スタンピード②
スタンピードが迎撃圏内へ到達するまで、残された猶予は三日。
決して長いとは言えない時間だった。
冒険者ギルドの訓練場には、招集を受けた冒険者たちがひしめいていた。
経験の浅い若者もいれば、幾度も修羅場を越えてきた古参もいる。装備を整えた騎士団の連絡役や、衛兵隊の使者の姿もあり、普段は活気と喧騒に満ちているその場所を、今は重苦しい緊張が支配していた。
ギルド長は招集された冒険者たちを見渡しながら、状況の説明を終え、低く締めくくった。
「各人、万全の準備を整えてくれ」
少し間を置く。
「それから……思い残すことのないように過ごしてほしい」
重い言葉だった。
それは単なる覚悟を促す言葉ではない。
今回の戦いがどれほど過酷で、どれほど多くの命を奪いかねないものであるかを知ったうえで、それでもなお前へ出る者たちに向けた、願いのような言葉だった。
しかしユウナにとって、それはある意味で日常とも言える。
死ぬつもりはない。
油断するつもりもない。
いつだって最悪を想定し、そのうえで生き残ることを選び、そのために必要なものを揃え、必要ならば迷いなく金も切ってきた。
だが――誰もがそこまで割り切れるわけではない。
―――
「……皆が、そこまでの精神状態に至れるわけじゃないと思います」
西区、リリアの工房。
追加で必要な消耗品を選びながら、ルシエラが静かに言った。
精算用のカウンターの上には、すでにいくつもの品が並べられている。
〈月光の魔符〉
精神抵抗力を高める、使い捨ての魔符。
〈陽光の魔符〉
生命抵抗力を高める、使い捨ての魔符。
〈消魔の守護石〉
魔法ダメージを軽減する、使い捨ての石。
どれも、命を護るための品だった。
ユウナは迷いなく、それらを積んでいく。
「すごいですね~」
リリアが、やや呆れ混じりに声を漏らした。
「高価な魔符を、上等な紙でも買うみたいな勢いで選ぶとは~」
それも無理はない。
魔符の最上級品は、一枚5000ガメル。
月光と陽光をそれぞれ十枚ずつ、ユウナとルシエラの二人分で計二十枚。
それだけで10万ガメル。
さらに、〈消魔の守護石〉は一個2500ガメル。
これも二人分で十個ずつ、計二十個。
それだけでさらに5万ガメル。
合わせて15万ガメル。
普通の冒険者なら、躊躇して当然の額だった。
だがユウナは、指先で魔符を弾きながら平然と言う。
「これで生存率を上げられるなら、安いものよ」
「なるほど~」
リリアは、妙に感心したように頷いた。
そんなリリアにユウナは笑いかける。
「まあ、今回はリリアがいるからね。全部使い切るようなことにはならないと思うわ」
「はい~、がんばりますよ~」
リリアがいつもの間延びした調子で言って笑顔を見せる。
そこで一瞬、会話が途切れた。
店内には、銀貨をやり取りする音と、相も変わらず奥の工房から、調合用の大鍋を熱する音だけが残る。
「ところで~」
そんな中でリリアが、ふと思い出したように口を開いた。
「お買い上げいただいた〈性転換薬〉は使ってみましたか~?」
空気が止まった。
ルシエラの身体がぴしりと固まる。
その反応を見て、ユウナがわずかに口元を上げた。
「それがねぇ、ルシエラがなかなか許可してくれなくて……」
「ユウナ!」
即座に、ルシエラの声が飛んだ。
リリアはくすくすと楽しそうに笑う。
「いけませんね~」
により、とした笑みが深まる。
「“思い残すことのないように”しないと~」
「リリア!」
ルシエラの顔は、その短いやり取りの間で真っ赤になっていた。
工房の中では、死闘を三日後に控えた者たちのものとは思えない会話が、普段通りに交わされている。
だが、だからこそ。
そうして軽口を叩き、呆れ、顔を赤くしていられる今この時間が、どれほど貴重なものかを、三人ともどこかで分かっていたのかもしれなかった。
―――
三日後。
二人はいつも通りの朝を迎えた。
それは不思議なほど、普段と変わらない朝だった。
目を覚ましたルシエラが最初に向き合ったのは、やはり胸元へしっかりと抱きついているユウナだった。
眠っているあいだにすっかり絡みつかれ、腕も脚も逃がさぬように巻きつけられている。
「……起きてください、ユウナ」
小さく声をかけても、返ってくるのは寝ぼけた唸り声だけで、むしろさらに抱きつく力が強まったものだから、ルシエラは朝から軽いため息をつくことになった。
結局、その腕を丁寧に外し、どうにか引き剥がすまでに、それなりの時間を要した。
それから二人で朝食を取る。
湯気の立つスープ。
焼きたてのパン。
手早く整えられた、けれど温かい食卓。
向かい合って座り、短い言葉を交わしながら食べる時間は、いつも通りだった。
その後も、いつも通り。
食事を終えると、二人は静かに立ち上がる。
鎧を身につける。
革紐を締める。
剣を佩く。
ポーチに魔晶石、魔符、守護石、各種ポーションを収めていく。
一つずつ。
いつもと変わらぬ手順で。
だが今日のそれは、ひとつひとつが明確な意味を持っていた。
「ルシエラ」
「はい」
視線が交差する。
それだけで十分だった。
言葉はいらない。
何を背負っているのかも。
何を為すべきかも。
互いに、よく分かっていた。
―――
冒険者ギルド。
訓練場に集まった冒険者たちを前に、ギルド長が立っていた。
その場には、普段のざわめきはない。
あるのは緊張と、押し殺した不安、そして避けられぬ戦いと言う現実だけだった。
ギルド長はゆっくりと周囲を見渡す。
若い冒険者がいる。
古参の冒険者がいる。
昨日まで酒場で笑っていた者が、今日は装備を固め、武器を握り、街のために立っている。
「状況は厳しい」
ギルド長の声が、広間に低く響いた。
「敵は数で押し潰す災厄そのものだ。正面から受ければ、ただでは済まん。こちらの防衛線も、万全とは言い難い」
誰も口を挟まない。
沈黙が、言葉の重さを受け止めている。
「だが、ここで退けばヴァルクレアは終わる。商人の街区も、職人の街区も、宿も、市場も、家族も、仲間も、何もかもが踏み潰される」
ギルド長の目が、冒険者たちを一人ずつ射抜くように動いた。
「騎士団は正面を支える。衛兵隊は街門と市民の避難路を守る。お前たちは遊撃だ。乱れた箇所を埋め、突破出来そうな場所を切り崩し、倒れた者を拾い上げろ」
一拍。
「そして、最悪の相手は――ハイペリオンの二人が叩く」
その視線が、ユウナとルシエラへ向けられる。
場内の視線も、それに続いた。
ハイペリオン級冒険者ユウナと、その相棒のルシエラ。
その力の大きさは、過去いくつもの冒険の記録が証明している。
ヴァルクレア最大の戦力、冒険者たちの精神的支柱と言っても過言ではない。
もちろん彼女たちだけにすべてを背負わせるわけではない。
それでも、最後の牙を折る刃がこの街にあるという事実は、確かに冒険者たちの胸の奥へ火を灯した。
ギルド長は、短く息を吐く。
「ユウナ」
名を呼ぶ。
「何か言ってやれ」
突然の指名に、ユウナは片眉を上げた。
面倒そうに見えた。
実際、こういう場で英雄らしい言葉を求められるのは、あまり得意ではない。
だが、逃げるつもりもなかった。
ユウナは軽く息を吐いて前へ出て、ギルド長の横に並ぶ。
場内の空気が、ピンと張り詰めた。
「……私は、綺麗な演説はできないわ」
静かな、だがよく通る声だった。
「勝てると軽々しく言うつもりもない。怖くないと言うつもりもない。
たぶん今日、ひどい目に遭う人はいる。怪我をする人もいるし、運が悪ければ死ぬ人もいる」
あまりに正直な言葉に、何人かが息を呑む。
ユウナは続けた。
「でも、それでも私たちはここにいる。逃げてもいいはずなのに、報酬と命を天秤にかけても割に合わないはずなのに、それでも武器を持ってここに立っている」
その目が、場内をゆっくりと見渡した。
「なら、それで十分よ」
一拍。
「怖いなら、怖いまま戦いなさい。震えるなら、震えたまま前を見なさい。格好つけなくていい。英雄になろうとしなくていい」
ユウナの声が、少しだけ強くなる。
「ただ、自分の持ち場を守りなさい」
静かな言葉だが、その奥には硬い芯があった。
「私たちはドラゴンを叩く。あなたたちは、あなたたちの戦場を守って」
そして、口の端をクッと上げる。
「そうすれば、今日の夜も酒場は開くし、明日の朝も市場は動く。
西区の炉も燃える。宿の飯も出る。くだらない喧嘩も、安い酒も、うるさい笑い声も、全部いつも通りにやって来る」
そこでユウナは、剣の柄に軽く手を置いた。
「だから――帰ってきましょう」
最後の言葉は、演説というより、ただの約束に近かった。
「全員で、とは行かないかも知れない。それでも、あえて言うわ、全員で――」
ユウナは冒険者たちを見る。
「――この街に」
ギルド内が静まり返る。
それは一瞬だったのか、それとも長い沈黙だったのか。
誰かが剣の柄を握りしめる音がした。
次の瞬間――
「おおおっ!!」
誰かの叫びが上がった。
それを合図にしたかのように、広間の空気が一気に弾ける。
「やってやる!」
「ドラゴンは任せたぞ、ハイペリオン!」
「こっちは絶対に抜かせねえ!」
「門は守る!」
「帰ったら朝まで飲むぞ!」
怒号にも似た声が次々と重なった。
武器が掲げられる。
剣が鳴る。
盾が打ち鳴らされる。
先ほどまで訓練場を覆っていた重苦しい空気が、熱気へと変わっていく。
恐怖が消えたわけではない。
不安がなくなったわけでもない。
それでも今、冒険者たちの意志に、確かな火が灯っていた。
ギルド長はその様子を見ながら、わずかに口元を緩めた。
ユウナは、何となく居心地悪そうな顔をして肩をすくめる。
「……こういうの、私の柄じゃないんだけど」
隣でルシエラが微笑みながら言う。
「でも、皆に届いていました」
「ならいいわ」
短く答え、ユウナは目を閉じた。
あとは戦うだけだった。
―――
やがて二人はギルドを出て、街門へ向かう。
街門近くで、すでに待っていたリリアと合流した。
「おはよう、リリア」
「おはようございます~。今日はよろしくお願いします~」
交わされる挨拶は拍子抜けするほど軽い。
まるでこれから向かうのが戦場ではなく、ただの山登りででもあるかのようだった。
だがその軽さが、かえって三人の強さを物語っていた。
そして街を出る。
外へ出ると、遠くから響いてくる音がより大きく聞こえてきた。
地鳴り。
あるいは、濁流のうねり。
スタンピードの波が、避けられ得ぬものだと分かる音だった。
ルシエラは前を見据え、リリアは小さく息を吐く。
その隣で、ユウナは笑みを作った。
そこに気負いはない。
無理に奮い立たせるような熱もない。
ただ、いつも通り死線の前に立つ者の顔だった。
こうした場所に立つのは、今さら珍しくもない。
しかしもちろん――死ぬつもりなど、欠片もない。
ユウナは髪をかき上げ、前方を見たまま告げる。
「さあ、ドラゴン退治に行くわよ!」
「はい!」
ルシエラの返事は短く、揺るがない。
「素材、楽しみです~」
リリアの言葉だけが少々場違いだが、だからこそ、逆に心強かった。
三人はそのまま前へ進む。
迫り来る災厄へ。
ヴァルクレアの命運を懸けた戦場へ。
ユウナの檄のセリフを一日中考えてた記憶




