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試練への入り口

 宿の三階。

 一フロアを贅沢にぶち抜いた、二人の「家」とも呼べる広い部屋。


 朝、戦場へ向かうために扉を閉めてから、まだ半日ほどしか経っていない。

 それなのに、こうして戻ってきたこの場所は、ひどく久しぶりに思えた。


「ユウナ、降ろしますよ」


 ルシエラは、まるでガラス細工でも扱うような手つきで、ユウナを柔らかなソファへと降ろした。

 背中にクッションをあて、一番楽な姿勢になるよう細かく整えていく。


「ありがと、ルシエラ」

 ユウナはふう、と深く息を吐いた。


 禁忌の魔術で無理やり繋ぎ止められた命は、まだこの世界に馴染みきっていない。

 身体の内側がひどく重い。

 自分のものであるはずの肉体が、どこか他人のもののように遠く感じられる。

 奇妙なけだるさが、骨の芯にまで沈んでいた。


 一週間。


 ハイペリオン級とまで呼ばれた彼女も、今は恋人の助けなしには何も出来はしない。


「……迷惑をかけるわね。こんなお荷物になっちゃって」


 自嘲めいたその言葉に、ルシエラはすぐさま首を振った。

「迷惑なんてありません」


 その声には、少しの揺らぎもない。

「私は、喜んでユウナのお世話をします」


 そう言って、ルシエラはその場に膝をついた。

 ユウナの瞳を真正面から見つめる。


 その表情は、まるで祈りを捧げる聖職者のように静かで、真剣だった。

 介助という重労働を、義務ではなく、ある種の敬虔けいけんさをもって受け入れている顔だった。


「こうして、私の側にユウナが戻ってきてくれた」


 ゆっくりと、言葉を置くように続ける。


「ここにあなたがいてくれる。それだけで……私は、もう十分すぎるほど幸せなんです」


「……ホントに真面目ね、あなたは」


 ユウナは照れ隠しのように目を細めた。


 死の淵を覗いたあとだからだろうか。

 その真っ直ぐすぎる言葉が、いつも以上に胸の奥へ深く沁み込んでいく。


「さて……夕食の準備をしてきますね」

 ルシエラが立ち上がり、台所へ向かおうとする。


 その背へ、ユウナがどこか探るように声をかけた。


「ねえ……ルシエラ、もしかしてさ……」


「――にっこり」


 振り返ったルシエラの笑みは、聖母のように穏やかだった。

 ……が、その背後には、逃げ道を一切許さない無言の圧が漂っている。


「……やっぱり、まだ怒ってる?」


「いいえ。怒ってませんよ」


 その答えに、嘘はなかった。


 本当に、もう怒ってはいないのだ。


 ただ――

 あの時の光景を思い出すたびに、胸の奥が締めつけられるだけだった。


 大地を赤く染めた血。

 自分の指の隙間から零れ落ちていった体温。

 もう二度と届かないのではないかと絶望した、あの瞬間。


 それを思い出すたび、心臓を握り潰されるような痛みが蘇る。

 あんな思いだけは、二度と耐えられそうになかった。


 だからこそ――


「でも、今日のご飯は」


 ほんの少しだけ間を置いて、ルシエラは静かに宣告した。


「おかゆです」


「えっ、お肉は……? ドラゴンゾンビ倒したお祝いのステーキとか……」


「消化にいいものが一番です」


 きっぱり。


 情け容赦のない返答だった。

 心底悲しそうな顔をしたユウナに背を向け、台所へ向かっていく。


 ――今日だけ。

 ――ほんの少しだけ、意地悪をさせてください。


 心の奥で、誰にも聞こえない声がそう囁く。


 ――そうでもしないと、私はまたあなたを抱きしめて、泣き喚いてしまいそうだから。


 やがて、台所からまな板を叩く規則正しい音が響き始める。


 トントン、トントン、と。


 その小さな生活音が、広い部屋の中へ静かに満ちていく。


 ユウナはソファに深く身を沈め、その音に耳を傾けながら、くすぐったいような、けれど深くやわらかな安らぎの中で、そっと目を閉じた。


 夕食の「おかゆ」は、ルシエラの愛情と、ほんの少しばかりの意地悪が溶け込んだ、優しい味がした。


―――


 食後。

 キッチンからは、食器を洗う水音が静かに響いている。


 その音を聞きながら、ソファで安静にしていたユウナの表情は、戦場で見せる凛々しさからは程遠かった。

 そこにあるのは、困惑と羞恥、そしてどうしようもない気まずさだった。


 身体が思うように動かない以上、これから自由に動けるようになるまでは、あらゆる私生活をルシエラに委ねることになる。


 それ自体は、もう受け入れるしかない。

 実際、今の自分では着替えすら満足にできないのだから。


 しかし――


 そこには、どうしても越えがたい“一線”があった。


 戦士としての矜持というより。

 もっと切実で、もっと個人的な。

 一人の女の子として、どうしても譲れない境界線。


「……ねえ、ルシエラ」


 ユウナが、恐る恐る声をかける。


 キッチンから響いていた水音が止まった。

 ルシエラは布巾で手を拭きながら振り返り、いつも通りの落ち着いた声音で尋ねる。


「何ですか?」


「食事とか、入浴とか……そういうのは、まあ……百歩譲っていいわよ」


 言いながら、ユウナの頬がじわじわと赤く染まっていく。


「でも……」


 指先をもじもじと弄びながら、視線を逸らす。


「ト、トイレの世話だけは……さすがに恥ずかしいし、申し訳ないっていうか……」


 声がどんどん小さくなる。


「その……私だって、女の子だし……」


 人である以上、避けては通れない生理現象。

 ハイペリオン級の英雄であろうと、熟達した魔法戦士であろうと、それだけはどうにもならない。


 そんなユウナの深刻な葛藤を余所に、ルシエラは極めて真面目な、いっそ事務的ですらある表情で首を傾げた。


「……おしっこが近いんですか?」


 一拍。


「それとも、大き――」


「あああぁぁ!!」


 ユウナが悲鳴のような声を上げた。


「それ以上言わないで!! 言葉にしなくていいから!!」


 動かない腕では顔を隠すこともできず、僅かに身をよじって悶絶する。


 ルシエラはきょとんとした顔で、その反応を見つめていた。


 一週間。


 排出を我慢し続けることなど、生物である以上不可能だ。

 つまり、その瞬間は確実にやってくる。


 避けようのない現実を前にして、ユウナは絶望したように天を仰いだ。


「……正直、ドラゴンゾンビとの死闘より、こっちの方が最大の試練だわ……」


 その呟きは、ひどく真剣で重々しかった。

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