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攻略完了

 ヴァルクレアへ戻った頃には、日はすっかり傾いていた。


 西の空に残る赤みが街を淡く照らし、石畳の通りには夕餉の匂いと、店じまいを告げる声と、これから食堂や酒場へ向かう人々の足音が入り混じっていた。


 だが、ユウナとルシエラは、その賑わいの中を最低限の用事だけで通り抜けると、他にはどこへも寄らず、まっすぐ拠点へ戻った。


 理由は単純だった。


 臭う。

 とにかく臭う。


 魔剣の迷宮で延々とアンデッドを相手にしていたのだ。骨だけの相手ならまだしも、ゾンビ系の魔物は斬るたびに腐臭を撒き散らし、濁った体液を飛ばし、鎧や衣服にまとわりつくような不快な感触を残していく。


 帰路はもう、【フライト】でかっ飛ばしてきた。

 超低空飛行で、少しでも速度を稼げるように。


 いつもなら危ないことをすればすぐに止めるルシエラも、今回ばかりは何も言わず、ただユウナの横を飛んでいた。


 拠点の扉を開けるなり、ユウナは宣言した。

「お風呂が最優先。異論は認めない」


「ありません」

 ルシエラも即答した。


 魔剣〈魂の救済者(ソウルセイバー)〉を手に入れた。

 だが、その高揚よりも何よりも、今はまず、身体にまとわりついた迷宮の名残を落としたかった。


 鎧を外し、汚れた服や外套を洗濯籠へ放り込み、武具を仮置きすると、ユウナは当然のように浴室へ向かった。


 浴槽には、ユウナの小魔法【クリエイトウォーター】によって水が張られていく。


 澄んだ水音が、石造りの浴室に涼やかに響いた。

「あー……この音だけで生き返るわ」


「まだお湯にもなっていませんよ」

 フロアの各所から、互いの魔力充填に干渉しないように配置された、〈マナチャージクリスタル〉を集めて持ってきたルシエラが言った。


「気持ちの問題よ」

 ユウナはそう言って、さらに魔法を繰り返す。


 水が溜まり、火の魔法で湯が作られ、やがて白い湯気がゆっくりと立ちのぼると、冷えていた浴室の空気が少しずつ柔らかくなっていった。


 その湯気を見つめながら、ルシエラはふと、帰り道に一か所だけ立ち寄った場所――すなわち鍛冶屋でのことを思い出していた。


 ドワーフの鍛冶屋は、〈魂の救済者(ソウルセイバー)〉を見た瞬間、黙り込んだ。

 いつもなら、武器を手にした途端に文句か評価のどちらかが飛んでくる男だった。刃の具合、芯の通り、素材、鍛え方。何かしらをすぐに口にする。


 だが、その時だけは違っていた。

 ドワーフは鞘から抜かれた大剣を作業台に置くと、しばらくじっと見下ろし、それから深く息を吐いた。


「……分からん」

 短い言葉だった。


 ユウナが片眉を上げる。

「あなたでも?」


「俺は鍛冶屋だ。武器としての出来なら見られる――すげえ剣だ。だが、こいつはそれだけじゃねえ」


 ドワーフは太い指で、刃の表面を軽く撫でた。

「魔剣としての格が高すぎる。能力も、由来も、俺じゃ読み切れん」


 ルシエラは、鞘を持つ手に少しだけ力を込めた。

「危険、ということですか?」


「危険かどうかも含めて分からん、という話だ」


 ユウナは腕を組み、少し考える。

「高レベルのセージが必要ね」


「ああ。魔剣の由来や能力をきちんと読むなら、相当な知識持ちじゃねえと無理だろうな」


 ルシエラはユウナを見た。

「知り合いにはいないんですか? そういう方は」


 ユウナは軽く肩をすくめる。

「いないわね。そもそもこの街に、そこまで高レベルのセージはいないもの」


「そうなのですか?」


「ここは冒険者と商人の街よ。

 もちろん学者や司書、魔物知識に詳しい人はいる。でも、この魔剣を確実に鑑定できるほどのセージとなると……王都か、あるいはもっと大きな学術機関ね」


 ルシエラは〈魂の救済者(ソウルセイバー)〉を見る。


 剣は沈黙していた。

 しかし、あの迷宮で流れ込んできた意識の残滓は、まだ胸の奥に残っている。


 苦しみ。

 悲しみ。

 怒り。


 そして、救済への願い。


 ただの武器ではない。

 それだけは、ルシエラにも分かった。


「まあ、急ぐ必要はないわ。

 今すぐ扱えないわけじゃない。少なくとも、あなたを拒んではいない。むしろ選んだと見ていい」


「……はい」


「でも、正体が分からない力に頼り切るのは危険よ。いずれ、ちゃんと調べましょう」


 そう締めたユウナの言葉に、ルシエラは頷いた。


―――


「ルシエラ、ぼーっとしてると先に入るわよ」


 ユウナのその言葉でルシエラの意識は現在へ戻った。

「すみません。少し考えていました」


「魔剣のこと?」


「はい」


 ルシエラが正直に答えると、ユウナは浴槽の湯加減を確かめながら言った。


「大丈夫よ。少なくとも今のところ、悪意ある魔剣には見えない」


「そうですね」


「ただ、分からないものは分からない。そこは焦らず調べる。分からないまま使うなら、使う範囲を決める」


 ユウナは指先についた湯を払う。

「未知の力との付き合い方なんて、結局それくらいよ」


「……ユウナらしいですね」


「褒め言葉として受け取っておくわ」


 話は尽きないがそこは切り上げて、二人は湯浴みを始めた。

 まずは身体を洗い流す。


 迷宮の埃。

 アンデッドの腐臭。

 鎧の内側にこもった汗。

 戦いの跡。


 湯をかけるたびに、それらが少しずつ流れていく。


「うわ、まだ臭いが残ってる気がする」


「気のせいではないと思います」


「最悪ね」


 ユウナは心底嫌そうに言いながら、桶で湯を汲んだ。

「背中、流すわよ」


「お願いします」

 ルシエラが背を向ける。


 ユウナは湯をかけ、丁寧に泡を立てて洗い始めた。

 その手つきは慣れていて、余計な遠慮はないが、乱暴でもなかった。


 ルシエラは目を閉じる。


 湯の温かさ。

 背中を滑る手の感触。

 石造りの浴室に響く水音。

 遠ざかっていく迷宮の腐臭。


 少しずつ、身体の力が抜けていく。


「……あっ」


「なに?」


「そこ、少しくすぐったいです」


「ここ?」


「ひゃっ」


 ルシエラの肩が跳ねる。

 ユウナは一瞬だけ目を丸くし、それからにやりと笑った。


「へえ」


「ユウナ?」


「ここがルシエラの弱点ね」


「ちょ……っ、待ってください!」


「待たない」


 ユウナの指が、脇腹に近いところを、触れるか触れないかの絶妙な力加減で撫でる。


「っ、ユウナ!」


「はいはい、動かない。洗えないでしょ」


「絶対わざとです!」


「次の戦いのための確認よ」


「何の戦いですか!」


「……もう、分かってるくせにぃ」


「……っ!? そっちがその気なら――」


 ルシエラが振り向こうとした瞬間、ユウナは桶の湯をざばっとかけた。


「わぷっ」


「はい、反撃阻止」


「……ユウナ」

 ルシエラは濡れた髪を払うと、静かに桶を手に取った。


 ユウナはじりっと後退る。

「待ちなさい。怪我人よ、私」


「迷宮であれだけ暴れておいて、いつの話をしてるんですか!」


 バシャッ!


「びゃっ!?」

 湯がユウナの頭から降り注いだ。


 しばらく浴室には湯音と、短い悲鳴と、笑い声が混ざって響いていた。


 アンデッドの迷宮。

 魔剣の試練……涙を流しながら斬った幻影。

 それらすべてが、湯気の中で少しずつ遠ざかっていく。


 やがて一通り騒いだあと、今度はルシエラがユウナの背中を流す番になった。


 ユウナはルシエラに背を向けながら、やや警戒が混ざった声で言う。

「丁寧にね。私は繊細だから」


「はいはい」


「本当に分かってる?」


「分かっています」

 ルシエラは静かに笑い、その背中を丁寧に擦る。


 一般的には荒くれ者と言われている冒険者とは思えない程に手入れされた、きめ細やかな肌。

 その力からは想像もできない、細い背中。

 しかし、幾度も死線を越えてきた大きな背中。


 ルシエラの手がふと止まった。


「どうしたの?」


「……ユウナ」


「ん?」


「古戦場で……叱られた時のことを、思い出していました」


 ユウナは何も言わなかった。


 湯気の中で、ルシエラはゆっくりと言葉を続ける。

「ユウナから、あんなに鋭い声を向けられたのは初めてでした」


 あの時。

 アンデッドを前に迷った自分へ、ユウナは容赦なく言った。


 その感情は不要だ。

 捨てなさい。


 ルシエラは理解していた。

 ユウナが正しいことも、アンデッド相手に迷うのは意味がないことも。


 それでも、胸は震えた。


 それでユウナに拒まれたような気がした。

 隣に立つ資格がないと、突きつけられたような気がした。


「……少し、怖かったです」

 小さな声だった。


「ユウナに怒られることが、ではなくて」

 ルシエラはユウナの背中をじっとみつめる。


「ユウナの隣に立てないと思われたのかもしれないことが」


 沈黙が落ちた。

 湯気がゆっくりと流れる。


 やがてユウナが、小さく息を吐いた。


「ごめん」


 短い言葉だった。

 しかし、軽くはなかった。


「傷つけたのなら謝るわ」


 ユウナは前を向いたまま言う。


「でも、私はあえて強く言った。あなたが動揺することも分かってた」


 声が低くなる。


「それでも必要だと思った」


 ルシエラは黙って聞いている。


「アンデッドは、人の心に入り込むものもいる。死者の姿を使うものもいる。声を真似るものもいる。助けを求めるふりをするものもいる」


 一拍。


「一瞬でも迷ったら、死ぬ」


 それは脅しではない。


「私はあなたの優しさを否定したかったわけじゃない。むしろ、そこは大事にしてほしいと思ってる」


 ユウナは肩越しにルシエラを見た。

「でも、優しさを向ける相手を間違えたら、あなたが死ぬ」


 その瞳は揺れていた。

「私はそれが嫌だったの」


 ルシエラの胸が静かに震えた。


 怒りでも、拒絶でもない。

 あの叱責の奥にあったもの。


 それは、ルシエラを失うことへの恐れだった。


「……はい」

 ルシエラは小さく頷く。


「分かっています」

 そして微笑んだ。

「ありがとうございます。叱ってくれて」


「お礼を言われることじゃないわ」

 正面に向き直りながら、努めてぶっきらぼうな声を作って言った。


「いいえ」


 ルシエラはユウナの肩に湯をかける。


「私を死なせないために、必要なことを言ってくれたんですから」


 ユウナは照れ隠しのように呟いた。

「……そういうところよ」


「何がですか?」


「あなたの優しさ」


 ルシエラは少しだけ目を瞬かせた。


 ユウナは前を向いたまま続ける。

「自分が傷ついたことより、私が何を思って言ったかを先に見ようとする」


 深く息を吐く。

「そういうところ、私はたぶん……救われてる」


 ルシエラの手が止まる。


 ユウナはハッとして、慌てたように言った。

「やっぱり今のなし。恥ずかしい」


「もう聞きました。なしにはしません」

「しなさい」

「しません」


 短いやり取りのあと、ルシエラはユウナの背中に額を寄せた。


 そして強く抱きしめるわけではなく、ただそっと肩に手を添える。


「私も、ユウナに救われています」

 湯気の中で、その声はやわらかく響いた。

「だから、これからも叱ってください。必要な時は」


「……嫌なお願いね」


「でも、してくれますよね?」


 ユウナはしばらく黙ったあと、観念したように肩を落とした。

「するわよ」


 そして、口元を緩めて明るい声を出す。

「でもまあ、できれば叱らせないで」


「努力します」


「そこは断言してほしかったわね」


 二人は小さく笑った。


 魔剣は手に入れた。

 迷宮から不本意ながら持ち帰った腐臭も綺麗に流した。


 ――これで

「魔剣の迷宮、完全攻略ね」


 ユウナが力強く宣言した。

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