移動手段
街の門を抜けると、石畳はほどなく途切れた。
足元は、幾人もの旅人と荷馬車に踏み固められた街道へと変わる。
吹き抜ける風には、街中の熱気ではなく、草と土の匂いが混じっていた。遠くには緩やかな丘陵と、薄く霞む森の影が広がっている。
普通の冒険者にとっては、ここからが旅の始まりだった。
目的の村までは徒歩で五日。
野営を挟み、天候を読み、魔物を警戒しながら進む距離である。遥か彼方と言うほどではない。しかし、決して気軽な道程でもない。
だが――ユウナの歩調は、すでに旅人のそれではなかった。
「急ぐわよ、ルシエラ」
前を向いたまま、ユウナはそう告げた。
声は落ち着いている。けれど、そこにはいつもの余裕がわずかに欠けていた。
鋭く張り詰めた感情が、言葉の端に滲んでいる。
「そんなに急ぐ必要がありますか?」
隣を歩くルシエラが、静かに問いかける。
まだ背後にはヴァルクレアの外壁が見えていた。
急いだところで、今この瞬間に村が滅びると決まったわけではない。
依頼を受けたのもつい先ほどのことだ。理屈の上では、ユウナが焦る理由などどこにもない。
しかし、ユウナは小さく舌打ちした。
「十日も宿でごろごろしてるくらいなら、もっと早く動けばよかった」
その声は、自嘲に近かった。
「少し……傲慢になっていたわね」
誰かに責められたわけではない。
しかし、その言葉は明らかに、自分自身へ向けられていた。
ハイペリオン級。
街の守護者。
英雄。
いつの間にか、そんな肩書きを当然のように受け入れていた。
自分が動けばどうにかなる。自分が出れば間に合う。そう思うことに慣れ始めていた。
ルシエラはしばらくユウナの横顔を見つめてから、穏やかに言う。
「依頼を受けたのは今日です。ユウナに責任はありませんよ」
だが、ユウナは首を振った。
「違う」
短く、はっきりとした否定だった。
「責任の話じゃないの」
ユウナは遠くへ目を向ける。
その先に、まだ見えない村がある。
「一か月」
ぽつりと落とされた言葉は、風に攫われそうなほど静かだった。
「その村は、一か月も助けを待っている」
ルシエラはそれ以上、何も言わなかった。
ユウナが本気で自分を責めているのだと分かったからだ。
理屈ではない。義務でもない。けれど、それでも見過ごせなかった。助けを求める声が届いていたのなら、届いたその時点で、彼女にとってはもう他人事ではなくなる。
やがて、ユウナは足を止めた。
「のんびり歩いてなんていられないわ」
その瞬間、彼女の周囲の空気がかすかに揺らいだ。
肌を撫でるような、静かな魔力の高まり。
足元の小石が、震えるように音もなく浮き上がる。
「飛ぶわよ」
ルシエラがわずかに目を見開く。
ユウナは右手を軽く掲げた。
「真、第十階位の動」
空気が震える。
「解放、重力、疾走――」
魔力が一点へ収束し、世界の重さそのものをほどいていく。
「飛行」
そして、短く告げた。
「【フライト】」
ふわり、と重力が緩んだ。
ユウナの身体が地面を離れる。続いてルシエラの身体も、見えない手に抱え上げられるように浮かび上がった。
風が二人の外套を揺らす。
ルシエラは足元を見下ろした。つい先ほどまで踏みしめていた街道が、すでに数メートル下にある。
「……話には聞いたことがありましたが」
感心したように、ルシエラが呟く。
「すごい魔法ですね」
ユウナは空を見上げながら、頭の中で素早く計算を組み立てていた。
「村まで徒歩で五日。距離にして、おおよそ150km」
指を折る。
「この魔法なら時速54km。つまり――」
ほんの少しだけ、口元を上げた。
「三時間もあれば着けるわ」
普通の冒険者なら五日を要する距離。
それを、たった三時間。
高位真語魔法の力は、やはり常識の外にあった。
だが、ユウナの表情は晴れない。
「【フライト】の消費MPは8。二人分で16。持続は一時間」
淡々と続ける。
「三時間飛ぶなら、三回分必要」
「……結構使いますね」
「ええ」
ユウナは懐から小袋を取り出した。中には青白い輝きを宿した石がいくつも収められている。
魔晶石。
「現地では何があるか分からない。だから、MPはできるだけ温存するわ」
石をひとつ指先で弾き、ユウナは苦い顔をした。
「魔法一回につき、8点の石を一人1個。一時間で2個。三時間なら6個」
そこで一度、言葉を切る。
「合計9600ガメル」
ルシエラは一瞬だけ黙った。
「……報酬は?」
ユウナは、絞り出すように答えた。
「500ガメル」
風が吹き抜けた。
二人は空中に浮いたまま、数秒だけ沈黙する。
やがて、ルシエラがぽつりと呟いた。
「……大赤字ですね」
「大赤字ね」
ユウナは渋い顔で頷いた。
だが、すぐに空を見上げる。
「でも、これは戒めよ」
その口元に、わずかな笑みが戻る。
「次からは宿でごろごろするのは、五日までにしましょう」
ルシエラは数秒考え、それから小さく笑った。
「……五日でも長いと思いますけど」
「大事なの」
ユウナは真顔で言い切る。
「休むことも、戦士の仕事だから」
言い終えると同時に、彼女は前方へ身体を傾けた。
冗談めいた空気が、そこで終わる。
瞳の奥に宿った光が、戦場へ向かう者のそれに変わった。
「行くわよ、飛び方は分かるわね?」
ユウナの言葉にルシエラが頷く。
空を飛ぶなど初めてのはずなのに、どうすればいいのかが不思議と理解できる。
魔力が再び流れる。
次の瞬間、二人の身体は風を裂いて加速した。
街道が足元を流れていく。
森が後方へ飛び去る。
丘を越え、川を越え、視界のすべてが高速で押し流されていく。
時速54km。
それは人が走る速度ではなかった。
もはや、鳥の速度だった。
ルシエラは横目でユウナを見る。
そこにいるのは、つい先ほどまで宿のソファで溶けていた少女ではない。
己の怠慢を悔い、それでも立ち止まらず、次の一歩を選ぶ冒険者だった。
遠く、まだ見えない村の方角へ。
二人の影は、一直線に空を駆けていった。




