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ユウナとルシエラ①

 翌朝。


 街はまだ完全には目覚めきっていない時間だった。

 窓から差し込む淡い朝日が、宿の三階に作られた広い住居スペースを、ゆっくりと照らし始めている。


 ここは、普通の宿泊客が泊まる部屋とはまるで違っていた。

 三階の大部分をぶち抜くようにして作られたその空間には、広いリビングがあり、大きな窓があり、ゆったりとした寝室がある。


 そして何より――キッチンが豪華だった。

 調理台は広く、包丁や鍋は用途ごとに揃えられ、香辛料や調味料の瓶は見やすいように整然と並べられている。

 棚には乾燥食材や保存食がきちんと収められ、小さいながらも、食材の鮮度を保つための氷室まで備えつけられていた。


 普通の冒険者の部屋では、まず見ない光景である。


 それは明らかに、ユウナのこだわりだった。

 食事を、ただ空腹を満たすものではなく、日々を生きる楽しみのひとつとして大事にしている人間のキッチンだった。


 そんな部屋の主であるユウナは、まだ眠っている。


 呼吸は穏やかだが、眠りは深かった。


 怪我の影響に加え、三時間の飛行、ギルド長への報告、神殿での治療、そして宿へ戻ってからのあれこれで、昨日はさすがに疲れきっていたのだろう。


 隣で眠っていたルシエラが先に目を覚ました。

 静かに瞼を開き、しばらく天井を見つめてから、そっと視線を横へ向ける。


 すぐ隣にユウナがいた。

 髪は少し乱れ、表情は完全に無防備で、普段の皮肉っぽい笑みも、戦闘中に見せる鋭さもない。


 ただ静かに眠る、柔らかな寝顔だった。

 それを見て、ルシエラは優し気に微笑む。


 いつもならユウナの抱きつき癖に悪戦苦闘している時間である。


 寝ている間に、いつの間にか腕を回してきたり。

 顔をすりすりと押しつけてきたり。

 起きてから指摘すると、「無意識だから仕方ない」と堂々と言い張ったりする。


 だが、今日は違った。


 怪我のせいだろう。

 さすがに大きく身体を動かすことはできないのか、ユウナはルシエラに抱きついてはいなかった。


 その代わり。

 ぎゅっと、無意識のままルシエラの手を握っていた。


 まるで、離したくないとでも言うように。


 ルシエラは、その様子をしばらく見つめていた。

 それから、くすりと小さく笑い、起こさないように気をつけながら、そっと指を動かす。


 ユウナの指を、一本ずつゆっくりと解いていく。


 離された指先が、ほんの少しだけ名残惜しそうに動いた。

 けれどユウナは目を覚まさず、すぐにまた深い眠りの中へ沈んでいった。


 ルシエラは静かにベッドを降り、音を立てないようにキッチンへ向かう。


 朝食の準備をするためだった。

 神官が言っていた通り、今のユウナに必要なのは消化の良い食事。


 つまり、おかゆである。


 鍋に水を入れる。

 米を入れる。

 火にかける。


 朝のキッチンに、小さな調理の音が響き始めた。


 やがて鍋の中で湯気が立ち、ぐつぐつと控えめな音を立てながら、米が柔らかく煮えていく。


 ルシエラは木べらでゆっくりとかき混ぜながら、昨夜のユウナの顔を思い出した。

 おかゆを見るたびに浮かべる、あの悲しそうな顔。

 あからさまに眉が下がり、「またか」と言いたげに遠い目をする顔。


 きっと、今日も同じ顔をするのだろう。


 ルシエラは少し考えた。


 鍋を見つめる。

 揺れる湯気の向こうで、白く柔らかな米がゆっくりと形を崩している。


「……」


 神官は、消化の良い食事と言った。

 完全な流動食でなければならない、とまでは言っていない。


 ルシエラは棚へ目を向ける。

 そこには、ユウナが揃えたさまざまな食材が並んでいた。


 チーズ。


 バター。


 乾燥ハーブ。


 香辛料の瓶。


 ひとつひとつが、ユウナの食へのこだわりをそのまま形にしたようだった。


 ルシエラは少し迷ってから、チーズを手に取った。


 少量だけ削り、鍋の中へ落とす。

 白い米の中へ沈んだチーズは、熱にほどけるように溶けていき、やがてとろりとした艶と、やわらかな香りを広げ始めた。


 ルシエラは火加減を調整し、米の硬さを確かめる。


 完全なおかゆよりは、ほんの少しだけ水分を減らす。


 胃に負担がかからない程度に。

 しかし、食事として楽しめる程度には。


「チーズを入れて……」

 木べらで、ゆっくり混ぜる。


「少しだけ硬めにして……」

 ふわりと、優しい香りが立つ。


「リゾット風にするくらいならいいよね」

 誰に言い訳するでもなく、小さく呟いた。


 鍋から立ちのぼる匂いは、普通のおかゆよりも少しだけ豊かで、少しだけ食欲をそそるものになっていた。


 ルシエラは満足そうに小さく頷き、器を用意して盛りつける。


 とろりとした米。


 溶けたチーズ。


 控えめに散らした乾燥ハーブ。


 湯気が、朝の光の中でやわらかく揺れる。


 その時、背後から声がした。


「……いい匂いがする」


 ルシエラが振り向く。

 そこには、壁に片手をつき、身体を預けるようにして立っているユウナがいた。


 まだ寝起きの顔で、髪も寝癖が付いたままだ。


 歩くのはまだ辛そうだった。

 それでも、匂いに釣られたのか、キッチンまで来てしまったらしい。


 ルシエラは少し驚き、すぐに眉を寄せた。

「まだそんなに歩いてはいけませんよ」


 ユウナはその注意を聞いているのかいないのか、目を細めて鍋を見つめ、それから鼻をひくひくと動かした。


「……チーズ?」


 ルシエラは頷く。


「はい」


 ユウナの顔が、ぱっと明るくなった。

「おかゆじゃない?」


 ルシエラは静かに言った。

「おかゆです」


 ユウナの顔が、分かりやすく曇る。


 だがルシエラは、そこで続けた。


「ただし」


 器を手に取り、ユウナの前へ差し出す。


「リゾット風です」


 ユウナが、器を覗き込んだ。


 とろりとした米。

 やわらかく溶けたチーズ。

 ほんのり香るハーブ。


 それは間違いなく消化の良い食事であり、同時に、昨日までのただ白く柔らかいおかゆとは明らかに違っていた。


 数秒の沈黙。


 そして――。


 ユウナは、満面の笑顔を見せた。

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