おかゆ脱出作戦③
翌日。
小さな机の上には、湯気の立つ椀が二つ並んでいた。
中身は――やはりおかゆである。
ユウナはベッドの上に座ったまま、その白く柔らかな食べ物をじっと見つめていた。
数秒間の沈黙。
湯気がゆらゆらと立ちのぼり、窓から差し込む朝の光の中で、淡くほどけていく。
そしてユウナは、何か重大な決意を固めた者のように、ゆっくりと顔を上げた。
「魔法を使う分には問題ないわ」
自信満々に、そう言い放つ。
その声には、根拠があるような、ないような、しかし本人だけは妙に確信していると分かる響きがあった。
ルシエラは、スプーンを持ったまま動きを止めた。
「……」
ゆっくりとユウナを見る。
昨日とまったく同じ話題だった。
いやしかし、昨日よりも勢いがある。
よほどおかゆだけの生活が堪えているのだろう。
ちなみに、ルシエラも同じものを食べている。
三日間、朝昼晩とユウナに付き合っている
それでもルシエラは、特に不満を口にしなかった。
むしろ、胃に優しくて温かく、普通に美味しいと思っている。
だからこそ、ユウナがここまで追い詰められたような顔をしていることが、少しだけ不思議でもあった。
「……」
ルシエラは静かにおかゆをひと口食べた。
ゆっくり咀嚼し、飲み込む。
それから、淡々と言った。
「昨日」
短く。
「同じ話をしました」
ユウナは即答した。
「昨日は昨日よ――今日は今日」
なぜか少し偉そうですらあった。
ルシエラは数秒ほど黙り、それから小さく息を吐いた。
「……続けてください」
その言葉を聞いた瞬間、ユウナの目が輝いた。
待ってましたと言わんばかりに、包帯だらけの身体でそろそろと身を乗り出す。
「だからルシエラ」
真剣な顔だった。
「抱いて欲しいの」
沈黙。
部屋の時間が、そこで完全に止まった。
ルシエラの思考も止まった。
まるで誰かが、頭の中の魔動機関を唐突に停止させたかのように、彼女はスプーンを持ったまま固まり、まばたきすら忘れてユウナを見つめていた。
数秒。
いや、十秒ほど。
やがて、ルシエラの口がゆっくりと開く。
「え?」
声が、わずかに裏返った。
「……抱い……て?」
その意味を追いかけた瞬間、ルシエラの顔が一気に赤くなった。
頬から耳まで、みるみるうちに朱が差していく。
抱く。
抱いて欲しい。
つまり、それは――。
「抱くって……っ!?」
声は完全に裏返った。
そこから先の言葉は、声にならなかった。
視線が泳ぎ、手に持ったスプーンが大きく揺れ、ルシエラは完全に混乱していた。
その様子を見て、ユウナは不思議そうに首を傾げる。
「……?」
だが、深く考えるほどの体力もなかったのか、あるいは単に説明を急ぎたかったのか、ユウナはすぐに話を続けた。
「まあいいわ、説明するわね」
小さく咳払いをして、指を一本立てる。
「まず、【フライト】を使う」
二本目の指。
「それで私の身体が浮く」
三本目。
「でも、私一人だと危ない」
四本目。
「だから、ルシエラが私を抱きかかえて飛ぶ」
そして、最後に手を開く。
「魔法をかけ直す時は、一回地上に降りる!」
包帯だらけのまま、ユウナは胸を張った。
「これで安全」
どや顔である。
ルシエラの顔から、先ほどまでの赤みがゆっくりと引いていく。
代わりに残ったのは、穏やかさでも、安堵でもなく、静かな無表情だった。
「……」
しばしの間を置いて、ルシエラは静かに言った。
「つまり、運搬ということですか?」
ユウナは力強く頷いた。
「そう、それよ! これしかない!」
ルシエラは目を閉じた。
深く、長く息を吐く。
「……」
少しの間。
それから、低く言った。
「最初から、そう言ってください」
ユウナは首を傾げる。
「ん?」
ルシエラは顔を背けた。
まだ、ほんの少し耳が赤い。
ユウナは、ぽかんとした顔でルシエラを見つめた。
数秒後……ピンときた。
そして、にやりと笑った。
「……もしかして、変な想像した?」
じり、と身を乗り出す。
ルシエラの肩が、びくりと跳ねた。
次の瞬間、ルシエラは何も言わず、静かにおかゆをすくった。
かなり多めだった。
それをユウナの口元へ差し出す。
「口を開けてください」
ユウナは仰け反ろうとするが、痛みと背中に敷かれたクッションのせいで上手く行かない
「いや、ちょっと待――」
「開けてください」
有無を言わせない声だった。
ユウナは渋々、口を開ける。
どん。
山盛りのおかゆが、容赦なく投入された。
「もごっ!?」
ルシエラは、赤い顔で次の一口を準備しながら言った。
「余計なことを言う口は塞いでおいてください」
「むぐぐぐ……!」
ユウナは涙目になりながら、必死に口の中のおかゆを飲み込んだ。
しばらく口内のおかゆと死闘を演じ、どうにか喉を通して小さく息をつく。
「……でも」
まだ懲りていないらしい。
「作戦自体は、良いでしょ?」
ルシエラは、少し考えた。
視線を窓の外へ向ける。
理屈だけなら、何とかなりそうな気はする。
ユウナが魔法で身体を浮かせ、ルシエラが抱きかかえて移動する。
歩く必要はない。
姿勢や速度の調整も、ルシエラが担えばいい。
ユウナも飛行状態で重みがないと考えれば、それも容易そうだ。
魔法の効果が切れる前に地上へ降り、かけ直すようにすれば……少なくともユウナ一人で飛ぼうとするよりははるかに安全だった。
それに、ゴブリンロードたちの脅威を早く街へ伝える必要があるという点も、間違いではない。
ユウナは期待に満ちた目でルシエラを見ている。
その顔には、早くおかゆ生活から脱したいという切実な願いも、かなり強く混じっていた。
ルシエラは、ゆっくりと言った。
「……条件付きです」
ユウナの目が、ぱっと輝く。
「本当!?」
ルシエラは頷いて、指を一本立てる。
「出発は――」
そこで、少しだけ間を置いた。
ユウナが、ごくりと息を呑む。
「おかゆを完食してからです」
ユウナの顔が、ぴたりと固まった。
視線が机の上へ落ちる。
そこには、まだお椀の中に半分以上残っているおかゆが、ほかほかと湯気を立てていた。
長い沈黙。
朝の光の中で、湯気だけがのんきに揺れている。
やがてユウナは、ぽつりと呟いた。
「……街の肉料理は遠いわね」




