第11話:あらあら、湊くんはお疲れのようですね?(聖母系シスター綾乃)
落とした手縫いマスコットを取りに戻り、「バカにするんでしょ!」と涙目で身構えていた愛莉でしたが、湊の真っ直ぐな職人目線の称賛によって見事にノックアウトされ、最初の「秘密の共犯者」となりました!
第11話からは、休む間もなく次のアプローチ――西校舎副会長・神前綾乃による「天然お膝枕アプローチ」が開幕します!
打算も悪意も一切ない、純度100%の慈愛とお世話焼きだからこそ、男子高校生の理性にとって最も抗いがたい聖母の甘やかし。
最愛の許嫁・凛花への操を守るため、必死に踏み止まろうと葛藤する湊の男の子らしい奮闘をぜひお楽しみください!
タタタタタッ……!
愛莉のヒールが絨毯を蹴立てて遠ざかっていく慌ただしい足音が、やがて完全に途絶えた。
給湯室のドアがバタンと閉まり、静寂が再び戻ってくる。
俺は深く、肺の底に溜まっていた息をすべて吐き出した。
(……嵐のような奴だったな)
俺は給湯カウンターに手をつき、首筋を軽く回した。
だが、手芸という誰にも言えない秘密を共有したことで、少なくとも城崎愛莉という生徒が東校舎に対して理不尽な敵意を向けてくる可能性は大きく減ったはずだ。
むしろ、彼女が抱えていた劣等感や孤独の深さを思えば、あのように素直に動揺して走り去っていった姿には、どこか年相応の可愛らしさすらあった。
「さて、こちらもそろそろ戻らなければ」
十五分の小休憩も、残すところあと数分だ。
淹れたての玉露はすでに愛莉との押し問答の間にすっかり冷めてしまっていたが、喉を潤すには十分だった。俺は冷めたお茶を一気に煽り、白磁の湯呑みをシンクで丁寧に水洗いし始めた。
スポンジに洗剤を含ませ、茶渋が残らないよう底まで均一に洗う。実家の厨房で徹底的に叩き込まれた所作を無心で繰り返していると――。
スゥッ……と。
背後のドアが、音もなく静かに横へとスライドした。
「……?」
俺が振り返ると同時に、ふわりと柔らかな風が給湯室を満たした。
それは愛莉のような華やかで刺激的な柑橘系の香水とはまったく異なる、どこまでも清純で、どこか懐かしさを覚える香りだった。
降り注ぐ陽光に干されたばかりの真っ白なシーツ、そして教会の祭壇に手向けられた白百合を思わせる、甘く優しい石鹸の香り。
ドアの前に佇んでいたのは、神前綾乃だった。
百七十一センチの、すらりと優雅な立ち姿。
頭部をすっぽりと覆う純白の修道女のベール、そして足首まで届く漆黒のシスター服。
胸元には鈍い輝きを放つ白銀の十字架が揺れ、豊かに波打つ栗色の前髪が、慈愛に満ちた穏やかな瞳を優しく縁取っていた。
とても俺たちと同じ高校一年生とは思えない。まるで何十年もの歳月を祈りと慈悲に捧げてきた聖母のような、圧倒的な静けさと包容力を全身から漂わせていた。
「あらあら……?」
綾乃は小首をふんわりと傾け、鈴を転がすような美声で呟いた。
「愛莉ちゃん、廊下の向こうでリンゴのように真っ赤なお顔をしてしゃがみ込んでおりましたけれど……如月くん、まだこちらにいらっしゃったのですね」
「神前さん。お茶の後片付けをしておりました。城崎さんには……少し部屋の温度が高かったのかもしれません、とだけ」
俺は愛莉との約束を守り、表情筋を一切動かさずに事実をぼかした。
綾乃は「ふふっ、そうですか」と優しげに目を細めた。
咎める色も、詮索する気配も微塵もない。相手の言葉をそのまま丸ごと包み込んで受け止めるような、どこまでも柔らかな笑みだった。
「西校舎の皆様へ、温かいカモミールティーをお淹れしようと思いまして。皆様、最初のセッションでずいぶんと肩に力が入っていらっしゃいましたから」
綾乃は手にしていた銀のトレイとガラスのポットをカウンターに置き、給湯サーバーのコックへと手を伸ばした。
所作の一つ一つが驚くほど滑らかで、一切の角がない。
見ているだけでこちらの呼吸まで深くなってしまいそうな、不思議な安らぎに満ちた佇まいだった。
だが――綾乃はお湯を注ぐ手をふと止め、栗色の瞳をこちらへと向けた。
その視線が、俺のブレザーの肩口、わずかに強張った首筋、そして無意識に浅くなっていた呼吸を、慈しむようにじっと見つめていた。
「如月くん……とてもお疲れのようですね?」
「……え?」
唐突な言葉に、俺は思わず眉を微かに動かした。
「わかりますよ」
綾乃の声は、まるで雪の日に差し出された温かいミルクのように、すっと胸の奥へ染み込んできた。
「東校舎の三千人もの殿方たちの期待を一身に背負い、あのような物々しい境界タワーへと駆り出されて……。お一人で膨大な議事案を記録し、休む間もなく周囲に気を配っていらっしゃる。――迷える子羊が、こんなにも痛々しいお顔をして頑張っていらっしゃるのですもの」
「いえ、私は生徒会庶務としての当然の公務を果たしているだけです。過労や不調には及びません」
俺は努めて平坦な声で返した。
だが、綾乃はその否定を、愛おしい子どもの強がりをあやすような微笑みで受け流した。
「無理をなさらないで。殿方は皆様、そうやって一人で重荷を背負い込もうとなさるのですから」
綾乃は静かに身を翻すと、給湯カウンターの向かいに置かれた、深い黒革張りのローソファーへと歩み寄った。
シスター服の長いスカートの裾を優雅に整え、ソファーの中央へと腰を下ろす。
そして、背筋をすっと伸ばしたまま、俺の方を穏やかに見つめると――。
トントン、と。
シスター服に包まれた、豊かで柔らかそうな自らの太ももを、真っ白な手のひらで愛おしそうに、優しく叩いてみせた。
「こちらへいらっしゃい、湊くん。ここへ頭を乗せて……ほんの少し、お休みになりませんか……?」
「…………っ!?」
俺の思考回路が、一瞬で真っ白に吹き飛んだ。
湊くん。
他所行きの「如月くん」ではなく、耳元を甘く撫でるような距離感の呼び名。
そして、目の前で差し出されているのは、男子高校生にとって核兵器にも匹敵する破壊力を秘めた――正真正銘の、お膝枕だった。
ドクンッ、と。
俺の心臓が、肋骨の内側で重く跳ね上がった。
(……な、なんだこれは……!?)
喉が、ゴクリと勝手に鳴った。
黒い布地に包まれた綾乃の太ももは、見るからに柔らかく、温もりを湛えているのが分かった。
漂ってくる白百合と洗い立てのリネンの香りが、鼻腔をくすぐる。
男子校の殺伐とした空気、筋肉と汗の匂いに満ちた東校舎で、ずっと気を張り詰め、孤独に知略の盾を構え続けてきた俺の精神の隙間に、その甘い香りと聖母の微笑みが、恐ろしいほどの引力を持って侵入してくる。
(……あ、甘い……。なんだこの圧倒的な安心感は……!?)
背筋に、ゾクッと熱い悪寒が走る。
もし、あそこに頭を預けてしまったら。
あの柔らかな太ももに顔を埋め、上から優しく頭を撫でられでもしたら――。
男子高校生としての自我も、東校舎のプライドも、何もかもが一瞬で溶けてなくなり、二度とこの現実の世界に戻ってこられなくなるのではないか。
そんな本能的な恐怖と、甘美すぎる誘惑が、俺の脳内で激しくせめぎ合っていた。
だが――俺は歯を食いしばり、必死に足を踏み止まらせた。
(いかん……! 惑わされるな、如月湊……! ここで身を委ねてみろ、今夜の凛花との裏通話で『湊くん、誰の膝に乗ってたの……?』と絶対零度の視線で処刑されることになるぞ……ッ!)
俺は冷汗を背中にびっしりと滲ませながら、なんとかポーカーフェイスを取り繕った。
そして、少しだけ引き攣りそうになる唇を引き締め、真顔のまま口を開いた。
「……神前さん。お気遣いは恐縮ですが、いくらなんでも初対面の男子生徒に対して膝枕を勧めるのは、風紀的にも、一般的な常識から見ても極めて不適切です」
俺の精一杯の、大真面目な正論ツッコミだった。
だが、綾乃は恥じらうでも、動揺するでもなく、ふわりと小首を傾げただけだった。
その瞳には、からかいの色も、計算ずくの色仕掛けの気配も、カケラほども存在していなかった。
「あら? 不適切……ですの?」
綾乃は不思議そうに瞬きをし、心底から無邪気な声で言った。
「私の実家では、昔からごく自然なことですのよ。母がいつも、仕事でお疲れの父や、甘えん坊の弟をお膝に乗せて、優しく頭を撫でて休ませてあげていましたもの」
「……お母様が?」
「ええ。母はとても慈悲深く温かい方で、『疲れた殿方は、温もりで包み込んで差し上げるのが一番の特効薬ですよ』と、いつも私に教えてくださいましたの。それに……」
綾乃は胸元の十字架にそっと指先を添え、ふふっと懐かしそうに微笑んだ。
「私自身も、家では小学二年生になる弟の奏太を、いつもこうしてお膝に乗せて寝かしつけておりましたから。如月くんがあまりにも辛そうに肩を強張らせていらっしゃいましたので、つい……弟を思い出し、休ませて差し上げたくなってしまいましたの」
「…………っ」
俺の背筋を、今度はまったく別の種類の冷汗が滝のように流れ落ちた。
(……母親の家庭教育と、弟のお世話習慣が元凶か……ッ!?)
戦慄だった。
神前綾乃の実家は、日本最古のカトリック教育財団を牛耳る名門中の名門。
母親の神前華怜は、周囲から「現代の聖母マリア」と崇められる絶世の美女であり、誰に対しても分け隔てなく慈愛を注ぐ規格外の人物だと聞いている。
その母親から幼少期より「疲れた方は温もりで包み込むべし」という教育を受け、さらに日常的に幼い弟を膝の上で寝かしつけてきたという、筋金入りの姉心。
つまり、彼女にとってこの「お膝枕」は――。
男子をからかうための計算などではなく、挨拶やお茶出しと完全に同列の、純度百パーセントの善意による日常ルーティンなのだ。
(悪意や下心がない……! だからこそ、最も防ぐのが困難な猛烈な甘やかしだ……!)
愛莉のように「からかって赤面させてやる」というプライドから来るアプローチなら、理屈でバッサリ切り捨てることも容易い。
だが、目の前の少女は、傷ついた小鳥に手を差し伸べる聖者のように、純粋な慈悲だけで太ももをトントンと叩いているのだ。
下心ゼロの無自覚な母性。
これほど男子高校生の理性を根底から揺さぶる劇薬が、この世にあるだろうか。
「ほら、湊くん。遠慮なさらないで」
綾乃は再び、愛おしそうに太ももをポンポンと叩いた。
「ほんの五分でも目を閉じるだけで、頭の重みもすっきりと消えてなくなりますわ。誰も見ておりませんし……ここは二人きりですもの」
悪気のない甘い囁きが、給湯室の静寂に溶けていく。
太ももの布地が擦れる微かな音が、俺の鼓膜を狂おしいほど刺激した。
(……ぐっ、まずい。空気が危険すぎる……!)
俺は視線を無理やりカウンターの上へと逸らし、手元に残っていたカモミールティーのティーバッグへと手を伸ばした。
このまま相手のペースに呑まれれば、本能の濁流に押し流されてしまう。
物理的、かつ論理的な距離を保つために、俺は早口で公務の話題へと逃げ込んだ。
「か、感謝いたしますが、お気持ちだけで十分です。それよりも神前さん、お湯の温度が下がってしまいます。カモミールのようなジャーマンカモミールの浸出には、九十五度前後の熱湯でしっかりと香りを引き出す必要がありますので、早く抽出を――」
「ふふっ……本当に真面目な方」
だが、綾乃はその場に留まってはくれなかった。
彼女はソファーからしなやかな所作で立ち上がると、長いスカートを揺らし、おっとりとした歩調でカウンターの俺の方へと近づいてきたのだ。
カツン、カツン、と。
柔らかな靴音が近づくたびに、白百合の甘い香りが濃厚さを増していく。
綾乃は俺の正面、わずか四十センチの距離で足を止めると、小首を傾げて俺を優しく見上げた。
百七十一センチの長身。俺との身長差はわずか四センチしかなく、彼女の切れ長の美しい瞳が、至近距離で俺の顔を覗き込んでいる。
「そんなに肩を強張らせて、お茶の温度ばかり気に病んで……」
綾乃の柔らかく白い手が、ふわりと持ち上がった。
その細くしなやかな指先が、俺のブレザーの肩口へと、吸い寄せられるように伸ばされる。
「少しだけでも、力を抜いてくださいな。私が……解して差し上げますから」
慈愛に満ちた聖母の吐息が、俺の鎖骨のあたりをふわりと撫でた。
触れられそうになる肩。
そして、背後には逃げ場のない黒御影石のカウンター。
――このままでは、大人の包容力という名の甘い檻に、完全に捕らわれてしまう。
その瞬間、俺の脳内で、限界まで張り詰めていた防衛プログラムがけたたましい警報を鳴り響かせた。
(……やるしかない。これ以上の接近を許せば、俺の純愛倫理規定が灰燼に帰す……!)
俺は息を深く吸い込み、迫り来る聖母の慈愛に対し、脳内に蓄積された生体知識の迎撃コードを、一気にフル稼働させた――!
第11話をお読みいただき、誠にありがとうございました!
計算なしの天然母性100%だからこそ最も防ぐのが難しい、神前綾乃の膝枕アプローチ!
母親譲りの聖母教育と、幼い弟を寝かしつけていた日課という納得の元凶に、湊も戦慄を隠せませんでした。
そして、圧倒的な包容力と甘い香りに一瞬魂を持っていかれそうになり、喉を鳴らしながら必死に理性を保とうと葛藤する湊の男の子らしい奮闘を楽しんでいただけましたら幸いです!
物語は、いよいよ膝枕撃退のクライマックスへ!
次回、第12話もどうぞよろしくお願いいたします。




