異常事態――決断
二人はただ沈黙していた。
ユウナもルシエラも、何も言えなかった。
視界の先では、ゴブリンの巣が騒がしく脈打っている。
ゴブリンロードたちが、武器を振り、命令を叫ぶ。
普通のゴブリンたちが走り回り、荷を運ぶ。
そして中央の台座。
ドレイクバロン。
その背に座る存在ーレジェンダリーゴブリン。
まるで王だった。
杯を取り、酒を飲み、リャナンシーが恭しく隣に控えている。
そこにあるのは、ただの巣ではない。
蛮族の宮廷。
そう呼ぶほうがよほどしっくりくる光景だった。
ルシエラの喉が乾いて声が出ない。
唾を飲み込み、ようやく声が出せた。
「……撤退しましょう」
小さな声だった。
だが、迷いはなかった。
「これは……」
視線をもう一度、巣へ向ける。
「私たちが処理していい規模じゃありません」
それは臆病ではない。
当たり前の判断だ。
レベル20。
それが意味するものを、ルシエラは理解している。
ユウナと自分はハイペリオン級冒険者だ。
人族の到達点に近い位置にいる。
けれど、それでも。
レベル20は別格だ。
しかも単体ではない。
ゴブリンロードが大多数を占める、百を超える数の群れ。
ドレイクバロン。
リャナンシー。
それはもう、軍勢だった。
ルシエラは静かに続ける。
「ギルドに報告して、軍隊……騎士団を……」
そこで一瞬、言葉を選ぶ。
「あるいは……始まりの剣級の冒険者」
そこまで必要な案件だ。
これは最早、村のゴブリン退治の依頼で上位種と遭遇したとか、そんな話ではない。
国家レベルの脅威だった。
ルシエラはユウナを見る。
「ユウナ」
真剣な目で。
「今ならまだ、気づかれていません」
森の奥の巣。
ゴブリンたちは騒いでいるが、こちらに注意は向いていない。
距離も十分にある。
このまま飛行魔法で離脱すれば、確実に逃げられる。
「街へ戻りましょう……今すぐ」
この判断は正しい。
ルシエラ自身、それを確信している。
それでも胸の奥が重い。
脳裏に浮かぶのはあの村だった。
木の鎧を着た農民たち。
震えながら槍を握っていた人々。
そして村長の声。
――頼む。追い払ってくれ。
ルシエラは唇を噛む。
「……」
ユウナを見る。
ユウナはまだ〈魔物見の眼鏡〉をかけたまま、巣のほうを見つめていた。
微動だにせず。
風に外套だけが揺れている。
数秒。
長い…長い沈黙。
やがて、ユウナが静かに眼鏡を外した。
ゆっくりと、息を吐く。
そして、ぽつりと言う。
「……150km」
ルシエラが瞬きをする。
「ヴァルクレアから、ここまで徒歩で五日」
静かな声だった。
しかし、そこには感情がこもっていた。
「この規模の群れが村を攻撃したら――」
少しだけ笑う。苦い笑いだった。
「……一瞬ね」
小さく首を振る。
「三分ももたないわ」
ルシエラは何も言えない。
ユウナの言葉が、そのまま現実だからだ。
「ゴブリンのあの様子を見なさい」
慌ただしく動くゴブリン。
粗末な武器を焚火の周りに並べ、気勢を上げている。
「暴発は目前よ……今日の夜に動き出してもおかしくない」
高揚感が高まっている。
決戦前夜と言った感じにも見える。
「国に報せて騎士団を編成したとして、それが来るまで早くて二週間……
今どこにいるかもわからない始まりの剣級なら、もっとかかる」
ゴブリンたちの声が響く。
その言葉の意味は分からないが、不吉な色をはらんでいる。
ユウナはそれを聞きながら言った。
「その頃には――村は無いわね」
沈黙。
ルシエラの拳が、ぎゅっと握られる。
そのとき、ユウナが振り向いた。
目が合う。
その目には、確かに恐怖があった。
緊張もある。
分かっているのだ。
相手がどれほど異常で、どれほど危険かを。
それでも。
それ以上に決意があった。
「ルシエラ」
静かな声。
「聞くけど」
そこで笑う。
しかしそれは、いつもの不敵な笑みではなかった。
唇がわずかに震えている。
恐怖をまとったまま、それでも前を向こうとする笑みだった。
「逃げる?」
一拍。
「私が、逃げられると思う?」
その瞬間、風が止まったように感じた。
遠くで――
レジェンダリーゴブリンが、杯を掲げて笑っている。




