おかゆ脱出作戦④
予定通り、三時間ほどで二人はヴァルクレアへ到着した。
街門の衛兵たちは、包帯だらけのユウナと、戦いの痕を色濃く残したルシエラの姿に一様に目を見開いた。
衛兵に事情を説明すると、その内容に一層の驚愕が走る。
ゴブリンの大規模発生、上位個体の群れ、そして伝説級ゴブリンの出現。それがハイペリオン級冒険者の緊急報告となれば、門前で押し問答をしている余裕などなかった。
すぐに通行許可と、街中での飛行移動の特別許可が下りる。
二人はそのまま街の上を飛び、建物の屋根を越え、通りを行き交う人々の驚いた視線を受けながら、冒険者ギルドの前まで移動した。
ギルドの入口を前にして、飛行魔法を解除する。
ふわり、と足が地面へ近づき、ルシエラは腕の中のユウナをできる限り慎重に降ろした。
ユウナはどうにか地面に立ったものの、それは立てるというだけで、自分の体重を支え続けられるという意味ではなかった。
ルシエラはすぐに横から腕を回し、倒れないよう支える。
「やはり立つのは厳しそうです……抱えて入りますか?」
ルシエラは当然のようにそう提案したが、ユウナは少しだけ顔をしかめ、弱々しくも左右に首を振った。
「それはちょっと……さすがに恥ずかしいかな」
その言葉にルシエラは何か言いたげな顔をしたものの、結局は何も言わず、ユウナの意地を尊重することにした。
そうしてルシエラはユウナに肩を貸し、その体重の多くを引き受けながら、ゆっくりとギルドの扉を押し開けた。
中は、いつも通り冒険者たちで賑わっていた。
昼間から酒を飲んでいる者。
掲示板の前で依頼書を眺めている者。
受付で報告をしている者。
顔見知りと冗談を交わしながら、明日の稼ぎを相談している者。
それはユウナにとって、何度も見てきた日常の光景だった。
だが――。
二人が中へ入った瞬間、その日常はぴたりと止まった。
「……え?」
最初に声を漏らしたのは、受付嬢だった。
その目が大きく見開かれる。
視線の先にいたのは、全身を包帯で覆われ、ルシエラに支えられてようやく立っているユウナだった。
続いて、近くにいた冒険者たちも気づく。
「おい、あれ……」
「ユウナ……?」
ざわめきが、波のように広がっていく。
「嘘だろ。どうしたんだ、あれ」
「確か、ゴブリン退治に行ってたんじゃなかったか?」
「ゴブリンで、あんなになるのか……?」
ハイペリオン級。
この大陸でも数えるほどしかいない、上位冒険者。
それが、見るからに危うい姿で帰ってきた。
それだけで異常事態であると理解するには十分だった。
受付嬢が慌ててカウンターから身を乗り出す。
「ユ、ユウナさん!? どうしたんですか、その怪我は!?」
ユウナは、苦笑しながら答えた。
「ちょっとね……ゴブリンと喧嘩してきた」
「ゴブリン相手にそんなことにならないでしょう!?
というか、“ちょっと”の範囲を明らかに超えています!」
受付嬢の顔色が変わり、近くにいた職員が慌てて奥へ駆けていく。
「ギルド長!!」
それからは、ほとんど秒の出来事だった。
すぐに職員が戻ってきて、二人はそのままギルド長室へ通された。
扉が閉まり、外のざわめきが少し遠ざかる。
部屋の中で二人を迎えたギルド長は、普段ならば書類仕事の合間に使う簡易椅子を勧めるところを、今日は迷わず来客用の上等なソファを示した。
ルシエラがユウナを座らせ、その隣へ腰を下ろす。
ギルド長もまた、机を挟んだ向かいのソファに座り、二人をじっと見た。
その視線は厳しかった。
「説明してもらおうか」
ユウナは一度、浅く息を整えてから口を開いた。
「村の近くで発見されたゴブリンが、大量に増えて巣を作っていたわ」
ギルド長の眉がわずかに動く。
「数は百以上。そのほとんどが、ゴブリンロードだった」
「なにっ!?」
ギルド長の顔が驚きに包まれるが、ユウナの報告はそこで終わらなかった。
「レジェンダリーゴブリンって、知ってる?」
ギルド長の表情がさらに険しくなる。
「……聞いたことはある」
低い声だった。
「大破局の初期に出現し、人族に甚大な被害を及ぼした個体だとな。その時にはまだ各地に戦力が残っていたから、どうにか撃退できたらしいが……」
そこで一度、言葉を切る。
「もしあれが生き延びていたら、今の人族の生存圏は、すべてゴブリンに埋め尽くされていただろう。そういう類いの怪物だとも聞いている」
ユウナは小さく頷いた。
「そんな言い伝えなのね……私は知らなかったんだけど、まあ確かに、あの増え方を見ると納得の話だわ」
続けてユウナは苦笑混じりに言った。
「でも、まだ発生したばかりで小集団だったからね」
息を整えながら、続ける。
「なんとか倒せたわ」
小集団。
ゴブリンロード百体超えをそう表現すること自体が、レジェンダリーゴブリンの異常性と恐ろしさを証明していた。
ギルド長の視線が、あらためてユウナの身体へ向けられる。
包帯。
ルシエラに支えられなければ座っているのも苦しそうな姿勢。
少し話すだけで乱れていく呼吸。
ギルド長はゆっくりと息を吐いた。
「……なるほどな」
短く言ってから立ち上がる。
そして、驚愕を隠せないまま記録を取っていた職員へ向き直った。
「王都へ連絡だ」
「レジェンダリーゴブリン発生、およびゴブリンロード多数残存。危険度は最大級として扱え。軍への討伐隊編成要請も同時に出す。
近辺のギルドにも依頼票を回せ。」
「は、はい!」
職員が慌ただしく部屋を出ていく。
ユウナは苦笑して、小さく肩をすくめようとして、すぐに痛みに顔をしかめた。
「ハイペリオン級の冒険者としては、あんまりボロボロな姿を見せたくはなかったんだけど……」
少しだけ息を整える。
「何十体も残っているゴブリンロードを、放っておくわけにもいかないからね」
報告はすぐに受理された。
レジェンダリーゴブリンの発生。
そして、ゴブリンロードの残存。
危険度は明白であり、国への連絡、討伐隊の編成、周辺村落への警戒通達まで、対応は一気に動き始めた。
報告を終えたあと、ユウナはそのまま神殿へ運ばれた。
待たされることはなかった。
ハイペリオン級冒険者の重傷というだけでも緊急性は高く、加えて持ち込まれた情報の重大さが、神殿側の対応を早めたのだろう。
高位神官による高位回復魔法がすぐに施された。
白い光が幾重にも重なり、傷ついた身体の奥へと染み込んでいく。
折れた骨は繋がり、傷ついた内臓は癒え、呼吸は少しずつ楽になり、体内に残っていた深い痛みが、波が引くように薄れていった。
さすがに、一瞬で完調とはいかない。
それでも少なくとも、命に関わる危険は遠ざかり、あとは慎重に回復を待てばいい状態にまでは戻った。
治療を終えたあと、ユウナはゆっくりと立ち上がった。
すぐ隣では、ルシエラがいつでも支えられるように手を添えている。
まだ足は震えていた。
それでも、歩ける。
一歩。
また一歩。
「……うん」
ユウナは確かめるように息を吐いた。
「何とか歩けるわね」
その声には、ようやく少しだけ、本来の調子が戻っていた。
そして二人は宿へ戻った。
久しぶりの拠点だった。
見慣れた階段を上がり、三階フロアのリビングへ入る。
家具の配置も、窓から差し込む光も、壁にかかった道具の位置も、出発前と何ひとつ変わっていない。
それだけのことが、妙に懐かしく、そして暖かかった。
ソファに腰を下ろすと、ユウナは大きく息を吐いた。
「……疲れた」
本当に、心の底から出た声だった。
ルシエラは何も言わず、紅茶の注がれたカップをユウナの前へ置いた。
それから自分もその隣に腰を下ろす。
ようやく訪れた、静かな時間だった。
しばらく、二人の間に沈黙が続く。
窓の外からは、街の穏やかなざわめきが聞こえていた。
戦場の喧騒も、村を包んでいた緊張も、ここにはもうない。
あるのは、湯気の立つ紅茶と、慣れた部屋の空気と、二人が帰ってこられたという事実だけだった。
やがてユウナがぽつりと呟いた。
「……ねえ」
ルシエラを見る。
「今回の判断は……正しかったのかな?」
その問いは軽くはなかった。
レジェンダリーゴブリン……人外の強さを誇るそれを二人だけで相手取ったこと。
その結果として、ユウナは死の淵まで追い込まれた。
今回は勝てた。
倒せたから、こうして帰ってこられた。
だが、もし負けていたら。
もしあの場で、二人とも帰れなくなっていたら。
報告は届かず、村も、街も、もっと大きな被害に呑み込まれていたかもしれない。
ユウナは視線を落としたまま、静かに言った。
「応援を呼ぶべきだったのかもしれない」
そうしていれば、少なくとも危機は確実に伝えられた。
犠牲は出たとしても、もっと正しい手順で、もっと確実な形で、事態を収束させられた可能性もあった。
ルシエラは目を閉じ、しばらく黙っていた。
そして、静かに首を横へ振る。
「分かりません」
落ち着いた声だった。
「でも」
目を開け、ユウナの顔を見る。
「その判断こそが、ユウナだということは分かります」
ルシエラは胸の前でそっと拳を握った。
「私は、何があってもユウナの判断を信じます」
まっすぐに。
迷いなく。
「剣となり、盾となって」
その声は静かだったが、揺らがなかった。
「その正しさを証明します」
数秒の沈黙が二人を包んだ。
そのあとで、ユウナは微かな笑みを浮かべた。
「ありがとうルシエラ……これからもよろしくね」
「……はい」
短い返事だった。
しかし、その一言に込められたものは、どんな誓いの言葉よりも重かった。
そして、次の瞬間。
ユウナは場の空気を切り替えるように、ぱっと明るい声を出した。
「じゃあ今日は、私の判断で晩御飯はお肉食べようか!」
ルシエラの視線がすっと細くなる。
「……神官から、三日ほどは消化のいいものを食べるように言われましたよね?」
ユウナはすかさず返した。
「でも、私の判断を――」
「それは全然別の話です」
ぴしゃり。
一切の容赦がなかった。
ルシエラは静かに、そして揺るぎなく結論を告げる。
「おかゆです」
ユウナはソファの背にもたれ、遠い目をした。
拠点には帰ってきた。
危機は伝えた。
治療も受けた。
だがどうやら、ユウナにとっての戦いは、まだ終わっていないらしかった。




