もう一人のナイトメア④
三階フロアに、夜の静けさがゆっくりと降りていく。
階下から響く宿のざわめきも、窓の外を流れる街の喧騒も、ここまで来ると遠くに滲んでいた。
ヴァルクレアの中心に近い場所にあるはずなのに、この空間だけがどこか切り離された拠点のように穏やかだった。
円卓の上には、まとめられた書類と簡単な備品。
壁際には整然と並ぶ武具と道具。
生活の場であると同時に、次の冒険へ備えるための前線基地でもある。
その静かな空気の中で、ユウナは必要なことを必要な順番で口にした。
「あなたの能力や技能の測定、それを踏まえた連携の確認は明日やるわ。場所はギルドの訓練場よ」
口調はいつも通り、実務的で冷静だった。
仲間になったから終わりではない。
むしろここからが始まりだ。
ルシエラが本当にハイペリオン級冒険者であるユウナの隣に立てるのか。
その見極めは避けて通れない。
ルシエラは素直に頷いた。
「……了解です」
返事はまだ少し硬い。
言葉選びもぎこちなく、気の抜き方が分からないといった様子だった。
そんなルシエラの様子に、ユウナは軽く視線を向ける。
そして次の瞬間、何かに気づいたように無言になった。
「………」
無言…黙ったままのユウナの視線がルシエラの頭の先から足元までを鋭く辿る。
角。
髪。
衣服。
手。
足元。
ルシエラは一瞬、怪訝そうに眉を寄せた。
だがそのまっすぐで容赦のない視線に押され、思わず半歩だけ後ずさる。
「な、何ですか……?」
ユウナは表情を変えず、淡々と告げた。
「まずはお風呂ね。それから着替え」
「来なさい。だいぶ汚れてるし、手の届きにくいところもあるでしょう。今日は隅々まで私が洗ってあげる」
予想外の言葉に、ルシエラは間の抜けた声を漏らす。
「はい……?」
ユウナは肩をすくめた。
「ハイペリオンには品格も大事なのよ。そんな格好のまま街中やギルドを歩き回られたら困るわ」
正論だった。
しかもその口調には、冗談めかした響きも、からかうような気配もまるでない。
ただの事実。
ただの衛生管理。
それ以上でもそれ以下でもない。
ルシエラにも、それは伝わっていた。
伝わってはいる。
いるのだが、それと恥ずかしさは別問題だった。
視線を逸らし、頬を少し赤くしながら、ルシエラは小さく反論する。
「……別に、一人で入れます」
「それはイコールではないわ」
即答だった。
「一人でお風呂に入れることと、一人で身体をきちんと綺麗にできることは別よ」
さらに容赦なく追撃が入る。
「大体あなた、どれだけの間魔域内にいたの? 毎日ちゃんと身体を清めているなら多少雑でも構わないけど、今日はダメ」
完全に理詰めだった。
逃げ道がない。
反論の余地もない。
しばらくの沈黙のあと、ルシエラは観念したように小さく息を吐いた。
「……わかりました。これも管理のうち、ということですね」
ユウナは満足げに頷く。
「そういうこと。理解が早くて助かるわ」
その返事に、ルシエラはなんとも言えない顔をした。
納得したような、まだ少し釈然としないような、複雑な表情。
だが少なくとも、拒絶はしなかった。
それはきっと、これからこの場所で生きていくのだと、自分の中でも受け入れているからであろう。
最上階を丸ごと専有しているだけあって、浴室も広かった。
床も壁も石造り。
湯気がこもりにくいよう高めに取られた天井に、しっかりとした換気窓。
中央には大きな浴槽が据えられている。
ただし、その中にはまだ一滴の水も張られていない。
「ちょっと待ってて」
ユウナはそう言うと、浴槽の上へ手を伸ばした。
「小魔法【クリエイト・ウォーター】」
その言葉と同時に、伸ばした手の先から水が放出される。
澄んだ水流が音を立てて浴槽へ落ち、小さな波紋を広げた。
ルシエラが目を丸くする。
「すごい……オリジナルですか?」
現代の一般的な魔法体系において、無から水を生み出す魔法は存在しない。
少なくとも、ルシエラの知る限りでは聞いたこともない術式だ。
ユウナは少しだけ誇らしげに答えた。
「そうよ。どうしても手軽にお風呂に入りたくてね」
しかし、その直後だった。
「【クリエイト・ウォーター】」
「【クリエイト・ウォーター】」
「【クリエイト・ウォーター】」
「【クリエイト・ウォーター】」
「【クリエイト・ウォーター】」
「……」
ユウナは同じ魔法を、ひたすら連発し始めた。
ユウナのオリジナルスペル――小魔法【クリエイト・ウォーター】。
効果はきわめて明快。
伸ばした手先から、“1リットルの”水を出す。
消費MPは1。
浴槽の大きさを見れば分かる。
まともに湯を張るには、最低でも300リットルは必要だろう。
つまり必要MPは300。
対して、ユウナ自身のMPは60。
まったく足りない。
不足分は当然のように、〈マナチャージクリスタル〉で補っていく。
「【クリエイト・ウォーター】」
「【クリエイト・ウォーター】」
「【クリエイト・ウォーター】」
………
魔法。魔法。魔法。魔法。魔法。
補給。
魔法。魔法。魔法。魔法。魔法。
補給。
また魔法。
あまりにも地道だった。
ようやく浴槽が水で満たされると、ユウナは息を整える間もなく次の工程へ移る。
「【ファイアボール】」
轟、と炎熱が走った。
第六階位真語魔法、【ファイアボール】。
これを使えるソーサラーは、どこの戦場でも必要戦力として重宝される。
敵集団を焼き払い、戦局そのものをひっくり返しうる中位攻撃魔法だ。
――それを、湯沸かしに使っている。
もちろん、そのまま撃てば浴槽ごと吹き飛ぶ。
だからユウナは絶妙な加減で威力を最低限まで絞り、水が飛び散らないよう慎重に制御していた。
一発。
二発。
三発。
四発。
五発。
必要MPは合計で四〇。
当然ながら、これも〈マナチャージクリスタル〉頼みである。
使用した〈マナチャージクリスタル〉は、合計四十八個。
MP五点分を蓄えるクリスタル一個の価格は、およそ2500ガメル。
単純計算で、総額120000ガメル。
ちなみに、一日30ガメルもあれば、そこそこの暮らしはできる。
それと比べれば、あまりにも桁違いだった。
もちろん、〈マナチャージクリスタル〉は使い捨てではない。
だがそれにしても、湯を張るための初期投資としては、どう考えても非実用的である。
少なくとも、そこらの冒険者に真似できる金額ではなかった。
ルシエラは呆然と浴槽とユウナを見比べる。
「どこが手軽……?」
ぽつりと漏れた呟きは、連続魔法行使に集中しているユウナの耳には届いていなかった。
けれどルシエラは、別の意味で感心もしていた。
常に身だしなみを整える。
拠点を整え、装備を整え、身体を整える。
それもまた、ハイペリオン級としての矜持なのだろうか、と。
そんなことを考えていた、そのとき。
「ぜぇ、ぜぇ……っ! 終わ……った!」
ユウナがその場で小さく拳を握り、やり切った顔でガッツポーズを決める。
「……」
その姿を見て、ルシエラは感銘を受けるべきかどうか、本気で迷った。
ーーー
浴槽に張られた湯から、やわらかな湯気が立ちのぼり、浴室の空気をゆっくりと満たしていく。
白く霞む湯煙の向こうに浮かぶルシエラの身体は、よく鍛えられていて無駄がなかった。
スリムだが細いだけではない。戦うために積み重ねてきた筋肉が、肩や腕、脚の線に静かに表れている。
ユウナはそれを冷静に見ていた。
そこにあるのは興味ではなく、確認。
これから共に戦う相手だからこそ必要な観察だった。
「腕を上げて」
まるで医師のような声だった。
ルシエラは素直に従う。
ユウナは、瘴気が強くまとわりついていた腕や脚を重点的に調べた。
皮膚に異常な熱はない。
瘴気の滞留も、少なくとも外から見える範囲では解消されているようだった。
「大丈夫みたいね」
ひとつ頷いてから、ユウナは続ける。
「洗うから、背中を向けて」
ルシエラが静かに向きを変える。
ユウナは手の届きにくい箇所へ湯をかけ、そこを中心に、丁寧に洗い流していった。
乱暴ではない。
けれど甘やかしでもない。
必要な場所を、必要な手順で、きちんと整えていく。
そんな手際だった。
最初こそ、ルシエラの身体にはわずかな強張りが残っていた。
けれど、時間が経つにつれて、その緊張は少しずつほどけていく。
やがて、ルシエラが小さく呟いた。
「……あったかい」
「湯の話? それとも扱い?」
「どっちも」
ユウナはそれに答えなかった。
ただ黙って、確実に汚れを落としていく。
魔域の残滓も。
身体にこびりついた汚れも。
そして、今日まで張り詰めていた緊張も。
やがて一通り終えると、ユウナは短く告げた。
「いいわよ。ゆっくり浸かりなさい」
そう言ってルシエラを湯船へ促す。
湯気が立ちこめ、視界をやわらかく遮った。
ルシエラは肩まで湯に沈み、ほっと息を吐く。
そして、ぽつりと漏らした。
「こういうの……初めて」
ユウナは振り返らないまま答える。
「贅沢は悪くないわ。強くなるには回復も必要よ」
それだけ言って、浴室の出口へ向かう。
「着替えを用意しておくから、焦らずちゃんと温まるのよ」
その声は、少しだけやわらかかった。
しばらくの沈黙。
やがて、ルシエラがその背中に向けて静かに言う。
「……ありがとう」
ユウナは背を向けたまま、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
「明日からは厳しいわよ」
「望むところです」
湯気の向こうで小さな笑みが生まれる。
ーーー
湯から上がったルシエラは、ユウナが用意しておいた清潔な衣服に袖を通した。
肌に触れる布の感触が新鮮だった。
汚れも疲れも洗い流され、心まで少し軽くなっている。
心身ともに、さっぱりする。
――ああ、こういうことか。
ルシエラはそこでようやく、ユウナが言っていた意味を実感した。
「分かった?」
振り向いたユウナがそう問う。
ルシエラは素直に頷く。
「……はい」
その短い返事だけで十分だった。
拠点の空気が、どこか変わっている。
これまで一人で使うために整えられていた空間。
孤独を前提として完成されていた場所。
けれど今はもう違う。
一人用だったその空間は、二人用の場所へと変わり始めていた。
お風呂好きです。
戦いの後はお風呂です。
今後も入浴シーンは何回もあります。
そこでのスキンシップも増えます。(予定)




