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介助生活

 静まり返った二人の拠点で――

 街を救った英雄の“もう一つの戦い”が、ひっそりと、しかし確実に繰り広げられていた。


 まずは、避けては通れない現実。


 簡易の器を添えられ、支えられたユウナは、これ以上ないほど顔を赤くしていた。


「ううぅ……あんまり見ないで……お願いだから……」


 視線を逸らし、声を絞り出す。

 だが、その訴えに対してルシエラは――どこまでも真剣だった。


「そうは言っても、こぼれると大変ですから。しっかり確認しながら支えておかないと」


 一切の迷いなし。


 その眼差しは、戦場でユウナの意図を汲もうと、その目を見る時と同じくらい真摯で、揺るぎない。


 “職務”を全うするという純粋な使命感。

 それがあるからこそ、逃げ場がない。


 ……結果。


 英雄の威厳は、かすかな水音とともに、儚く霧散した。


 続いて、浴室。


 魔法なら使えるからと言ったユウナの申し出を辞退し、ルシエラが自力で湯を張った浴槽。

 そこから立ち昇る白い湯気に包まれたその中で、ルシエラの手は迷いなく、そして丁寧にユウナの身体を洗っていく。


「……!? そ、そんなしっかり洗わなくていいから……!」


「いけません。清潔第一です」


 即答だった。


 やわらかなタオルが肌を滑る。

 その手つきはあくまで優しく、だが容赦がない。


 ふと、ルシエラが目を細める。


「思い出しますね」


「……え?」


「私がユウナに拾われて、初めてここに来た日のこと」


 静かな声。

「自分で洗えるから大丈夫だと言ったのに、『ハイペリオン級として身だしなみは必須だ』って……

 私の身体を、しっかりと洗ってくれましたよね」


 ユウナは、一瞬言葉を失った。


 記憶が蘇る。


 あの日。


 魔域から連れ帰ったばかりのルシエラは、心も身体も疲れきっていて、だがそれでもどこか遠慮するように、自分でどうにかしようとしていた。


 ユウナはただ、必要だと思ったことをしただけだった。

 汚れを落とし、温め、食べさせ、眠らせる。

 生きている者に必要なことを、順番に与えただけ。


「もしかして……根に持ってるの?」


 恐る恐る言うと、ルシエラは首を横に振った。


「いいえ」


 その声は、どこまでも穏やかだった。


「……本当は、すごく嬉しかったんです。

 あんなふうに、誰かに優しく、大切に扱ってもらったのは初めてだったから」


 タオルを動かす手は、変わらず丁寧なまま。


「だから、こうしてお返しができるのが……幸せなんです」


 その言葉に、ユウナは何も言えなくなった。


 あの時の自分は、ただ必要だからそうしただけだった。


 しかし、ルシエラにとっては違ったのだ。

 あれはただの介助ではなかった。

 自分がまだ大切に扱われてもいい存在なのだと、初めて教えられた時間だったのかもしれない。


 胸の奥がほんのりと温かくなる。

 そう思えば、この状況も少しは――


「――!? ルシエラ!! そこは!!」


 現実に引き戻された。


「一番大事なところですから、しっかり綺麗にしないと」


「やっぱダメ!! 理屈じゃないの!! 恥ずかしいものは恥ずかしいの!!」


 湯気の中に、ほとんど悲鳴に近い抗議が響く。

 だが、ルシエラの“お返し”は止まらない。


「ああああああああっ!!」


―――


 夜。


 ようやくベッドへと運ばれたユウナは、シーツの上に沈み込むように力を抜いた。


「はぁ……動けないのが、こんなに疲れるなんて……」


 天井を見上げ、ぼんやりと呟く。


 戦うことには慣れている。

 痛みにも、死線にも慣れている。


 だが――


 何もできないという状態は、それとは別種の消耗をもたらしていた。


 隣で、ルシエラが掛け布団を丁寧に整える。

「思うように身体が動かない不便さは、精神を磨り減らしますよね」


「……そういう意味じゃないんだけど」

 ぼそりと返す。

「精神は磨り減ったわ、別の意味で」


「……?」

 ルシエラは小首を傾げた。

「他に何か、磨り減るようなことが?」


 その瞳は、どこまでも清廉で、どこまでも無自覚だった。


 ユウナはしばらくその顔を見つめ――

 やがて、ゆっくりと目を閉じた。


「……うん、何でもない……」


 完全復調まで、あと六日と十数時間。


 モンスターの濁流すら止めた英雄にとって――

 この短くも長い一週間は、おそらく、生涯で最も過酷な試練として刻まれることになる。


―――


 そして、ついにその時が来た――


「やった……やったわよ!!」


 静寂を切り裂くような歓喜の声が、部屋いっぱいに響き渡った。


 ベッドの上で跳ねるように身を起こしたユウナは、その勢いのまま床へ降り立つ。

 一週間ものあいだ、自分のものでありながら自分のものではないように重く沈んでいた四肢に、今ははっきりと、以前と変わらぬしなやかな力が満ちていた。


 ブンッ、と鋭く風を切って腕を振る。

 深く腰を落として屈伸し、膝のばねを確かめる。

 そして最後には、猫のような軽やかさでふわりと宙へ跳ねた。


「ああ、素晴らしいわ!」

 着地と同時に、ユウナは心の底から叫ぶ。


「自分の意志で、自分の足で大地を踏めるって……こんなに自由で、素敵なことだったのね!」

 クルクルと回りながら言ったその声には、誇張ではない実感がこもっていた。


 一週間。

 ルシエラに“すべて”を委ねるという、戦場とはまた別種の試練を耐え抜いた末に、ようやく取り戻した自由だった。


 ユウナは弾けるような笑顔で振り返ると、傍らで見守っていたルシエラの手を勢いよく取った。

「今日は快気祝いよ、ルシエラ!」


 瞳がきらきらと輝いている。

「今日はもう食事の準備なんていらないわ。美味しいものを食べに行きましょう!」


 指を折りながら、待ちきれないように続ける。

「お肉! お魚! 甘味!!」


 そのあまりの喜びように、ルシエラも思わず微笑んだ。

 本当に嬉しそうだった。


「本当によかったです」

 静かだが温かい声。

「おめでとうございます、ユウナ」


「もう、固いなぁ、ルシエラ」

 ユウナは少し頬を膨らませ、しかしすぐにまた笑う。


「ほら、行くわよ!」

 そう言うなり、自由を取り戻した身体で、ルシエラの手を引いて部屋を飛び出していく。


 どんなクエストよりも。

 どんな死地よりも。

 ある意味では、よほど厳しかった一週間。


 その果てに、ようやく訪れた本当の意味での“生還”だった。


 二人の賑やかな足音が、軽やかに廊下へ響いていく。

 その音は、ようやく戻ってきた日常のように晴れやかだった。

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