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第1話 もう一人のナイトメア②

 魔域は迷い込んだ者の願望を読み取る。

 そして、その願望を実現するように、内部の景色も、法則も、敵意すらも組み替えていく。


 それがこの異界の本質だ。


「何もない大地……乾いた風……常に纏いつく敵意」

 荒野を歩きながら、ユウナはぽつりと呟いた。


 足元には、ひび割れた大地。

 視界の果てまで続く、赤茶けた荒野。

 吹きつける風は乾ききっていて、肌を撫でるというより削っていくようですらある。

 そして何より、この空間には休息というものが存在しない。

 立ち止まれば、どこからともなく魔物が現れる。

 歩き続けても景色は変わらず、終わりの気配すら見えてこない。


「……昔の私と同じ、か」


 微かに笑う。

 それは愉快さからではなく、あまりに皮肉が過ぎたからだった。


 何も持たず、何も与えられず、ただ乾いた敵意の中を歩き続けるしかなかった日々。

 隠れる場所もない。

 休める場所もない。

 少しでも立ち止まれば、たちまち喰われる。


 そんな時間を、ユウナは確かに知っている。


 どれほど歩いただろうか。


 太陽の位置は曖昧で、影の伸び方にも規則性がない。

 吹く風は弱まることはなく、空の色すらほとんど変わらない。

 変化のない荒野と、散発的に出現する魔物。

 それだけを相手に歩き続けるうち、ユウナの時間感覚も方向感覚も、とうにあてにならなくなっていた。


「こんなに広いなんて聞いてないわよ」


 小さく愚痴をこぼし、乾いた風に晒された紺色の髪を撫で付ける。


 最初にこの魔域を調査した斥候は、比較的早い段階でナイトメアの姿を確認していたはずだ。

 少なくとも、その報告から推測する限りでは、ここまで広大な空間ではなかった。


「魔域は時間とともに広がっていくとはいえ……」


 わずか数日。

 それだけの時間で、侵入者の時間感覚と方向感覚を失わせるほどの規模にまで“成長”したというのか。


 ユウナは足を止め、乾いた地平線を見渡した。


 魔域に取り込まれたナイトメアの心が、この世界を形作っている。

 だとすれば、この果てのない荒野はその者の内側そのものだ。

 こんな荒野が願いだったのか。

 あるいは――願いの以前の、あまりにも飢えた、満たされぬ渇きが深すぎたのか。


「……これは予想外の形の危機ね」

 ユウナは低く呟く。


 剣で斬れる相手ならどうとでもなる。力で押し切れるならそれでいい。

 だが、相手が“何もない空間”そのものとなれば話は別だ。

 出口のない荒野。

 終わりの見えない移動。

 削られていく体力と集中力。

 それは刃では断てず、魔法でも焼き払えない種類の脅威だった。


「さて、どうしたものか……ん?」


 その時だった。

 吹きつける風の音に紛れて、別の音が混ざった。


 ごく小さい。

 だが、確かに耳に引っかかる。


 鋭く短い呼気。

 そして、剣が空気を裂く音。


 ユウナの表情が変わる。


 この荒野では、魔物の唸り声や足音など珍しくもない。

 だが今聞こえたそれは、明らかに“戦っている者”の音だった。


 ユウナは迷わなかった。

 風向きと音の重なりを瞬時に測り、剣を手にしたまま、その方角へ歩みを速める。


 果てのない荒野のただ中で、初めて現れた“変化”。


 その先にいるのが敵か、あるいは――

 この魔域の核に繋がる存在か。


 いずれにせよ、進む理由としては十分だった。


ーーー


 一人の女剣士が剣を振っていた。


 年の頃はユウナとそう変わらない。

 頭上には漆黒の角。

 背中まで伸びた茜色の髪は、本来なら目を引く色合いのはずなのに、手入れのされていないそれは艶を失い、ただ重たく垂れている。

 肌は色素が薄く、血の気に乏しい。

 身体は鍛えられていた。無駄のない筋肉が四肢を引き締め、立ち姿ひとつ取っても戦士としての下地がうかがえる。

 だが、その全身からは、生者にあるべき熱が決定的に欠けていた。


 その手に握られているのは巨大な剣。


 女がそれを振りかぶるたび、周囲に漂う瘴気が刃へと吸い込まれていく。

 そして振り下ろされると同時に、吸い上げた量の倍はあろうかという濃密な瘴気が、刃の軌跡に沿って吐き出されていた。


 まるで――

 この魔域そのものが、彼女を核として構築されているかのように。


 だが、ユウナの目はそれだけでは終わらなかった。


 動きが荒い。


 技そのものは洗練されている。

 剣筋は鋭く、体幹も強い。

 長い鍛錬の果てに身についたものだと、ひと目で分かる。

 それでもなお、その動きはどこか精彩を欠いていた。

 力任せというほどではない。だが、整っているはずの技の随所に、わずかな乱れが混じる。


 呼吸が弱いのだ。


 吸うたびに浅く、吐くたびに細い。

 まるで胸の奥に何かが引っかかっているような、苦しげな呼吸。


 そして、その唇から漏れていたのは、かすれた小さな声だった。


「私は……“穢れ”じゃない……」


 大剣が振るわれる。

 瘴気がうねる。


「証明してやる……」


 もう一度振るう。

 荒野の空気が震える。


「全部……見返してやる……」


 その声を聞いて、ユウナは理解した。


 ……なるほどね。


 あれは私だ。


 私になれなかった私…


 ユウナは一度、静かに目を伏せた。

 それから、どこか哀しげですらある微かな笑みを口元に浮かべると、黒角の剣士へ向かって歩き出した。


 足音を隠す気はなかった。

 隠す必要もない。


 女の剣が止まる。


 ゆっくりと、しかし即座に戦える速度で、その身がこちらを振り向いた。

 深い色を宿した瞳が、まっすぐにユウナを捉える。


 一瞬の静寂。


 風だけが二人のあいだを吹き抜け、砂をさらっていく。


 そして――


「……同族?」

 その一言で、張り詰めかけていた空気がわずかに緩んだ。


 少なくとも、目の前の相手は、見境なく襲いかかってくるだけの魔物ではない。

 その確認だけで十分だった。


 ユウナは静かな声で告げる。


「話ができる理性はありそうね?」


 女の大剣がわずかに下がる。

 だが、完全に構えを解いたわけではない。

 いつでも振り上げられるよう、重心は残されている。


「……理性?」


 女は小さく笑った。


 乾いた、ひび割れたような笑いだった。

 自嘲とも諦めともつかない、聞く者の胸に引っかかる笑い。


「理性があるから、私はここにいるのよ」


 その言葉とともに、周囲の瘴気がどくん、と脈打つように膨れた。


 ユウナの瞳が細められる。


 ――やはり。

 この魔域は、彼女の精神と直結している。


 感情が高ぶれば、魔域がそれに呼応して揺れる。

 怒りも、悲しみも、焦燥も、すべてがこの異界の形を変える。

 だが同時に、それは完全な同化ではないということでもあった。


 まだ、自我が残っている。

 まだ、引き返せる場所にいる。


 女はじっとユウナを見つめていた。

 敵を見る目ではない。

 警戒と、戸惑いと、それ以上に理解できないものを前にした眼差しだった。


「あなたは……どうしてそんな顔をしていられるの?」


 その声には、複数の感情が滲んでいた。


 嫉妬。

 困惑。

 そして――ほんのわずかな羨望。


 それに応じるように、周囲の瘴気が不安定に揺らめく。

 荒野の空気そのものが、彼女の心の揺れを映しているようだった。


 ユウナは迷いなく答える。

「私は私、だからよ」


「……」


「話は出来るみたいだから一つ言っておく」


 そこで一度、言葉を切る。

 相手の瞳をまっすぐに見据えたまま続けた。


「あなたのその先には、何もないわよ」


 風が吹く。

 乾いた髪が揺れる。


「真っ暗で、空っぽで……そのまま進めば、最後には自分という存在すらなくなるわ」


 その声は冷静だった。

 脅しでもなく、慰めでもなく、ただ知っていることを告げる者の声だった。


「それがあなたの望みだというなら、止めはしない」


 けれど、とユウナはわずかに目を細める。


「望んでいるようには見えないから、忠告だけはしておくわ」


 二人のあいだに、再び沈黙が落ちた。


 それは先ほどのような, 即座に刃が交わる前触れの沈黙ではない。

 言葉が届くかもしれない、だが一歩誤ればすべてが決壊する――そんな、危うい均衡の沈黙だった。


 女はユウナを睨んでいた。

 だが、その視線に宿っていたのは、はっきりとした敵意ではなかった。


 ――動揺。


 心の奥を揺さぶられ、その揺らぎを隠しきれない者の、危うい眼差し。

 一歩踏み間違えれば、怒りにも涙にも崩れ落ちそうな、脆い均衡の上に立つ目だった。


「……知ったようなことを」


 吐き捨てるように言う。

 だが、その声には鋭さがない。

 むしろ言葉そのものが、無理やり喉の奥から引きずり出されたように掠れていた。


 剣を握る手が、わずかに震えている。


「私は――強くなれば、全部変わると思った」


 ひとつ言葉を吐き出すたびに、空気が軋む。


 荒野を満たす瘴気がざわめき、地面のあちこちに歪な紋様がじわりと浮かび上がった。

 赤黒い筋が乾いた土を侵すように広がり、この魔域そのものが彼女の内面を映し出し始める。


「力があれば、認められると思った」


 震える声。

 それは誰かを威圧するためのものではない。

 自分に言い聞かせるために、何度も何度も繰り返してきた言葉の残骸だった。


「穢れを否定させなければ……私が正しいと証明すれば……」


 その言葉は、もはや目の前のユウナに向けられているのかすら曖昧だった。

 過去に自分を拒絶した誰かへ向けた叫びなのか。

 あるいは、かつて傷つき、うずくまったままの自分自身へ向けた執念なのか。


 ユウナは何も言わずにそれを見ていた。


 ――理解してしまったからだ。


 彼女は“力”を証明するために、この魔域の核と同化しようとしている。


 力を得るため。

 認めさせるため。

 否定されない存在になるため。


 けれど、その代償はあまりにも明白だった。


 自我の侵食。

 人格の摩耗。

 存在そのものが、この魔域へと溶けていくこと。


 強くなった先に待っているのは、勝利ではない。

 ただ、自分が自分でなくなるという、静かな消滅だけだ。


「でも……」


 女の声がかすれる。


 それまでの言葉とは違う。

 そこには怒りでも意地でもない、押し殺していた何かが滲んでいた。


「強くなっても……」


 わずかに視線が落ちる。


 その一瞬、剣を握る手から力が抜けかけたのを、ユウナは見逃さなかった。


「誰も、隣にいなかった」


 その瞬間だった。


 ――どくん、と脈打ち続けていたはずの魔域の鼓動が、不意に止まる。


 風が止んだ。


 砂の流れる音も、瘴気のざわめきも、どこか遠くで蠢いていた魔物たちの気配さえも、すべてが掻き消える。


 音が消える。


 荒野そのものが一瞬だけ、完全に静止したかのような無音。

 世界が息を止めたような、張り詰めた静寂だった。


 一拍。


 その静けさの中で、女はゆっくりと顔を上げた。

 その瞳がまっすぐにユウナを捉える。


 先ほどまでそこにあった狂気も、焦燥も、意地もない。

 ただ、剥き出しの感情だけがあった。


 痛み。

 孤独。

 置き去りにされた者の、救いを知らないまま耐え続けた心。


 そして、どうしようもなく滲み出る問い。

「あなたは……どうして壊れなかったの?」


 少しだけ間を置いて答える。

「……壊れたわよ……そして今も壊れている」

 そう言って、ユウナは静かに異貌化してみせた。


 肌がすっと青白く変わっていく。

 頭上の角はひと回り大きく肥大し、その輪郭はより鋭く、より禍々しく際立つ。

 そして何より、彼女そのものの“在り方”が変わった。


 そこに立つのは、ただの人族の剣士ではない。

 人の理からわずかに踏み外れ、より深く、より昏い負の側へと傾いた存在。


 その変化を前にして、女の周囲の瘴気がざわめいた。


「言ったでしょう? “その先には何もない”って」


 異貌化したまま、ユウナは黒角の剣士をまっすぐ見つめる。

 その瞳には、虚勢も憐れみもなかった。

 ただ、同じ場所を覗き込んだことのある者だけが持つ確信があった。


「だけどね」

 そう言って、ユウナは笑みを浮かべた。


「……っ!?」


 女が息を呑む。

 異形へと近づいたその姿でありながら、ユウナの笑みは不思議なほど穏やかだったからだ。


「先には何もないけどね、周りを見れば色々とあるものなのよ」


 女の眉がわずかに寄る。

 理解できない――そう顔に書いてあった。


 ユウナは続ける。


「自分を正当に評価する人間もいる。殴ってやろうかと思う人間もいる」


 そこで少しだけ肩をすくめ、口調を軽くした。


「隠れ家的名店で食べられる美味しいスイーツもあるし、冒険中に仕方なく齧る、塩辛いだけの乾いた干し肉もある」


 その何気ない言葉に、魔域の鼓動が乱れた。


 どこかの街の店。

 誰かとのやり取り。

 旅の途中の空腹。

 取るに足らない愚痴。

 大仰な理想でも、崇高な理念でもない。

 そこにあったのは、ただ生活の匂いだった。


 女の瞳が揺れる。

 「そんな……くだらないことで……」


 かすれた声だった。

 否定したいのに、否定しきれない響きが滲んでいる。


「くだらない?」

 ユウナは表情を引き締め、一歩、距離を詰めた。


「くだらないわよ。くだらないけど、それで十分なの」

 その声は強くなかった。

 押しつけるでもなく、論破するでもなく、ただ知っていることを伝える声だった。


 それからユウナは、ゆっくりと手を伸ばす。


「隣に誰かいてほしいなら、私がいてあげる」


 荒野の空気が震える。


「あなたは、私なのだから」


 その瞬間、魔域が激しく脈打った。


 どくん、どくん、と。

 荒野全体が巨大な心臓になったかのように、大地も空気も瘴気も、すべてが不規則に揺れ始める。


 女の手から力が抜けた。


 大剣が指の間を滑り落ち、乾いた地面に叩きつけられる。

 甲高い金属音が、静まりかけていた荒野に鋭く響いた。


「……私は、あなたみたいになれなかった」

 声が震えている。

「全部、証明しようとした。強くなれば、否定されなくなると思った」


 足元に浮かぶ紋様が、赤黒く不気味な光を放つ。

 それに呼応するように、瘴気が渦を巻き、空へと昇っていく。


「でも……強くなるほど、誰も近づかなくなった」


 その言葉は告白だった。

 誰にも言えず、誰にも見せられず、胸の奥に押し込め続けてきた敗北のかたちだった。


 女はユウナの伸ばした手を見つめる。


 その目にあるのは、恐れか諦めか。

 それとも、もう一度だけ何かを信じたいという、消えかけた願いか。


「私は……もう戻れない」

 その言葉と同時に、魔域の中心から黒い瘴気が噴き上がった。


 いや、それはただの瘴気ではない。

 意思を持つ触手のようにうねりながら、黒角のナイトメアの足元へと絡みついていく。


 ずるり、と。


 引きずり込むように。

 逃がすまいとするように。

 彼女を、この異界の核そのものへ縫い留めるように。


 ユウナの差し出した手と、魔域の昏い拘束。

 そのあいだで、女は立ち尽くしていた。


「戻らなくてもいい。そこまで強くなった力は、あなたのものなのだから」


 その言葉に、女の瞳が大きく揺れた。


 戻れない。

 もう遅い。

 取り返しがつかない。

 そう思っていたからこそ、その一言は彼女の予想を裏切ったのだろう。


 ユウナは、責めることも否定することもせず、静かに続ける。


「真っ暗な先へ、真っすぐ進まなければいい」


 黒い瘴気が足元でうねる。

 それでもユウナの声は揺らがない。


「ほんの少し、角度を変えるの」


 それは説教ではなかった。

 命令でもない。

 ただ、自分もまた暗がりの中を歩き、違う道を見出した者だけが言える、経験者の助言だった。


「私が一緒に行ってあげる」


 その瞬間、魔域の鼓動が大きく跳ねた。


 どくん、と。

 荒野全体が激しく脈打ち、大気が震える。

 女の手が、震えながらゆっくりと持ち上がった。


 その手にはなお、黒い瘴気が絡みついている。

 拒絶と執着の名残。

 魔域が彼女を手放すまいとする最後の抵抗。


 だが、ユウナは迷わなかった。


 異貌化したまま、かすかな笑みを浮かべる。

 そしてためらいなく、その手を取った。


 接触。


 次の瞬間、閃光が走る。


 視界が真白に染まり、続いて黒い奔流が二人を包み込んだ。

 魔域の中心にそびえていた瘴気の柱が、二人を軸として渦を巻き、荒れ狂う。


 女の意識が、ユウナへと流れ込んでくる。


 幼い日の記憶。

 浴びせられた視線。

 拒絶。

 否定。


 居場所を得られず、ただ“証明しなければならない”と追い立てられ続けた日々。


 そして――


 誰にも見せなかった、小さな願い。


 “普通に笑いたかった”


 その願いに触れた瞬間、ユウナの胸に鈍い痛みが走った。


 同じだ、と思った。


 歩いてきた道は違う。

 傷のかたちも違う。

 けれど、その底に沈んでいる孤独は、あまりにもよく似ていた。


 ユウナは侵食されない。


 壊れていないからではない。

 壊れていることを自覚したまま、それでも立っているからだ。

 その在り方そのものが、女の暴走を受け止め、飲み込まれかけた心を支えていた。


 荒れ狂っていた瘴気の色が、ゆっくりと変わっていく。


 赤黒く濁った色は、深い紫へ。

 さらにその奥から、夜明け前のような淡い青が滲み出す。


 暴走の波が少しずつ穏やかになっていく。


 ユウナは女をまっすぐに見つめた。


「まずはそうね……名前を教えてくれる?」


 沈黙。


 荒野が、いや、魔域そのものが静まり返る。

 すべてがその答えを待っているようだった。


 やがて、女の唇がかすかに動く。


「……ルシエラ」


 声は弱い。

 けれど確かに、それは自分自身を名乗る声だった。


 もう一度彼女は言う。


「私の名前は……ルシエラ」


 その瞬間だった。


 瘴気の中心に浮かんでいた魔域の核がひび割れる。

 細い亀裂は瞬く間に全体へと走り、次の瞬間、核は音もなく砕け散った。


 急速に魔域が縮小していく。


 果てのない荒野は輪郭を失い、瘴気は霧散し、異界を支えていた法則そのものが崩れていく。

 核を失った魔域は、もはや自然消滅へ向かうしかなかった。


 その只中で、ユウナはなお、ルシエラの手を握ったまま立っていた。


 引きずらない。

 庇わない。

 支配しない。


 ただ、手を握る。


「ルシエラ……よろしくね、ルシエラ。私はユウナよ」


 それは救済の宣言ではなかった。

 上下でも、施しでもない。

 ただひとりの人間として差し出される、対等な言葉だった。


「一緒に生きましょう」


 その言葉に、ルシエラの指先がかすかに震えた。


 強がりも。

 証明も。

 もう、そこにはない。


 残っていたのは、ようやく掴みかけた小さな現実だけだった。


「……うん」


 小さな返事。

 けれどそれは、今までのどの言葉よりも確かで、まっすぐな声だった。


 その答えとともに魔域は完全に崩れ去り、荒野を吹いていた乾いた風は消える。

 代わりに頬を撫でたのは、山岳地帯特有の、冷たく澄んだ風だった。


 異界は終わった。

 だが、ユウナとルシエラの物語は、そこから始まるのだった。

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