エリスの願い
「……壊しちゃったわね」
ユウナが、ぽつりと呟いた。
目の前には、無惨に砕け散った巨大な円柱が横たわっている。
先ほどまで青白い光を脈打たせ、この遺跡の心臓として君臨していたもの。
ザイードの狂気を宿し、三百年以上もの間、禁忌の研究を続けさせていた中枢。
今はもう、何も語らない。
不気味な脈動も、狂った声も、赤黒い光も消え失せ、ただの巨大な残骸となって沈黙していた。
「ですね~」
「仕方ないと思います」
リリアとルシエラが、ほとんど同じ調子で頷いた。
「でも、この施設の技術そのものは……正直、惜しかったわね」
「ですね~」
「仕方ないと思います」
施設のすべてを統括する知性が、あのような狂気に染まったザイードであった時点で、穏便に技術だけを接収することなど不可能だった。
それは三人とも分かっている。
この場所に眠っていたものは、確かに人族の暮らしを変えうる技術だった。
水を生み、火を使わず熱を扱い、照明を保ち、魔動機を自律生産する。
だが同時に、魂を部品として扱い、命を実験材料とする思想と不可分でもあった。
「だけど、何か他に方法はなかったかなって、つい考えちゃうわ」
「ですね~」
「仕方ないと思います」
戦いが終われば、途端に間の抜けたやり取りに戻る。
張り詰めていた空気が、少しずつ解けていく。
疲労も、痛みも、後悔も、すぐに消えるわけではない。
それでも、こうして言葉を交わせるだけの余裕は戻ってきていた。
そんな三人へ、背後から静かな声がかけられた。
『おめでとうございます』
振り返ると、そこにはエリスが立っていた。
銀の髪。
清潔なメイド服。
感情の読めない瞳。
いつも通りの、完璧に整った姿。
『目的を達せられたようで、重畳の至りでございます』
エリスは、機械的なまでに美しい所作で一礼した。
「……あなたには世話になったわね、エリス」
ユウナは剣を納め、少し複雑な表情で彼女を見つめる。
「でも、本当に良かったの? あなたはこの施設を守って、維持するのが任務だったんじゃないの?」
エリスは、わずかにすらも表情を動かさず答えた。
『“守る”という定義の解釈の違いです』
淡々とした声。
『当機の優先使命は、生活空間を維持すること。そして、お客様を適切にご案内することにございました』
「……そう」
ユウナは静かに目を細めた。
――意図的に、解釈を歪めている。
そう直感した。
エリスは命令に背いたわけではない。
だが、命令の隙間を縫った。
施設を守ること。
来訪者を案内すること。
生活空間を維持すること。
その定義を、自分に許された範囲で都合よく解釈して、ユウナたちをここまで導いたのだ。
それがプログラムの揺らぎなのか。
それとも、人だった頃の魂の残滓なのか。
ユウナには分からない。
分からないからこそ、胸の奥がざわついた。
「まあ、世話になったのは事実だし……」
ユウナは表情を和らげる。
「何かお礼をしたいんだけど?」
どうせ返ってくる答えは決まっている。
――礼には及びません。
――当機は職務を遂行したのみです。
そんな無機質な返事が返ってくるだろう。
ユウナは、半分以上そう思っていた。
だが。
『それならば……一つ、お願いがございます』
予想外の言葉に、ユウナは目を瞬かせた。
「えっ、本当?」
声が少し弾む。
「言ってみて。私にできることなら、できる限り応えたいわ」
ルシエラとリリアも、わずかに意外そうな顔をする。
エリスは、まばたきひとつしなかった。
『ありがとうございます。
それでは……お願い申し上げます』
ただ真っ直ぐに、ユウナの瞳を見つめる。
『当機を――』
静かな声だった。
あまりにも静かで。
あまりにも澄んでいて。
だからこそ、その次の言葉は、刃よりも鋭く三人の胸を抉った。
『――破壊してください』
空気が止まった。
ユウナの表情から、色が消える。
ルシエラは息を呑み、リリアの手がわずかに震えた。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
勝利の余韻も、冗談めいた軽さも、すべてが消えていた。
そこにはただ、三百年以上もの時をこの場所に縛られてきた一人の存在が、静かに立っていた。
―――
「何を……言ってるの?」
長い沈黙の後、ようやく絞り出したユウナの乾いた声が、静まり返ったホールに冷たく響いた。
聞き間違いであってほしい。
そんな願いが言葉からにじみ出る。
だが、それを裏切るように、エリスは三人の視線を正面から受け止めた。
そして、静かに目を閉じる。
三百五十二年前。
彼女は、望まぬ実験によって人としての生を奪われた。
肉体を失い、魂を機械の器へと移され、管理補佐個体〈エリス〉としてここに残された。
二百八十九年前。
魔動機文明の敗北と共に、この施設から最後の人間が消えた。
以来、彼女は独りだった。
眠ることもなく。
食べることもなく。
誰かと語らうこともなく。
ただ黙々と、果てしない時間を「管理」という任務に捧げ続けてきた。
埃一つない通路。
絶えることのない照明。
自律生産され続ける魔動機。
完璧に保たれた生活設備。
そのすべては、彼女にとって巨大で清潔な檻であった。
そこへユウナたちが現れた。
施設の定義で言えば、不法な侵入者。
魔動機文明時代の定義に則るならば、蛮人。
けれど彼女たちは、驚くほど理知的だった。
理知的でありながら、どこか抜けていた。
抜けているのに、眩しいほど強かった。
それは、肉体や魔力の強さだけではない。
傷つき、迷い、恐れ、それでも前を向こうとする。
互いを支え、怒り、笑い、手を伸ばす。
魂の芯の強さだった。
共にしたのは、ほんの半日にも満たない時間。
その短い時間で、ユウナたちがエリスに見せたもの――
食卓を囲み、温かな茶を飲み、くだらないやり取りを交わし、命を預け合って戦うこと。
それは、エリスが遠い昔に奪われたものだった。
熱。
明るさ。
誰かが隣にいるという感覚。
永い時間の中で凍りついていた彼女の心に、それらはあまりにも深く染み込んでしまった。
『少し……疲れました』
エリスの声が、初めて震えた。
鉄の規律を保っていた背筋が、わずかに揺れる。
『楽しいという感情を……思い出してしまいました』
ゆっくりと、彼女が目を開ける。
その瞳から、一筋の雫が零れ落ちた。
『もう……独りには、耐えられません』
頬を伝い、床に落ちて弾ける透明な雫。
それを見た瞬間、ユウナたちは理解した。
エリスは、無感情だったのではない。
狂気に満ちたこの場所で、独り、任務を果たし続けるために。
いつ終わるとも知れない、あまりにも長い孤独を越えるために。
感情を殺し続けるしかなかったのだ。
そうしなければ、壊れてしまうから。
そうしなければ、この静かで冷たい檻の中に立ち続けることなどできなかったから。
『お願いです』
エリスは静かに言った。
涙は止まらない。
それでも声だけは、必死に形を保とうとしていた。
『当機の全機能を停止させてください』
一拍。
『私を……終わらせてください』
機械のはずの両目から溢れる、あまりにも人間らしい涙。
その哀切な願いに、ユウナは剣の重さを、かつてないほど痛烈に感じていた。




