手を取って
ユウナは、しばらく何も言えなかった。
軽口も。
ありきたりな慰めも。
気の利いた言葉も。
何一つとして、喉から出てこなかった。
目の前にいるのは、精巧な機械などではない。
三百年という永劫を、独りで生きることを強いられた人間。
その、あまりにも痛切な残響だった。
ルシエラが、無意識に拳を握りしめる。
リリアも唇を固く引き結んだまま、静かに見守っていた。
やがて、ユウナはゆっくりと一歩前へ踏み出した。
「……エリス」
その名を呼ぶ声は、これまでで一番柔らかく、温かかった。
「あなたは……本当に、それを望んでいるの?」
それは確認でも、命令でもない。
ただ一人の対等な存在として。
彼女の意志を、最後に確かめるための問いだった。
『はい』
エリスは静かに、しかし明確に頷いた。
『私をこのままにしておけば、遠からず私は狂い……ザイードと同じ存在になります』
そして彼女は、この遺跡がなぜ今になって姿を現したのか、その真実を語り始めた。
『三百年余り前、魔動機文明が敗れた後も、ザイードは研究を継続していました』
エリスの声はわずかに揺れていた。
それでも、一つ一つの言葉を正確に紡ぐ。
『やがて、生き残った人族が再び文明を築き、繁栄し始めたことを知ったザイードは、ラボの隠蔽を解除しました』
「……人族を誘い込むため?」
『はい』
エリスは頷く。
『目的は、現在の人族の“強さ”を測ること』
ホールに沈黙が落ちる。
『このラボは、完成当時でさえ鉄壁の防衛力を有していました。現在の文明水準であれば、施設内に誘導して迎撃すれば容易に制圧できると判断していたのです』
その判断は、決して的外れではなかった。
ここまで辿り着ける者など、ほとんどいない。
ユウナたちでさえ、幾度も死線を踏み越えてようやくこの場に立っている。
『そして、人族が想定内の強さであれば……蓄えた戦力で侵攻を開始し、すべてを征服し、実験を再開する計画でした』
「……本当に、最悪ですね~」
リリアの声に、いつもの軽さはなかった。
エリスはゆっくりと目を伏せる。
『三百年間の演算で、理論だけは完成しています』
一拍。
『そして“それ”は……私の中にも、バックアップとして残されています』
三人が息を呑んだ。
エリスは、狂気の種をその身に宿したまま、ずっと自らの意志でそれを封じ込めてきたのだ。
三百年以上も。
独りで。
『私は、そんなものになりたくありません』
声が、わずかに崩れる。
『しかし……自壊は、プログラムによって禁じられています』
エリスは両手で顔を覆った。
『抗う術がもう、私には……だから、お願いします』
彼女は、自らが辿るかもしれない運命を知っていた。
だからこそ、終わりを願った。
だが――ユウナは違った。
「ねえ、エリス」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「独りが寂しいならさ……私たちと一緒に来ない?」
『……無理です』
エリスは顔を手で覆ったまま左右に振る。
『施設外への退出は、厳重に禁止されています』
「でも、命令系統を総括していたアイツは、もうああなったわ」
ユウナは、破壊された円柱――ザイードの残骸を指差した。
「なら、試してみる価値はあるでしょう?」
そこでエリスは顔を上げる。
しかし、その表情は曇ったままだった。
『ですが……』
「もし本当に外へ出られなくて、あなたが壊れそうになったら」
ユウナはまっすぐにエリスを見つめる。
「その時は、私が責任を持つ」
短い言葉だった。
しかしそこには、逃げも誤魔化しもなかった。
「だから今は、独りで終わりを決めないで」
そう言うが早いか、ユウナはエリスの手を取った。
『え?……待ってくださ』
エリスが戸惑う。
しかし、その言葉が終わるより早く、ユウナは駆け出していた。
「運命は待ってくれないわよ!」
冷たい迷宮を、出口の光へ向かって走る。
エリスの手を引いて。
狂気と孤独に閉ざされた檻から、彼女を引きずり出すように。
その背中を、ルシエラは眩しそうな目で見つめていた。
――ああ、あの人は、いつだってそうだ。
絶望の淵にいた自分を。
あんな風に強引に。
けれど優しく、救い出してくれた。
――大丈夫。
ルシエラは、胸の奥で確信する。
――ユウナがそう言うなら、今回もきっと大丈夫。
「ほら、ルシエラさん。わたしたちも行きましょ~!」
リリアが笑いながら駆け出す。
いつも通りの軽やかな笑みには、自分と同じく、ユウナへの信頼が感じ取れた。
「はい!」
ルシエラもまた、力強く地を蹴る。
狂気と孤独の遺跡を背に。
四人の足音は一つのリズムとなって、未知なる外の世界へと響き渡っていった。




