辺境都市ヴァルクレア
昼下がり。
昨夜の死闘の疲労から泥のように眠り続け、ようやく身体が睡魔に満足したころ、ルシエラはゆっくりと目を開けた。
静寂。
規則正しい寝息。
そして――
「…………そう、こうなるのね」
小さな独白が漏れる。
ルシエラは仰向けのまま、しばらく天井を見つめていたが、やがて自分が置かれている状況を改めて確認し、静かに息を吐いた。
動けない。
比喩ではなく、物理的に。
がっちりとホールドされている。
腰へ回された腕は、まるで逃がす気など最初からないと言わんばかりに力強く、さらに片脚まで絡め取るように乗せられているせいで、自由と呼べるものはほとんど残されていなかった。
そして何より問題なのは――顔だった。
ユウナの顔が、ルシエラの胸元へ、あまりにも自然に、あまりにも堂々と埋まっている。
「これが……せんりょくさ……むにゃむにゃ……」
寝言だった。
しかもそのまま、無意識のままに頬をすり寄せ、柔らかな感触へ押しつけるように身じろぎする。
「やめてください」
小声で抗議してみるが、当然ながら眠っている相手に届くはずもなく、ユウナは何事もなかったように安らかな寝息を続けている。
昨夜、酔い潰れたユウナをどうにかベッドへ運び、布団を掛け、自分は反対側へ静かに横になった――はずだった。
だが、今の配置は明らかにおかしい。
ただの寝返りか。
ぬくもりを求める本能か。
酔いの残滓か。
原因は不明。
結果だけは明白だった。
完全拘束。
胸元で、また小さな動きがあった。
ユウナの顔が、何かを確かめるように押し当てられる感触がして、ルシエラは思わず眉間に皺を寄せる。
「規格外……これは……強い……」
「……評価しなくていいです」
ルシエラの頬がじわじわと熱を帯びる。
押し返そうと試みるがしかし、ユウナは眠ったまま、抱きしめる力をわずかに強めた。
まるで、安心材料を手放すまいとするように。
その顔は穏やかで、無防備で、戦場で見せた冷徹さも、強者としての鋭さも、そこには少しも残っていなかった。
「……」
ルシエラは小さく息を吐く。
変異種との戦闘。
あの張り詰めた空気。
一歩間違えば、どちらかがここにいなかった。
いや――ユウナが死んでいれば、自分もきっと。
そんな思いが、胸の奥に静かに沈んでいる。
ぎゅ、と無意識に抱き寄せるユウナ。
まるで確認するように。
生きていると。
隣にいると。
安らかな寝息。
ルシエラは少しだけ力を抜く。
本気を出せば、抜け出すことはできる。
だが――
「……あと五分だけ」
そう呟いて目を閉じた。
胸元に感じる温もりと重み。くすぐったさと、妙な安心感。
やがて、ユウナが小さく身じろぎした。
「……ルシエラ……」
今度ははっきりと名前を呼ぶ。
夢の中ではなく、意識の縁で。
ゆっくりと瞼が開く。
数秒の沈黙。
状況認識………視線が上へ……下へ………そして静止。
「……」
「……」
さらに数秒。
やがてユウナが、かすれた声で言った。
「……おはよう」
「おはようございます。離れてください」
一瞬の間。
ユウナはゆっくりと腕をほどく。
だが最後に、ぽん、とルシエラの胸を軽く叩いた。
「戦力差、確認完了」
「私も確認していいですか?」
冷たい声だった。
ユウナは慌てて布団から転がり出る。
「冗談よ冗談!」
昨夜の酔いはすっかり抜け、いつもの調子が戻っている。
だが、ほんの一瞬だけ見えた表情――
心底安堵したような、柔らかな顔を、ルシエラは見逃さなかった。
「今日はどうしますか?」
努めて平静にそう尋ねた。
―――
睡魔も酔いもすっかりと抜け、ユウナは鎧ではなく軽装に身を包んでいた。
三階フロアをぶち抜いた広い空間の窓を開け放つと、昼の風がさらりと入り込む。
ここからは、街の屋根も、街壁も、その向こうに広がる森まで見渡せた。
ユウナはしばらく外を眺めてから、ふと思い出したように振り返る。
「そういえばルシエラ、この街に来て何日か経つけれど、まともに行った場所ってここ東区のギルド周りくらいよね」
――ヴァルクレアの街は、大きく5つのブロックに分けられている。
北は領主の館がある貴族街。
東は冒険者ギルドと、それに関係深い店や宿。二人が住む宿もこの区域である。
南は主に民家が並ぶ一般居住区。
西は技術者が住む職人工房。
そして中央が商業区として、様々な店が軒を連ねている。
北の貴族街のみ、高い壁で覆われており、出入りが厳しくチェックされている。
少し考えてから言った。
「今日は街を案内するわ。お昼も、いいお店があるからそこで食べましょう」
ルシエラは頷き、いつもの黒い外套へ手を伸ばす。
フード付き。ナイトメアの象徴である角を隠すためのものだ。
だが……
「それは要らないわ」
静かな声だった。
しかし、有無を言わせない響きがあった。
ルシエラが視線を向けると、ユウナは軽い街歩き用のマントを肩へ掛けながら続けた。
「今日は完全に休息。訓練もなし。ただ街をぶらつくだけ」
ルシエラは少し迷ったあと、はっきりと聞いた。
「……角は、いいんですか?」
聞くべきことは聞く。その姿勢に、ユウナはどこか満足そうな笑みを浮かべた。
「この街でそれを隠す必要はないわ」
そのまま二人は宿の階段を降り、外へ出る。
石畳の通りへ一歩踏み出した、その瞬間だった。
「あ、ユウナだ!」
子供たちの声が弾ける。
木剣を持った少年が、駆け寄ってくる。
「昨日、森のやつ倒したんでしょ!? すげー!」
「どこで聞いたか知らないけど、正式発表はまだよ。尾ひれを付けて広めないこと」
そう言って、ユウナは少年の頭を軽く小突いた。
子供たちは、叱られたというより遊んでもらったとでも言いたげに、きゃっきゃと笑っている。
その視線が、自然にルシエラへ向いた。
一瞬。
自分の角へ向けられた視線を感じて、ルシエラの身体に力が入る。
だがそこにあったのは、差別でも、拒絶でも、警戒でもない。
ただの好奇心だった。
「このおねーちゃんは?」
ユウナは胸を張って答える。
「私の相棒よ」
その一言で十分だった。
「よろしくな!」
「ナイトメアなんだ、すげー!」
「かっけー! !」
無邪気な挨拶と羨望の声。
角に怯えた様子はどこにもない。
ルシエラは少し戸惑いながらも、小さく返す。
「………よろしくお願いします」
通りを進み、二人は街の中央区にある市場へ入った。
威勢のいい声が飛び交い、魚や野菜、香辛料や焼き菓子の匂いが混ざり合うその場所は、ただ歩いているだけで生活の熱が伝わってくるようだった。
魚屋の親父がユウナを見るなり、大声を張り上げた。
「おう、ハイペリオン級! 今日は何にする!?」
「今日は新しい相棒に街を見せて周ってるのよ」
「何だよ、買い物じゃねえのかよ。まあいいや、今日は活きのいいのが入ったんだ、持っていってくれ!」
「まったく……後で請求書を回しなさい」
「野暮言うな。ほら、そっちの姉ちゃん、これ持っていきな!」
気づけばルシエラの手は、魚が入った木桶を、しっかりと持たされていた。
魚屋を後にした後、歩きながら小声で問う。
「どうしてこんな風に……」
ユウナは真面目な顔で。
「示すのは力。与えるのは安心。返ってくるのは信頼と好意」
少し考えてから、笑って付け足す。
「……と、多少の打算かな」
ルシエラはなんとも言えない顔になった。
市場を歩いていると、昼間から酒を飲んでいるドワーフが声をかけてきた。
「おいユウナ、お前さんの剣、随分とそのままだろう。魔剣だからって手入れを怠るなよ。また今度持って来い、優先でやってやる」
「他のお客さんをないがしろにしちゃダメよ」
「当たり前だ」
ぶっきらぼうな言い方だが、その目は笑っていた。
さらに通りの向こうでは、コボルドが身の丈より大きな箒を抱え、せっせと道を掃いている。
住民たちは自然に「ご苦労さん」と声を掛けて通り過ぎる。
ウィークリングの子供が、人族の子供と一緒に鬼ごっこをしている。
角も、牙も、尻尾も、ここでは日常の一部だった。
ユウナが歩きながら言う。
「この街ではね、穢れに対する警戒はほとんどないわ」
その声は穏やかだった。
「もちろん、完全に消えたわけじゃないし、昔は違った」
一瞬だけその目が遠くを見る。
その先にあるのは、今の街ではなく、ここに至るまでに積み重ねられてきた時間なのだと、ルシエラには分かった。
「でもね、恐怖は無知から生まれる。なら、見せ続ければいいのよ。穢れが必ずしも脅威じゃないって」
ルシエラは黙って隣を歩く。
フードは被っていない。
角は陽光を受け、はっきりと見えている。
だが、誰も気にしない。
気にする必要がないからだ。
通りの奥、静かな路地を指して、ユウナがさらりと言う。
「他にラミアの娼館なんかもあるわよ。行きたい?」
「い、行きません!」
思わず声が大きくなる。
ユウナはけらけらと笑う。
「冗談よ。昼間から行く場所じゃないわ」
昼間でなければ行くのか?……と、ルシエラは一瞬思ったが、口には出さなかった。
さらに歩く。
私塾の前を通ると、窓の向こうに、バーバヤガーの教師が子供たちに読み書きを教えている姿が見えた。
ユウナが苦笑する。
「……まあ、警戒心が薄れすぎて危うさもあるけど」
そうして立ち止まり、辺りを見渡して
「そこは、私たちが守ればいい」
と、当たり前のように言った。
誇示でもない。
虚勢でもない。
ただの事実確認だった。
ルシエラはその横顔を見る。
何もないどころか、マイナスから始まったはずの人だ。
偏見。
恐怖。
実力不足。
孤独。
そういうものを、一つずつ力と結果で塗り替えてきた。
だから今、この街では角を隠す必要がない。
「……すごいですね」
ぽつりと零れた言葉に、ユウナは
「積み上げただけよ」
そう言って柔らかく笑う。
「ここからは、あなたも積み上げるのよ」
風が吹いた。
街の匂いを含んだ昼の風が、ルシエラの髪を揺らし、隠されることのない角をそっと撫でていく。
その隣で、ユウナは当然のように並んで歩いている。
もう視線は怖くない。
この街で。
この人の隣で。
ルシエラは初めて、角を気にしなくてもいい場所があるのだと知った。




