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おかゆ脱出作戦②

 嫌々ながらおかゆを攻略中のユウナ

 出されたスプーンを咥え、もごもごと口を動かして飲み込む。


 この世の不幸を一身に背負ったかのような表情――

 そして何より、一度に多く食べさせれば、おかゆと言えど胃に大きな負担がかかると判断したルシエラは、小さく息をついておかゆの椀を一旦机の上に置く。


 そのわずかな間を狙ったかのように、ユウナがぽつりと呟いた。


「……魔法で飛ぶ分には、何とかなりそうよね」


 部屋の空気がぴたりと止まった。


 その言葉を聞いたルシエラは、数回まばたきをし、まるで自分の耳が今しがた何を拾ったのか確認するように、ゆっくりとユウナを見つめた。


 そして。


「……は?」


 思わず、低い声で聞き返した。


 だがユウナは、いたって真顔だった。

「早く街に戻って、報告しないと」


 当然のことを口にしているだけだ、とでも言いたげな声で、ユウナは窓の外へ視線を向ける。


 小さな窓の向こうには、村を囲む畑と、そのさらに奥に横たわる森が見えていた。


 あの森の奥に、ゴブリンたちの巣があった。


 ユウナは静かに続ける。

「王を失ったゴブリンは、烏合の衆よ、でも、その烏合の衆が――」


 そこで一度、言葉を区切る。

「ゴブリンロードなのよ」


 小さく息を吐き、まだ力の戻らない指先をゆっくり折りながら、ユウナは考えを整理するように話し始めた。

「ルシエラが5~60体は倒したけど」


 異常なキルスコアに、少しだけ苦笑する。

「あの数だもの。まだまだ残ってる」


 ゴブリンロードと言う、ただのゴブリンとは比較にならない力を持つ上位個体が、方々に散っている。


 統率を失ったとはいえ、あれだけの数が各地へ逃れれば、いずれどこかで新たな群れを作り、また人族の脅威となる可能性は十分にあった。


「群れが再編成される前に」

 ユウナの表情が、少しだけ引き締まる。

「しっかり討伐隊を組織して駆除する必要があるわ」


 その判断そのものは間違っていなかった。


 問題は、それを口にしている本人が、今まさにベッドの上から一人では降りられない状態だという一点である。


「魔法なら三時間で街だし」

 ユウナは、まるで簡単な道順でも説明するように続ける。


「歩く必要もないから」

 そこで、軽く肩をすくめようとして――痛んだのか、ほんのわずかに顔をしかめた。


「ここまで回復してれば、何とでもなるわ」


 ルシエラの目が、すっと細くなる。


 それでもユウナは、さらに言葉を重ねた。


「それに」

 そこには、ほんの少しだけ切実な希望の色が混じっていた。

「街に戻れれば、高位神官の魔法ですぐ回復できる」


 ヴァルクレアには神殿がある。


 高位の神官もいる。


 強力な神聖魔法を受けられれば、今の傷も、村の老プリーストの力だけで癒やすより、はるかに早く治せるはずだった。


 そしてユウナは、少し間を置いてから、真剣な顔のまま言った。


「おかゆ以外、食べたい」


 静かな部屋の中で、その一言だけが、やけにくっきりと響いた。


 ルシエラは無言だった。


 ただ、じっとユウナを見ている。


 長い沈黙が落ちた。


 窓の外では鳥の声が聞こえ、炉の火が小さく爆ぜる音さえ、妙にはっきりと耳に残る。


 ユウナが、少し不安そうに口を開いた。

「……ルシエラ?」


 ルシエラは、ゆっくりと立ち上がった。

 木の椅子が床を擦る音が、やけに重く響く。

 彼女はベッドの横まで歩くと、ユウナの顔を覗き込むように身を屈めた。


 かなり近い距離だった。


 ユウナが、ほんの少しだけ身を引く。


「ユウナ」

 低い声だった。


「はい」


「今、自力で歩けますか?」


 静かに問われ、ユウナは即答した。


「無理」


「立てますか?」

「無理」


「起き上がれますか?」

「無理」


 ルシエラは、こくりと頷いた。

「なるほど」


 そして、まったく表情を変えないまま、静かに続ける。

「では質問です」


 ユウナが、少し身構えた。


「その状態で」


 ルシエラは真顔のまま、逃げ道を塞ぐように言葉を置いた。


「どうやって魔法を使うつもりですか?」


 ユウナが、一瞬固まる。


「えっと……異貌化すれば、魔法に必要な身振りとか要らないし……」


「では、集中の間に咳き込んだら?」


 ルシエラは淡々と続ける。


「……」


「魔力制御が乱れたら?」

「……」


「空中で意識を失ったら?」

「……」


 そこでルシエラは、揺るぎない結論を告げた。


「墜落です」

「……」


 ユウナが、そっと視線を逸らす。


 ルシエラは腕を組んだ。

「高度百メートルで飛んだとします」


 そのまま、恐ろしく冷静な声で計算を始める。


「もしその高さから制御を失って落下した場合、地面に到達するまで何秒ほどだと思いますか、ユウナ?」


 少し考えてから、ユウナが小さく答えた。


「えっと……四~五秒くらい?」


 ルシエラは頷いた。


「はい」


 そして静かに言う。


「まともに動けない今のユウナが、そこから立て直せると思いますか?」


 ユウナは、天井を見上げた。


 長い沈黙。


 それから、ぽつりと呟く。


「……でも、おかゆは嫌」


 ルシエラのこめかみに、うっすらと青筋が浮かんだ。


 ユウナは慌てて続ける。

「ちが……嫌って言うか!

 三食おかゆは、精神的なダメージが大きいと言うか――」


 ルシエラは無言で椀を持つ。

 スプーンでひと口分をすくい、ユウナの前へ差し出した。


「口を開けてください」

 少し強い口調


 ユウナは、弱々しく抵抗する。

「……街なら肉とか魚とか……」


「口を」


「……甘いものとか……」


「開けてください」


 有無を言わせない声だった。

 ユウナは観念して、ゆっくりと口を開ける。


 スプーンが入る。

 もぐもぐと口を動かし、慎重に飲み込む。


 それを見届けてから、ルシエラは静かに言った。

「治れば」


 ユウナを見る。

 ほんの少しだけ、その表情が柔らいだ。


「いくらでも食べられます」


 ユウナが、小さく息を吐く。


「……まあ、それはそうなんだけど」


 ルシエラは、椀を手に持ったまま、今度は少しだけ優しい声で言った。

「だから今は、我慢してください」


 そしてその瞳が、ほんのわずかに潤む。

「お願いだから、無理しないで……」


「……」


 ユウナはそれ以上何も言えなかった。


 使命感も、理屈も、食欲も、軽口も。


 その一言の前では、全部が色を失った。


 ルシエラがどれほど怖い思いをしたのか。

 どれほど必死に、自分を繋ぎ止めようとしてくれたのか。

 それが、今さらのように胸の奥へ沈み込んでくる。


 窓の外には、平和な村の朝が広がっていた。

 畑を渡る風。

 遠くで聞こえる人々の声。


 災厄の王が棲んでいた森の影さえ、今だけは穏やかに見える。


 その小さな家の中では。


 英雄二人の戦いのあととは思えないほど、静かで、柔らかな時間が流れていた。

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