
綾乃の瞳からは、先ほどまでの「無自覚な甘やかしの暴走」が消え、代わりに俺という一人の男子に対する、深く、柔らかな敬意と興味の光が宿っていた。
「お湯の温度は下がってしまっていませんか?」
綾乃が楽しげに尋ねてくる。
「問題ありません。カモミールのようなハーブは、抽出温度が高すぎると苦味が出ます。九十度前後が最も甘く穏やかな香りを引き出せますから、今がベストタイミングです」
俺は給湯サーバーから手際よくお湯を注ぎ、ガラスポットの蓋を閉めた。
透明なお湯の中で、淡い黄色の花弁がふわりと広がり、甘く優しい香りが湯気とともに立ち上っていく。
「蒸らし時間は三分です。砂時計を置いておきますので、落ちきったらカップへ注いでください。西校舎の皆様も、これを飲めば肩の力が抜けるはずです」
「まあ……とても手慣れていらっしゃるのですね」
綾乃は感嘆の声を漏らし、カウンター越しに俺の手元をまじまじと見つめた。
「美味しいお茶の淹れ方までご存知だなんて。……本当に、不思議な方。知れば知るほど、もっとお話ししてみたくなってしまいますわ」
「実家で叩き込まれただけです。……そろそろ時間ですね」
ピピッ、ピピッ、ピピッ。
俺の言葉と重なるように、タワーの壁面に埋め込まれたデジタルクロックが、小休憩の終了三分前を告げる電子音を鳴らした。
十五分という短い時間は、あまりにも濃密な二つの甘いアプローチの襲来によって、あっという間に過ぎ去ってしまった。
「では、会議室へ戻りましょうか」
綾乃は丁寧に淹れられたハーブティーのポットとカップを銀のトレイに乗せ、ふわりと微笑んだ。
「湊くん、お茶を手伝ってくださってありがとうございました。後半のセッションも……どうぞよろしくお願いいたしますね」
「こちらこそ、失礼な物言いをお許しください。神前副会長」
俺は一礼し、適切な同僚としての距離感を保ったまま、給湯室のドアを開けた。
廊下を抜け、厚さ二十センチの防音二重扉へと向かう。
その向こうには、すでに愛莉が席に戻っているはずだ。そして、俺の帰りを待っている男子生徒会の面々と、何より――あの冷徹な仮面の下で、俺の動向を誰よりも鋭く見つめているであろう、銀髪ポニーテールの生徒会長・月城凛花が待っている。
俺はブレザーの襟を正し、黒檀の扉へと手をかけた。
初対面の東西合同会議、その後半戦の火蓋が切って落とされようとしていた。
第12話をお読みいただき、誠にありがとうございました!
神前綾乃の至高の膝枕アプローチを、脳内の純愛倫理規定で耐え抜き、「人の頭はボウリングの球と同じ重さだから足が痺れる」という身も蓋もない現実的ツッコミで完全撃退いたしました!
そして、ただ論破するだけでなく、「立派な聖母である前に、同じ高校一年生」と無自覚に相手を労わる湊の誠実な紳士っぷりに、綾乃も思わず頬を染め、一人の男子として強く惹かれる形となりました。
甘やかす側だった聖母が、生まれて初めて甘やかされる側に回った瞬間のギャップを楽しんでいただけましたら幸いです!
十五分の小休憩が終わり、舞台はいよいよ東西合同大会議室へ!
愛莉と綾乃を立て続けにあしらって戻ってきた湊を、西校舎の令嬢たちはどう見ているのか――!?
次回、第13話もどうぞよろしくお願いいたします。




