レジェンダリーゴブリン⑧
永い数瞬のあと。
「……る……し……エら……」
ユウナの唇がかすかに動いた。
意識がはっきりと戻ったわけではない。
それでも、確かに意志を持った声だった。
空気を震わせるにはあまりにも弱く、かすれて、ほとんど吐息と変わらないほどの響きだったが、それでもルシエラの耳には、痛いほどはっきりと届いた。
「……!」
ルシエラの身体が、大きく震えた。
見開いた瞳が、腕の中のユウナへ向けられる。
「ユウナ……?」
震える声で名前を呼びながら、ルシエラはそっとその顔を覗き込んだ。
血に濡れた頬。
乱れた髪。
今にも途切れてしまいそうな浅い呼吸。
しかし、さきほどまで閉ざされていた瞼が、ほんのわずかに開いていた。
焦点はまだ定まっていない。
それでもユウナは、確かにルシエラを見ていた。
「ユウナ!」
弾けるように名を呼んだ瞬間、ルシエラは思わず腕に力を込めてしまい、すぐにその危うさに気づいて、慌てて抱きしめる力を緩めた。
今のユウナの身体は、強く触れることさえためらわれるほどに脆く、壊れてしまいそうだった。
「ユウナ……」
声が震える。
涙が止めようもなくこぼれ落ちる。
ルシエラは急いでポーションを口に含むと、もう一度ユウナへ顔を寄せ、先ほどよりもさらに慎重に唇を重ねた。
ゆっくりと。
確実に。
焦りに乱れそうになる呼吸を押さえ込みながら、回復薬を少しずつ、ユウナの内側へ送り込んでいく。
やがて、ユウナの喉がわずかに動いた。
こくり、と。
小さく、弱く、それでも確かに飲み込む。
回復薬の魔力が、かすかな光となって身体へ染み込んでいくのが分かった。
それでも、まだ足りない。
壊れた身体を元に戻すには、あまりにも足りない。
けれど――命は繋がっている。
その事実だけが、今のルシエラにとってはすべてだった。
「ユウナ……」
涙に濡れた顔のまま、ルシエラはかすかに微笑んだ。
震える指で、そっとユウナの頬に触れる。
「ユウナ……」
声が詰まり、言葉にならない息が漏れた。
「ユウナ……」
何度も、何度も名前を呼ぶ。
まるで、その名を呼び続けていれば、ユウナがどこにも行かず、ちゃんと自分の腕の中に留まってくれるのだと信じるように。
ユウナの瞳が、かすかに動いた。
まだ視界はぼやけているのだろう。
それでもその視線は、ゆっくりとルシエラを追い、やがて頼りなくそこに止まった。
唇が、もう一度動く。
「……泣いてる……の?」
消えてしまいそうなほど弱い声だった。
しかし、その言い方だけは、どこかいつものユウナのままだった。
その瞬間、ルシエラの涙がさらに溢れた。
「泣きますよ……」
震えた声が、喉の奥からこぼれる。
「当たり前です……」
ルシエラは額を、そっとユウナの額へ寄せた。
触れた温度はまだ低く、それだけで胸の奥が締めつけられたが、それでもそこには確かな温もりがあった。
「ユウナが……死んでしまうかと思ったんですから……」
落ちた涙が、ユウナの頬を静かに濡らす。
ユウナは、ほんのかすかに笑った。
「……死んで……ない……」
呼吸は浅く、言葉を紡ぐだけでも苦しげだった。
それでもユウナは、まるで冗談を言うみたいに、いつもの調子の欠片を無理やり拾い上げる。
「ほら……」
唇が、わずかに歪む。
「約束……したでしょ……」
ルシエラの瞳が揺れた。
ユウナの声は小さい。
耳を澄ませなければ、すぐに風の中へ溶けてしまいそうなほどに。
それでも、確かに言った。
「ルシエラ……」
ゆっくりと。
一文字ずつ、途切れながら。
「死なない……って……」
その言葉を聞いた瞬間、ルシエラの肩が震えた。
抑えきれない涙が、またいくつも頬を伝う。
「……はい……はい……っ!」
小さく、何度も頷いた。
そのときになって初めて、ルシエラは周囲へ目を向けた。
ゴブリンたちの姿はすでにまばらにしか見えなかった。
王を討たれた群れは統率を失い、散り散りになって、森の奥へ、あるいは荒れた戦場の向こうへと逃げ去っている。
半数近くは取り逃がしたかもしれない。
たとえ今は烏合の衆に戻ったとはいえ、あれらはただのゴブリンではなく、散った先で新たな群れを作れば、いずれまた人族の脅威となる可能性もあった。
だが今は。
今だけは、そんなことはどうでもよかった。
ルシエラはもう一度ユウナを見つめ、涙に濡れた顔のまま、それでもはっきりと言った。
「私たちの勝ちです」
ユウナは、かすかに息を吐いた。
安堵したように。
ほんの少しだけ、肩から力が抜けたように。
そして、そのまま瞼を閉じかける。
「ユウナ、寝ちゃダメです」
ルシエラは慌てて呼びかけた。
優しく、けれど必死に、その身体をほんのわずかに揺する。
「まだ寝ては……だめです。お願いですから、もう少しだけ起きていてください」
ユウナは弱く笑った。
「……大丈夫……」
声は、もうほとんど消えそうだった。
「ちょっと……疲れただけ……」
ルシエラは首を振る。
「だめです」
涙を拭い、今度ははっきりと言い切った。
「村には神官がいました。ちゃんと治療を受けるまで、それまでは寝ちゃだめです」
その声には、泣き出しそうな震えが残っていた。
それでも、ユウナを繋ぎ止めるために、ルシエラは強くあろうとした。
腕の中の身体を抱き直し、崩れてしまわないよう、けれど傷つけてしまわないよう、できる限り丁寧に支える。
ユウナは、かすかに微笑んだ。
「厳し……んだから……もう……」
その弱々しい文句を、ルシエラは胸の奥で大切に受け止めた。
文句を言える。
名前を呼べる。
約束を覚えている。
それだけで、今は十分すぎるほどだった。
ルシエラはゆっくりと立ち上がった。
血と土に汚れた身体。
半ば力を使い切った腕。
震えの残る足。
それでも、彼女はまっすぐに立った。
腕の中のユウナを、壊れ物を抱くように優しく抱え、まだ薄く開いたその瞳を見つめる。
「帰りましょう」
静かにルシエラはそう告げた。




