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 空を裂いていた風の音が、少しずつ遠のいていく。


 眼下に広がる森の切れ目。その向こうに、ようやく人の営みの輪郭が見え始めていた。


 小さな畑。

 細く曲がった道。

 そして、村を囲う粗末な柵。


「もうすぐ村に着くわ、ルシエラ」


 前方を見据えたまま、ユウナは静かに告げた。


 高度を落とす。

 風の流れが変わり、二人の外套が大きくはためいた。


「外套はちゃんと身につけなさい」


 その声は、いつも通り落ち着いていた。

 ルシエラはすぐに意味を察し、無言でフードを深く被る。


 頭部の角、ナイトメアの証。


 それは、人族の村において、時に言葉よりも強い意味を持つ。


「閉鎖的な村ほど、穢れに対する忌避感は強い」


 ユウナの言葉に怒りはなかった。

 悲しみもない。

 ただ、長く世界を見てきた者が、事実だけを淡々と並べる響きだった。


 穢れ。


 この世界において、それは魂に刻まれた歪みであり、神の定めた輪廻に逆らう者の証でもある。

 穢れが濃い存在ほど、人の理から遠ざかっていく。


 そしてナイトメアは、生まれながらにしてその境界の上に立たされる種族だった。


 ルシエラはフードの奥で、小さく息を吐いた。


「普通の人が穢れ持ちを警戒するのは、ある意味では当然よ」


「怖いものは怖い。理解できないものは避ける」


 ユウナは肩をすくめる。


「だから、隠せるなら隠す」


「無用な軋轢(あつれき)を生む必要はないわ」


 それは差別を肯定する言葉ではなかった。

 ましてや、憎しみを飲み込めという意味でもない。


 ただ、傷つかずに済む道があるなら、それを選ぶ。

 余計な火種を撒かない。

 そのための、冷静な判断だった。


「一か月あまり、被害と不安に耐えて、ようやく救援が来たと思えば女が二人」


 ユウナはわずかに苦笑した。

「それだけでも、きっと心配になるでしょうしね」


 高度をさらに下げる。

 村の姿が、よりはっきりと見えてきた。


 まず目に入ったのは、村を囲う柵だった。

 太めの木を地面に打ち込み、貫きを通しただけの、急ごしらえの簡易防壁。


 高さも人の身長程度、組み方も粗い。

 長く敵を防ぐためのものではない。

 しかしゴブリン相手なら、ほんのわずかな時間を稼ぐことはできる……その程度の物だ。


 切羽詰まった者たちが、手元にあるもので必死に作り上げた壁だった。


 その内側には、小さな見張り台があった。

 木材を組んだだけの簡素な足場。その上で、村人が周囲を警戒している。


 彼らの身につけているものは、防具と呼ぶにはあまりにも頼りない。


 木片を束ねた鎧。

 板を紐で縛った胸当て。

 手にした武器も、その大半は削った木に、磨いて鋭くした石の穂先を括りつけただけの粗末な槍だった。


 兵ではない。

 冒険者でもない。

 普段は土を耕し、家畜を世話し、季節の移ろいとともに生きている者たち。


 その村人たちが、今は畑ではなく柵の内側にいる。

 数人が柵の内側に沿って外を警戒しながら歩き、近づく者がいないか監視している

 村の中央の広場にも、人が集まっていた。

 男も女もいる。

 老人の姿さえあった。


 誰もが同じように粗末な防具をまとい、不慣れな手つきで槍を握っていた。


 そして柵の外の畑には誰一人いなかった。


 収穫途中の作物が、風に揺れている。

 本来ならば人の手が入るはずの(うね)が、静まり返っていた。


 生活よりも、防衛。

 日々の糧よりも、今日を生き延びること。


 それほどまでにこの村は追い詰められている。


 ユウナの表情がわずかに引き締まった。


「かなり切羽詰まってるわね」

 低く呟く。


 ルシエラも同じ光景を見つめていた。


「……はい」

 返事は小さいが、その声は重々しかった。


 村を包む空気が、ここまで届くようだった。

 張り詰めた緊張。

 押し殺された不安。

 いつ襲われるか分からない恐怖。


 一か月。


 この村は、この空気の中で一か月も耐えてきたのだ。


 ユウナは一度だけ、深く息を吸った。


 そして静かに告げる。


「降りるわよ、ルシエラ」


 飛行の魔法が、ゆっくりと弱まっていく。

 二人の身体は風に逆らうことをやめ、地上へ向かって静かに降下した。


 目指すのは、柵の入り口の前。

 見張り台からもはっきり見える位置。


 突然現れて警戒されないように。

 けれど、逃げ隠れしていると思われないように。


 ユウナは、その場所を選んだ。


 地面が近づく。

 草が風に撫でられ、二人の影が村の前に落ちる。


 そして――


 ふわり、と。


 二人の足が、土を踏んだ。


 まとっていた魔力が、朝靄のように静かに霧散していった。


 見張り台の上にいた村人がユウナ達に気づいた。


「……っ、人だ!」

 目を見開き、身を乗り出すようにして呟く。


「冒険者だ!」

 大きく張ったその声は、乾いた村の空気を裂くように広場に響いた。


 見張り台の村人が慌てて台から降り、門を開けてユウナ達を招き入れた。

「入ってくれ」


 村に入ると、中央に集まっていた村人たちの視線が二人に集中する。

 その反応は様々で、安堵する者、警戒の目を向けてくる者、槍を握る手に力を込める者。

 集会所であろう建物の中からも人の視線を感じる。


 そこにあったのは、警戒と疑念、そしてすがるような期待だった。


 ユウナはその視線を真正面から受け止めると、ゆっくりと中央へ歩み寄った。


 背筋を伸ばす。

 そこにいるのは、さっきまで損得勘定を口にしていた魔術師でも、ソファで溶けていた女でもない。


 ハイペリオン級冒険者。

 その肩書に相応しい顔で、ユウナは静かに告げた。


「ギルドから来たわ。ゴブリン討伐の依頼を受けた冒険者よ」


 大きな声ではない。

 だが、その声は不思議なほどよく通った。


 張り詰めていた空気がわずかに揺らぐ。村人たちは顔を見合わせ、戸惑いと安堵の入り混じった表情を浮かべた。


 やがて、村人の中心にいた年配の男が一歩前に出る。

 木の板を重ねただけの粗末な鎧。木を削って鋭い石器をくくりつけただけの槍。彼は戦士ではない。ただの農民だ。

 それでもこの一か月余り、村を守るために武器を握り続けてきた男の顔をしていた。


「……あんたたち、本当にギルドの冒険者か?」

 慎重な問いだった。


 ユウナは腰から小さな金属板を外し、軽く掲げる。

 それは冒険者証。


「ええ。依頼票を見て来たわ」


 その瞬間、男の肩からわずかに力が抜けた。

 周囲からも押し殺したような声が漏れる。


「本当に来た……」

「やっと……」

「冒険者が……」


 しかし、喜びきるには状況が悪すぎた。


 男はすぐに表情を引き締め、自分の立場を明かした。

「俺はこの村長だ。」


「ユウナよ」

 ユウナは短く応じ、隣に立つフード姿の少女を示した。


「こっちはルシエラ」

 その声に反応して、ルシエラは静かに頭を下げる。


 村長は二人の装備、立ち姿、そして目を確かめるように見た。


 若い女が二人。

 だが、空から降りてきて、無数の視線に晒されながらも、自然な様子で堂々と立っている。ただ者ではない風格が感じられた。


 そう判断したのだろう。村長は広場の中央に設置された簡素な地図板へ視線を向けた。


「最初にゴブリンを見たのは、一か月半くらい前だ。場所は村の西の森。数は三匹だった。畑を荒らして、そのまま逃げていった」


 村人たちが重く頷く。

 誰もが、その日のことを覚えているのだろう。


「しかしまあ、こんなところに住んでればゴブリンなど珍しくもないからな。だから最初は自分たちで退治してやろうと思ったが……」


「十日以上探しても、森に紛れ込んだ奴らを見つけることが出来なかった…

 だから、仕方なく冒険者ギルドに依頼を出したんだ」


「それが一カ月前の話ね?」


 ユウナの言葉に村長は頷いて話しを進めた。

「だが、そのあと数が増えた。五匹、七匹、十匹……そして三週間前、家畜小屋が襲われた」


 村長の声が低く沈む。

「牛を二頭と羊を三匹、持っていかれた」


 広場の後方から、小さな泣き声が聞こえた。


 若い男が一歩前に出る。腕にはまだ包帯が巻かれていた。

「追ったんだ。三人で森まで。でも……」


 そこで言葉が途切れる。

 村長が代わりに続きを引き取った。

「ホブゴブリンがいた。普通のゴブリンより頭ひとつ大きい奴だ。でかい剣を持っていて、群れに指示を出していたらしい」


 包帯の男が、震える声で頷く。

「ゴブリンどもが、あいつの言う通りに動いてた」


 ルシエラが小さく息を吐く。

「統率個体ですね」


 ユウナは静かに頷いた。


「被害は?」


「恐ろしくなって逃げたんだが、仲間が追いつかれて殴られた。

村でたった一人のプリーストである爺さんの魔法のおかげで何とか死なずには済んだ」


「それから奴らは隠れるのをやめて、堂々と森の中を徘徊している」


 広場が重々しい沈黙に包まれる。


「俺たちはもう森には近づいていない。遠くから動く影を監視して、夜は見張りを立てて、全員が武器を持って……こうしている」


 村長が広場を見渡す。

 そこにいるのは、疲れ切った村人たちだった。

 槍を握る手は荒れ、顔には眠れぬ夜の影がある。


 ユウナは村を見た。

 畑。柵。見張り台。


 そして、その向こうに沈黙する森。


「今の数は?」


「正確には分からない。だが、数えられただけでも二十以上はいる」


「一か月でそこまで……」

 ルシエラの声に、かすかな緊張が混じる。


 村長はさらに声を潜めた。

「それだけじゃない。十日程前、森の奥で煙を見た」


「煙?」


「昼間に、まっすぐ上がる煙だ」


 ルシエラの目が鋭くなる。

「……焚き火」


「ああ」

 村長は拳を握りしめた。


「奴らはもう、散り散りに隠れ住むだけじゃない。森に大きな巣を作っている」


 静寂が訪れる。

 村人たちの視線がユウナとルシエラに集まった。


 恐怖。


 期待。


 祈り。


 そのすべてを背負うように、村長は深く頭を下げた。


「頼む。あいつらを……追い払ってくれ」


 それは村長としての命令ではなかった。

 一人の人間の、搾り出すような願いだった。


 ユウナは数秒、森の方角を見つめる。


 それから小さく息を吐いた。

「なるほど」


 そして顎に手を当てる。

「思ったよりは手がかかりそうね」


 それでも敵は所詮ゴブリン、ユウナにしてみれば何十匹で群れようが、ホブに率いられていようが問題はない。

 面倒なのは、討ち漏らして逃がしてはいけないと言う事。


 そのためにはどうするかが悩みの種。


 その時はまだ、その程度の脅威と認識だった。

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