エリス
やわらかな香りがセーフルームの中に広がっていた。
リラクゼーション・ブレンド。
エリスがそう呼んだそれは、確かに張り詰めた神経をわずかに緩めるような、ホッと一息つける安心感のようなもの感じさせた。
魔動機の襲撃を抜け、ようやく得た休息。
三人はお茶を飲みながら、エリスから魔動機文明時代のことや、この施設について、少しずつ話を聞いていた。
魔動機文明時代の生活。
研究施設の構造。
今も稼働している水や照明の仕組み。
書物の中でしか知らなかった過去が、当時を実体験している銀髪のメイドの口から淡々と語られていく。
それは、どこか夢物語りのようですらあった。
知らない時代の、知らない日常。
かつて確かに存在した、人々の営み。
三人は疲労の中にあっても、胸を躍らせていた。
だが――エリスがこの施設についての事実を口にした時、その安らぎは瞬時に凍りついた。
「……つまり」
ユウナは、カップを持つ手を止めた。
「魔動機文明が滅んで三百年余り。その間ずっと、この遺跡は動き続けていたということ?」
『はい』
エリスは機械的な正確さで答える。
『当施設は外部との接触を遮断したまま、防衛用の魔動機および警備ユニットを、設計図に基づき自律生産し続けてまいりました』
その言葉に、部屋の空気が重くなる。
「道理で、あの異常な数なわけですね~」
リリアが先程までの激戦を思い出すように天井を見上げた。
その声からは、いつもの気楽さが少し薄れている。
「ここまで完全に“生きている”遺跡は、ギルドの資料にも載っていないわ」
ユウナも低く呟いた。
三百年。
外界から隔絶されながらも、内部の機能を維持し、防衛戦力を作り続ける施設。
ただの遺跡ではない。
それは眠っていたのではなく、人知れず生き続けていた怪物に近かった。
「これをそのままコントロールして、研究できれば……」
リリアの目が細くなる。
「人族の発展において、ブレイクスルーどころの話じゃありませんよ~」
その言葉は、絵空事ではなかった。
水が壁から湧き、火を使わず湯が沸き、照明が夜を追い払い、機械が労働を肩代わりする。
この施設の技術を正しく扱えれば、街の暮らしは――いや、世界の文化の在り方が根底から変わるかもしれない。
だが、ユウナは重く首を振った。
「……そうね。でも、これは多分、今の人族には行き過ぎた技術よ」
発展しすぎた技術力。
あるいは、科学力。
それはいつか制御を離れ、人の手に負えぬ災厄へ変わる。
魔動機文明そのものが、すでにそれを証明しているのかもしれない。
沈黙が落ちた。
カップから上がる湯気だけが、静かに揺れている。
「……まあ、それはこの施設を掌握できてからの話ね」
ユウナは無理やり思考を切り替えるように息を吐いた。
「その時に考えましょう」
そして、エリスへ視線を戻す。
「ところでエリス。この“ラボラトリー・No.9”では、一体何の研究をしていたの?」
『当施設では――』
エリスは、淀みなく答えた。
『「魂」の研究をしておりました』
ざわり、と。
目には見えない何かが、部屋の中を走った。
三人の背筋を、名状しがたい悪寒が駆け抜ける。
エリスの声は変わらない。
澄んでいて、聞き取りやすく、丁寧ですらある。
だが、その内容はあまりにも凄惨だった。
『ザイード博士の主導の元、蛮族の持つ《穢れ》のメカニズムの解明。
および、それを人族へ転写し、肉体機能を向上させ得るかの研究。
魂を機械へ置換し、半永久的な生命を得るための実験。
そして、優れた知性を司る魂を、優れた身体能力を持つ個体へと移植し、“超人類”を創造する研究――』
「もういいわッ!」
ユウナの声が、部屋を切り裂いた。
エリスの言葉が止まる。
静寂が戻った。
だがそれは、先ほどまでの安らかな静けさではない。
深淵を覗き込んでしまった後のような、重く、悍ましい沈黙だった。
ルシエラは唇を固く結んでいる。
リリアは指先を膝の上で軽く握っていた。
「この遺跡……」
リリアがぽつりと言う。
「そのまま国に渡すのは、考えものですね~」
いつもの間延びした声。
だがそこに、冗談めかした響きは一切なく、現実を見据えた真剣さだけがあった。
ユウナは、一歩離れた位置で静かに佇む銀髪のメイドを見つめる。
無機質な美しさ。
完璧すぎる礼法。
呼吸の動作。
人間らしさを模していながら、人間からわずかに外れてしまった何か。
「……魂を、機械に移すと言ったわね」
ユウナの声は、かすかに震えていた。
「エリス。あなたは……」
『はい』
エリスは、何の迷いもなく答えた。
『私は三百五十二年七ヶ月十五日前、人間であった個体名〈エリス・ファーレン〉の魂を、万能ガイノイドユニットへと移し替えた実験個体――』
一拍。
『識別名〈エリス〉でございます』
淡々と。
まるで昨日の天気でも告げるかのように、エリスは己の正体を明かした。
「なんて……ことを……」
ルシエラが絶句し、口元を押さえる。
そこに立っているのは、精巧な人形ではなかった。
三百年前の“人間”の成れの果て。
形を変えた、永遠の囚人。
文明の華やかさの裏側に隠された狂気と業の深さが、重く、三人の心にのしかかった。




