勝利の重さ
真夜中。
あてがわれた清潔な寝室。
ふかふかのベッドに横たわりながら、彼女は天井の木目を凝視し、今日という一日を反芻していた。
「わたくしは……本当に、しっかりと戦えていたのでしょうか」
脳裏を過るのは、初めて経験した命のやり取り。
神官戦士としての立ち回り。
戦況の分析。
魔法を行使するタイミング。
最善を尽くしたつもりだった。
だが、現実は泥にまみれ、血に濡れた凄惨なものだった。
魔力は完全に底を突き、ユウナから預かった高価な魔晶石の魔力も使い切った。
最後は満身創痍で、もしグレイブが命を賭してトルーパーの動きを封じてくれなければ、今ごろ自分はこの世にいなかったかもしれない。
「勝った……と、胸を張って言えるのでしょうか」
自己嫌悪に似た感情が、胸を締め付ける。
しかし、思考が闇に沈みかけた瞬間、メイベルはユウナの言葉を思い出した。
かつて伝説のレジェンダリーゴブリンとの死闘について聞いた際、彼女は笑ってこう言ったのだ。
「格上を相手にしているんだもの、苦戦して当然よ。私だってあの時は、本当に死にかけたんだから」
あばら骨は残らず砕け、意識が途切れる寸前まで追い込まれたという。
吟遊詩人の詩には一行も出てこない生々しい事実。
その話を聞いたときは、あまりの壮絶さに気が遠くなったが、今のメイベルにはその言葉が何よりの救いだった。
「そうですね……」
メイベルは、天井に向けて伸ばした小さな手をぎゅっと握りしめた。
「とにかく、勝った……それでいい」
ボロボロでもいい。
アイテムを使い切ってもいい。
勝つことが第一。
勝ったから、次がある。
次は、もっと……うまく戦える。
そう自分を鼓舞し、重い瞼を閉じる。
…………………
だが、どれほど時間が経過しても、眠気は一向に訪れなかった。
初の実戦を終えた昂りだと自分に言い聞かせようとしたが、それは欺瞞だった。
別の、もっと暗く、粘りつくような感覚が這い上がってくる。
静まり返った部屋の中で、五感が勝手に“戦場”を再現し始めた。
むせ返るような鉄錆の匂い。
肌を裂かれたときの、熱を帯びた鋭い痛み。
「あ……」
掌に、トルーパーを突いた時の衝撃が蘇る。
刃が肉を断ち切る時の、生理的な嫌悪感を伴う感触。
自分の顔に降りかかった、生温かい返り血の感触。
耳元で響く、断末魔の絶叫。
そして、今際の際に自分を呪うように射抜いた、あの濁った瞳。
「……あれ?」
歯の根が合わず、カチカチと音が鳴る。
「勝ったのに……わたくしは、勝ったはずなのに」
小刻みだった震えは、瞬く間に全身を揺らす大きな痙攣へと変わった。
肺が上手く呼吸を制御できない、過呼吸気味に胸が上下する。
視界が涙で歪み、胃の奥から酸っぱい塊がせり上がってきた。
「う……ぶっ!」
メイベルは口を押えて布団を跳ね除け、トイレへと駆け込んだ。
「おえぇっ!」
陶器の縁を掴み、胃の中にあるものをすべて吐き出す。
苦い胃液と共に、己の罪悪感が溢れ出してくる。
「わたくしは……この手で……」
相手は蛮族。
特にボガード種は話し合いなど一切通じない。
遭遇すれば殺し合うしかない……人族の敵。
しかし同時に――確かな意志を持ち、生きていた者。
「殺した……!」
目を閉じれば闇の中に死の間際の顔が浮かび、耳を塞げば絶叫がこだまする。
「おぇっ! げほっ、げぇぇっ!」
何度も、何度も嘔吐を繰り返す。
涙と鼻水、そして吐瀉物で、高貴な王女の面影など微塵もないほどに顔はぐしゃぐしゃに汚れきっていた。
「え……ひぐっ、うあぁぁ……っ」
恐怖、嫌悪、自責。
整理できない感情が濁流となって押し寄せ、メイベルは冷たい床に蹲って、声を抑えることもできずに泣きじゃくった。
その時だった。
「大丈夫よ……。大丈夫だから……」
優しい、羽毛が触れるような声と共に、震える背中にそっと温かい手が置かれた。
その掌を中心にして、凍てついていた体中に柔らかな熱が広がっていく。
涙ながらに振り返ると、そこには夜着姿のユウナがいた。
彼女は慈しむような微笑みを浮かべ、メイベルの背をゆっくりとなだめるように撫でていた。
「ゆうな、さま……わたくし……っ」
メイベルの声は掠れ、消え入るようだった。
「そうね。あなたはまだ十歳で、つい最近までお城の温室にいたんだもの。戦場なんて、知らなくて当然よ」
その声は、普段の訓練や昼間の講評の時とは違っていた。
厳しさではなく、包み込むような優しさがあった。
ユウナは濡らしたタオルで、メイベルの顔の汚れを優しく、丁寧に拭い取った。
「どんなに強い覚悟を持っていても、身体が追いつかないことはあるわ。
……『慣れなさい』とは言わない。いつかそれを乗り越える強さを身につけなさい」
ユウナは一息置くと、蹲る小さな身体を優しく抱きしめた。
「でも、今日は私が助けてあげる。……初勝利のご褒美よ」
ユウナはメイベルを抱きかかえるようにして寝室へ戻ると、彼女をベッドに寝かせて、自らも同じ掛け布団の中に入った。
「ユウナ様……。わたくし、あんな……お見苦しいところを……」
ユウナにしがみついたまま、メイベルが消え入りそうな声で呟く。
「見苦しくなんてないわ。
私だって、初めての戦闘の後はブルったものよ」
「ユウナ様が……?」
「当然でしょ。最初から平気な人間なんて、ろくなものじゃないわ」
そう言って、ユウナはメイベルの頭をそっと撫でた。
「さあ、目を閉じて」
ユウナの声は、夜よりも静かだった。
「今日はずっと一緒にいてあげるから、このまま眠りなさい」
メイベルは自分を包み込むユウナのぬくもりと、微かに漂う石鹸の香りに、安堵の涙をこぼした。
あれほど恐ろしかった闇が、今はただの静かな夜に戻っていく。
やがて、強張っていた小さな肩から力が抜け、メイベルはユウナの腕の中で、規則正しい寝息を立て始めた。




