休息
「……少し、眠りましょう」
ユウナは頭を横に振り、重い息を吐いた。
体力も、魔力も、すでに限界に近い。
そこへ、想像を絶する歴史の闇を叩きつけられた。
こめかみの奥が、鈍く脈打つように痛んでいる。
「どうやら、ここは安全圏としてちゃんと機能してるみたいだし」
声には、疲労が滲んでいた。
「今のうちにしっかり回復しておかないと、この先は保たないわ」
「……そうですね」
ルシエラも、絞り出すような声で頷いた。
彼女もまた、限界だった。
戦闘の疲労だけではない。
エリスの正体を知ったことで、心の奥に重い鉛のようなものが沈んでいる。
荷物を解き、毛布を取り出そうとした、その時だった。
『睡眠ならば』
エリスが、いつも通りの澄んだ声で言った。
『セーフルームには基本設備として、ベッドも備わっておりますが』
三人は、思わず部屋を見回した。
しかし、そこにあるのは殺風景な金属の床と壁ばかりだった。
寝具の影など、どこにも見当たらない。
「アレですか~?」
リリアが、努めて明るい声で言う。
「またボタン操作で、壁からベッドがせり出してくるとか~?」
『いえ』
エリスは淡々と答えた。
言いながらエリスが手近なパネルへ指を触れた。
低く、重々しい駆動音が部屋の中に響く。
床の一部が音もなく分割され、内側へ滑り込むように開いた。
そして、その下から――三つの清潔なベッドが、ゆっくりとせり上がってきた。
『床からです』
白い寝具。
無駄のない金属製のフレーム。
簡素だが、完璧に整っている。
「………………」
リリアが口を開け、珍しく間の抜けた顔で固まっていた。
「……まあ、ありがたく使わせてもらいましょう」
ユウナは苦笑しながら、鎧の留め金を外した。
またとない機会ではあるが、リリアをからかう余裕は、さすがに今はなかった。
ふと、ユウナの視線がエリスへ向く。
銀髪のメイドは、部屋の隅に静かに立っていた。
背筋を伸ばし、手を前で揃え、ただ控えている。
眠る気配はない。
ユウナの視線に気づいたのか、エリスは表情を変えぬまま告げた。
『当機は睡眠を必要としておりません。
どうぞ、お気になさらず』
「……分かったわ」
ユウナは、それ以上を問わなかった。
問い詰めたところで、今の自分に何ができるわけでもない。
それに、エリスはきっと答えるだろう。
正確に。
淡々と。
――痛みすら仕様の一部であるかのように。
「じゃあ、おやすみ」
三人は、それぞれベッドへ横になった。
柔らかい。
想像していた以上に、身体を受け止めてくれる。
だが、眠れなかった。
身体は悲鳴を上げている。
まぶたも重い。
それでも意識だけが、妙に冴えている。
理由は考えるまでもない。
傍に立つ、エリスという存在。
三百年以上、この遺跡の奥で稼働し続けてきた管理補佐個体。
かつて人間だった魂を、機械の身体へ移し替えられた実験体。
彼女は眠らない。
食べない。
老いない。
死ねるのかどうかすら、分からない。
三百年。
その長さを想像しようとして、ユウナはすぐに諦めた。
人が一人で耐えられる時間ではない。
振り払うように、頭を少し動かす。
その時だった。
かすかな歌声が、鼓膜を震わせた。
聞き覚えのない旋律。
透き通るような声だった。
澄んでいて、どこまでも綺麗。
「……エリス?」
ユウナが小さく声をかける。
歌声は、ぴたりと止まった。
『御用でしょうか?』
いつもの、抑揚のない声。
「今の歌声……あなたが歌っていたの?」
『当機には歌唱機能は実装されておりません』
無機質な否定だった。
迷いも、照れも、嘘をついている気配もない。
ただ、機能として存在しないと告げている。
「……そう」
ユウナはそれ以上追及しなかった。
再び目を閉じる。
しばらくのあいだ、部屋には静寂だけがあった。
空調のかすかな音。
どこか遠くで響く、施設の駆動音。
それから、三人の浅い呼吸。
やがて――
また、歌声が聞こえてきた。
子守唄のようでもあり、祈りのような優しい響きだった。
人のために作られた機械の奥底に、まだ消えずに残っていた何かが、静かに漏れ出ているようだった。
ユウナは、もう声をかけなかった。
ルシエラも、リリアも、何も言わない。
その不思議な安らぎに誘われるように、三人の呼吸は少しずつ深くなっていく。
そしていつしか、彼女たちは深い眠りへと落ちていった。
―――
目が覚めた時、頭の中はずいぶんと澄んでいた。
昨夜聞いた事実は、まだ消えたわけではない。
エリスという存在。
この施設で行われていた研究。
魂を機械へ移し替えるという、あまりにも冒涜的な技術。
それらは今も、頭の片隅に重く沈んでいる。
しかし、眠りは確かに三人の心身を回復させていた。
疲労で鈍っていた思考は戻り、枯れかけていた魔力も満ちている。
何より、前へ進むために気持ちを切り替えられるだけの余裕が生まれていた。
『おはようございます』
静かな声がした。
『僭越ながら、食事の用意をさせていただきました』
顔を上げた三人は、思わず言葉を失った。
どこからか現れていたテーブルの上には、湯気を立てる食事が並んでいた。
白い器に注がれた琥珀色のスープ。
柔らかそうなパン。
薄く切られた肉と、彩りのよい野菜。
どれも丁寧に整えられ、まるで高級宿の朝食のようだった。
「……いただくわ」
ユウナは短くそう答え、席についた。
ルシエラとリリアも、それに続く。
三人は食事を摂りながら、今後の方針を確認した。
「とにかく、最奥を目指す」
ユウナはスープの器を指で弾き、はっきりと言った。
「考えるべきことは山ほどある。けど、今ここで悩んでても答えは出ない」
この施設をどう扱うか。
国に渡すべきか。
封印すべきか。
エリスをどうするべきか。
魂の研究という禁忌を、どこまで明らかにするべきか。
どれも重い。
どれも、軽々しく結論を出していいものではない。
「余計な思考は、今の私たちには足かせになるだけよ」
その言葉に、ルシエラとリリアは力強く頷いた。
議論の必要はなかった。
全員が、すでに同じ結論に達していたからだ。
考えることと、立ち止まることは違う。
そして切り替えることもまた、強さの一つだった
―――
「それにしても……これ、美味しいですね」
ルシエラが驚いたようにスープを口にする。
「ええ」
ユウナも、素直に頷いた。
「初めて食べる味だけど、いくつもの複雑な風味が見事に調和してるわ」
透明に近い琥珀色のスープは、見た目よりも遥かに深い味わいを持っていた。
肉や野菜の旨味が幾重にも重なり、それでいて濁りがない。
優しいのに、芯がある。
疲れた身体へ、静かに染み込んでいくような味だった。
『それは〈コンソメスープ〉という名称です』
エリスが淡々と告げる。
「食事の分野でも革命が起こせそうですね~」
リリアがしみじみと言った。
空腹が満たされるにつれ、三人の顔に本来の活気が戻っていく。
重かった空気は、完全に消えたわけではない。
しかし、もうそれに押し潰されてはいなかった。
食事を終え、ユウナは器を置いた。
「ごちそうさま。美味しかったわ」
そして、真っ直ぐにエリスを見る。
「ありがとう、エリス」
エリスはいつも通り、淡々と返した。
『レシピはシステムにインプットされたものであり、提供は当機の職務です』
礼など不要。
職務を遂行しただけ。
その言葉の裏には、そうした意味が透けていた。
しかし、ユウナはあえて微笑んだ。
「だとしても、よ」
柔らかく、だが、はっきりと。
「職務は関係ないの。美味しいものを作ってくれた人には、お礼を言うものよ。」
『…………』
エリスの返答が、一瞬だけ遅れた。
それは、ほんのわずかな間だった。
しかし、ユウナには見逃せない遅れだった。
『お喜びいただけたのであれば、幸いでございます』
声は、いつも通り澄んでいた。
だがその奥に、ごくわずかな戸惑いと、さらに小さな喜びが混じっているように、ユウナには感じられた。
「さあ、行きましょう」
ユウナは立ち上がる。
「遺跡攻略、再開よ!」
ルシエラが剣を取り、リリアが杖を握る。
エリスは静かに一礼し、再び案内役として扉の前へ立った。




