第1話 もう一人のナイトメア⑤
湯上がりの空気が、まだほんのりと温かい。
ルシエラの後に風呂へ入っていたユウナは、髪をタオルで拭きながら、何事もないような調子で言った。
「食事にしましょう。今日はA5ランクの肉をメインにするわよ」
ルシエラの動きがぴたりと止まる。
「……A5?」
「依頼達成の日は贅沢するって決めているの」
さらりとした口調だった。
まるでそれが、ごく当然の戦術の一部であるかのように。
ルシエラは思わずユウナの顔を見た。
だが当の本人は、まったく冗談を言っている様子がない。
「ルシエラ、あなた料理は……」
そこで一度、じっと相手を見つめる。
「……できそうにないわね……」
ルシエラの肩がぴくりと揺れた。
食事を、生きるために必要な補給としか見ていない。
ずっとそういう生活をしてきたのだろう。
ユウナにはそれが見て取れた。
「う……最低限はできます」
少しむっとしたように返す。
だがユウナは即答した。
「最低限はここでは通用しないの」
厳しいようでいて、声はどこか楽しげですらある。
「教えてあげるから来なさい。料理も大切な技能よ」
キッチン区画は、個人の物とは思えないほど整っていた。
広い作業台。
整然と並ぶ包丁。
香草、塩、胡椒等の調味用の瓶。
さらに氷室には、保存状態のいい食材が几帳面に収められている。
ユウナはその氷室を開き、霜をまとった分厚い赤身肉を取り出した。
美しい霜降り。
見るからに上質な肉だった。
ルシエラが目を丸くする。
「……これ、本気で?」
「当然」
ユウナは何の迷いもなく答え、肉を作業台へ置いた。
まずは常温へ戻し、余分な水分を拭き取り、下処理を進めていく。
その手つきは慣れていて、無駄がない。
「まず覚えること。強火で焼けばいいってものじゃないわ」
少しだけ、楽しそうに言う。
「火入れは制御よ」
そこで肉に塩を振りながら、ユウナは続けた。
「力は強ければいいわけじゃない。どう使うかが肝心」
ルシエラが思わず苦笑する。
「戦いの心得みたいに言うんですね……」
「通じるものがあるわね」
そう返したところで、熱したフライパンに肉が置かれる。
じゅわっ、と芳ばしい音が広がった。
一瞬で立ちのぼる脂の香り。
肉の焼ける匂いがキッチンを満たし、空気そのものを変えていく。
ルシエラが、無意識のうちに喉を鳴らした。
その気配を察したのか、ユウナがトングを握る手を軽く振る。
「触らない。待つ」
ぴしゃりと言い切る。
「焦らない。焦ると失敗する」
片面に美しい焼き色がつくまで待ち、絶妙なタイミングで裏返す。
「焼くのは片面一回ずつ。何回もひっくり返さないこと」
声は冷静だが、同時に熱がこもっていた。
仕上げに、バターと香草を加える。
溶けたバターを肉に回しかけ、香りをまとわせる。
熱と脂と香草の匂いが折り重なり、キッチン全体がごちそうの匂いに包まれた。
やがて、ユウナは満足げに肉を火から上げる。
火入れは完璧だった。
ミディアムレア。
切れば、中心は艶のある赤を残しながら、しっかりと熱が通っているはずだった。
皿に盛り付け、付け合わせを整え、グラスにワインを注ぐ。
テーブルに並べられたそれは、もはや冒険者の食卓というより、貴族の晩餐に近かった。
ルシエラは椅子に座ったまま、しばらく呆然とそれを見つめる。
「……ここ、冒険者の宿ですよね?」
ユウナは当然のように答えた。
「ハイペリオン級の拠点よ」
その一言には妙な説得力があった。
二人で食事を始める。
ルシエラが肉を一口、口に運ぶと次の瞬間、その目が大きく見開かれた。
「……なにこれ……」
驚きが、そのまま声になって漏れる。
ユウナが少しだけ口元を緩める。
「美味しい?」
「……これは反則です」
ルシエラの頬が、はっきりと緩んだ。
その表情を見て、ユウナは満足げにグラスを傾ける。
まるでそれを見たくて料理したのだと言わんばかりだった。
食後。
ユウナは静かに立ち上がる。
「まだ終わりじゃないわ」
そう言って氷室の奥から取り出したのは、重厚な箱だった。
それを卓上へ置き、ゆっくりと蓋を開ける。
中に収められていたのは――
高級店のホールケーキが二つ。
色とりどりのマカロン。
濃厚そうなチョコレートタルト。
さらに、いくつもの種類のシュークリーム。
量が圧倒的だった。
しかも質も、明らかに一流である。
ルシエラが固まる。
「……え?」
ユウナは真顔で言った。
「甘味は別腹よ」
一瞬の沈黙。
そして、ルシエラが吹き出した。
「美味しいスイーツって、本音だったんですね?」
ユウナはフォークを手に取る。
「そうよ。これは戦士の息抜きと、乙女の欲求を同時に満たす至高の食べものよ」
妙な理屈を、かなり真剣な口調で語りながら、ケーキをひと口。
その瞬間、ユウナは目を細めた。
あまりにも分かりやすく、幸せそうな表情になる。
ルシエラはそれを見て、小さく笑う。
「……本当に甘党なのですね」
「悪い?」
わずかにむっとしたように返すユウナに、ルシエラは首を横に振った。
「安心しました」
その言葉に、ユウナが怪訝そうに片眉を上げる。
だがルシエラはそれ以上は言わず、自分もフォークを伸ばした。
強くて、厳しくて、容赦がない。
けれど、こうして本気で肉を焼き、本気で甘いものに目を輝かせる。
そんなユウナの隣でなら、きっと自分も少しずつ、普通に笑えるようになる。
そんな気がしていた。
ーーー
甘い香りがまだかすかに残る広間を抜け、ユウナはルシエラを連れて寝室区画へ向かった。
この最上階の中でも、そこはひときわ静かな場所だった。
カーテンが外の灯りをやわらかく遮り、重厚な窓は街の音を遠くへ押しやっている。
外界と切り離されたような、深い静けさがそこにはあった。
そして、その中央に鎮座しているのは――巨大なベッドだった。
本来は貴族向けに仕立てられた特注品。
横幅は優に四人は寝られるほどもあり、厚いマットレスと上質なリネンが惜しげもなく使われている。
見るからに高級で、見るからに快適そうだ。
だが、そのベッドをこれまで使ってきたのは、たった一人。
ユウナは振り返らないまま言った。
「さあ、もう寝なさい。眠れるときにしっかり眠るのも、冒険者の務めよ」
ルシエラはベッドを見上げ、少しだけ目を丸くする。
「……広いですね」
「一人用のつもりだったのだけれど」
それは冗談ではなく、事実だった。
他人を泊めることなど想定していない。
誰かと同じ空間で休むことすら前提にしていない。
この最上階全体と同じく、それは孤独を前提に組まれた生活設計の一部だった。
ユウナは淡々と続ける。
「二人で寝るのに抵抗があるなら、寝具は明日にでも買いに行きましょう。私はソファで寝るわ」
それは気遣いではあるが、過剰な配慮ではなかった。
自然な選択肢のひとつとして、ただ提示しているだけだ。
ルシエラは少し考えた。
視線がベッドからユウナへ移る。
今日一日で、魔域は崩壊した。
自分の人生の進路も、大きく変わった。
昼間は目の前の出来事に追われていたけれど、夜になり、静けさが訪くと――その分だけ、心の空白も見えてくる。
今は、その空白が少しだけ。
怖い。
ルシエラは小さな声で言った。
「隣が、いい」
そこで一度言葉を区切り、少しだけ息を整える。
「ただ……人の気配が少しだけ欲しい」
強がらない。
そう決めた。
被害者ぶらない。
でも、必要なことはきちんと口にする。
今日交わした条件を、もう自分の中で守ろうとしているのだと分かる言葉だった。
「……なら、そうしましょう」
返事は淡々としていた。
特別扱いはしない。
だが、拒みもしない。
それだけで十分だった。
二人はそれぞれ反対側からベッドへ上がった。
距離は腕一本分以上。
触れ合うには遠いが、お互いの存在を感じるには十分な距離だった。
沈黙。
二人そろって天井を見上げる。
厚い寝具に身体が沈み込み、静かな夜がゆっくりと満ちていく。
しばらくして、ルシエラが小さく口を開いた。
「……ユウナ」
「何?」
「今日、手を取ってくれて……ありがとう」
短い言葉だった。
けれど、その中には今日一日のすべてが込められていた。
ユウナは目を閉じたまま答える。
「正直、あの状態から戻れるとは思わなかった」
率直な言葉だった。
「あれはあなたの強さよ」
慰めではなく、評価。
気休めではなく、事実として告げる声だった。
「……うん」
ルシエラは小さく頷く。
それきり、また静けさが戻る。
やがて、隣から規則的な呼吸が聞こえ始めた。
どうやらルシエラのほうが先に眠ったらしい。
ユウナはそっと横目でその様子を確かめる。
穏やかな寝顔だった。
魔域の中で見せていた歪みも、張り詰めた焦燥も、今はそこにない。
孤独を前提に作られていた空間に、もうひとつの体温が加わる。
それはまだ小さい変化だった。
この後もっと大きな変化となっていくのか、それとも消えてなくなってしまうのかはまだ分からない。
ユウナはごく小さく呟く。
「私も、あなたがこちら側を選んでくれて嬉しかったわ……」
その声は、眠るルシエラには届かない。
けれど、それでよかった。
夜は静かに更けていく。




